こんにちは!ユアムーン株式会社 編集部です!
突然ですが、皆さんはアルフォンス・ミュシャという画家を知っていますか?
19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した、アール・ヌーヴォーを代表する人物です。
この記事ではアルフォンス・ミュシャの『人生』と『作品』についてご紹介します!
アルフォンス・ミュシャとは?
アルフォンス・ミュシャ基本情報
本名 | アルフォンス・ミュシャ |
出身 | 現 チェコ共和国・イヴァンチッツェ |
生年月日 | 1860年7月24日〜1939年7月14日(享年79歳) |
学歴 | アカデミー・ジュリアン アカデミー・コラロッシ |
関連サイト | プラハ・ミュシャ美術館 |
経歴と作品
ミュシャの下積み時代
アルフォンス・ミュシャは1860年にチェコで生まれました。
幼い頃から芸術に関心があり、街にある彫刻を眺めたり絵を描いたりして過ごしていたそうです。
17歳のとき、ある教会のフレスコ画に感銘を受け、画家になることを決心しました。
1879年、19歳のときに舞台装飾画家として一度ウィーンに渡りましたが、劇場の火事によって職を失ってからは故郷の近くへ戻り、地元の名士の肖像画を描くことで生計を立てていました。
そのような厳しい生活の中で地元のクーエン=ベラシ伯爵と出会い、1883年から6年間雇われることとなりました。
ミュシャは伯爵が所有する城にある絵画の修復や壁画の制作といった仕事を任され、着々と絵画の腕を磨きました。
更に伯爵から援助を受けてミュンヘンにある芸術アカデミーに入学すると、2年後の1887年からはパリに渡り、アカデミー・ジュリアンで絵画を学びました。
しかし1890年代には伯爵の援助が打ち切られ、雑誌の挿絵を描くことで収入を得ていました。
そんな中、ミュシャの作品が初めて脚光を浴びたのは1894年で、サラ・ベルナール主演の演劇『ジスモンダ』のポスターを制作したことがきっかけです。
ポスターがパリの街に貼られるや否や町中で人気を集め、ミュシャは一躍アール・ヌーヴォーを代表する画家へと上り詰めました。
*アール・ヌーヴォーとは、19世紀末から20世紀初頭にかけての新しい芸術運動で、花や植物といった有機的なモチーフや自由曲線、プラスチック等の新素材といった従来の枠に囚われない装飾性が特徴です。
この作品はミュシャの名を世に広めただけでなく、モデルとなったサラ・ベルナールの女優としての人気も底上げしたそうです。
その素晴らしい出来がサラ・ベルナールに気に入られ、彼女と6年間の契約を結びました。
ジスモンダ(1894年)
パステルカラーの色合いや背景のアラベスク様式のタイトルが美しいですね。
中央の女性の浮き出ているような立体感は非常にインパクトがあります。
また、衣装の曲線的でボタニカルなデザインにアール・ヌーヴォーの面影を感じます。
ミュシャを有名にした運命的な作品ですが、なんとクリスマス前に急遽注文を受けて年明けには完成させなければならなかったそうです。
わずか1週間で仕上げたとは到底考えられませんが、ひょっとすると、余白の部分にはまだデザインを書き足す予定だったのかも知れませんね!
サロン・デ・サン(1897年)
こちらは美術文芸雑誌『ラ・プリュム』を主催していたレオン・デュシャン主催の画廊で開催されたポスター展「サロン・デ・サン」のためのものです。
ここでも花のモチーフや幾何学的な模様が見られ、更にメインとなる女性が浮き出るように描かれています。パステルな色合いにもミュシャらしさが感じられます。
一世を風靡したミュシャ
サラ・ベルナールとの契約をきっかけに、ミュシャの作品は更に注目を集めるようになりました。
印刷所をパリから南下したサンブノワに移し、サラのポスターや装飾パネルの制作に没頭しました。
ミュシャは「全ての人に芸術を届けたい」という思いで、作品を安価で大量生産することのできる「リトグラフ」という印刷方法を採用していました。
18世紀末に発明された版画技法の一つで、吸湿性のある石灰岩の表面にクレヨンのような油性の画材で絵を描き、水と油がたがいにはじき合う原理を応用して刷ります。
凸凹な表面を必要としないため、版画を掘るという工程をカットできます。
更に画家が描いたものをそのままの形で刷ることができるため、比較的クオリティーの高い作品を大量生産できるのです。
ミュシャの作品に多い装飾パネルはリトグラフで制作されたものです。
ポスターとの違いは宣伝の文言が無いという点で、室内に飾って芸術を楽しむことが目的とされていました。
1896年に最初の装飾パネル『四季』が完成してからは、翌年にパリやプラハで個展が開催されました。
四季(1897年)
春夏秋冬をそれぞれ擬人化させた女性がモデルとなっています。
神の色や服、頭の花冠も全て季節に合わせて繕われています。
表情も様々で、春は柔らかく、夏は涼しげで、秋は豊かで、冬は寒さに耐えるような少し厳しい顔つきをしています。
ミュシャらしい装飾性と柔らかな曲線は、女性の美しさをいっそう引き立てています。
背景に注目すると、春は花に囲まれ、夏は鮮やかな青空が広がり、秋は紅葉とオレンジの夕焼け、冬は雪を被った枝の様子が描かれています。
季節の移り変わりが美しく表現されていますね。
ミュシャの転機
わずか5年で地位を手に入れたミュシャ でしたが、オーストリア政府から1900年のパリ万博のボスニア=ヘルツェゴビナ館の内装を依頼されたことが、彼の作品制作に転機を与えました。
準備のため、当時『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていたバルカン半島を訪れると、国際政治危機に巻き込まれたスラヴ民族の複雑な境遇を目の当たりにしました。
実際スニア=ヘルツェゴビナ館の作品が銀賞を獲得するなどして、依頼された仕事を見事にやり遂げたものの、祖国チェコがオーストリアからの支配に苦しむ現実と自分が受けた仕事に矛盾を感じ、苦悶します。
その葛藤はのちに『スラヴ叙事詩』制作のきっかけとなりました。
『スラヴ叙事詩』はミュシャが1910年から後半生かけて完成させた全20作に渡る大作で、古代から近代に至るチェコの歴史や偉人を描き、祖国の同胞へと捧げたものです。
そんな大作の制作には莫大な資金が必要でした。
そのため、1904年からはニューヨークに渡って富裕層の肖像画を描いたり、美術学校で教鞭を執ることで資金を集めました。
更に1909年に親スラヴ主義者チャールズ・R・クレインから『スラヴ叙事詩』制作の賛同を受け、更なる資金の獲得に成功しました。
ついに翌年1910年からはアメリカでできた妻子とともにチェコに渡り、生涯をかけた制作に取り掛かったのです。
オーストリアパビリオンのポスター(1900年)
こちらは依頼されたオーストリアパビリオンのポスターです。
女性が2人描かれていますが、当時オーストリアがハンガリー を支配する二重帝国となっていたことを暗示しているのではと言われています。
ミュシャらしい華やかで美しいデザインですが、女性の暗い表情や強い眼差しに、当時の東ヨーロッパに漂っていた重苦しい雰囲気が見て伺えます。
叙事詩制作中は、作品が出来上がる度に毎年2点以上プラハ市へ寄贈しました。
作品の寄贈だけでなく、晴れてチェコスロヴァキア共和国が誕生した際には切手や紙幣、国章のデザインも手掛けました。
1928年、完成した『スラヴ叙事詩』の全作品をチェコ国民及びプラハに寄贈することを発表しました。
スラヴ叙事詩 『原故郷のスラヴ民族』
こちらは『スラヴ叙事詩』の一つ目となる作品です。
3世紀から6世紀に、当時のスラヴ人がヨーロッパ各地から侵略を受けていたことが表現されています。
右上には平和を願う多神教の司祭、手前には逃げる2人のスラヴ人、奥には略奪者たちが描かれています。
スラヴ叙事詩『スラヴ民族の讃歌』
一方こちらは叙事詩最後の作品です。
ミュシャの集大成とも言えます。
スラヴ民族の独立が表現されているのですが、この一枚には様々な意味が隠されています。
まず、色が4つに分かれていることに注目しましょう。
実はスラヴの歴史が時系列で表されていて、青がスラヴ神話、赤が中世、黒がフス戦争の抑圧時代、黄色がチェコスロヴァキアの独立です。
更に、中央で大きく描かれている青年は第一次世界大戦後に独立した多くの国家を象徴しています。
そして多くの人が持っている花輪は、平和を願う祈りが込められています。
また、独立のきっかけとなった連合軍側のアメリカやロシアの国旗が描かれ、感謝が示されています。
アメリカの国旗が際立っているのは、出資者であるアメリカ人のリチャード・クレーンへ敬意を表したのでしょう。
一枚の作品でも、たくさんの発見がありますね。
大作の完成を終えたミュシャは1936年にパリへ渡り、回顧展を開催しました。
そこで『人生と創作についての三つの発言』を著作したのを最後に、1939年、79歳のときに肺炎で亡くなりました。
ドイツのチェコ侵攻に際し、フリーメイソンの会員であることを理由に逮捕され、釈放された直後のことでした。
誰よりも平和を願っていたであろうミュシャが、人生の最後で争いに巻き込まれてしまったことが残念でなりません。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回はアルフォンス・ミュシャについてご紹介しました!
伝統に囚われないデザインは、今日でも見る人に新鮮で洗練された印象を与えてくれます。
芸術や祖国に対する熱い想いから、ミュシャが愛に溢れた魅力的な人物であったことが伺えますね!