こんにちは、ユアムーン編集部です。
皆さんは「グランヴィル・レドモンド」という画家をご存知でしょうか?
レドモンドはトーナリズムと印象派の作風で人気を博した全ろうの画家でありながら、パントマイムなど非言語コミュニケーションに長け、チャールズ・チャップリンの映画にも出演していた人物です。
今回はそんなグランヴィル・レドモンドの人生と作品をご紹介していきます!
グランヴィル・レドモンドってどんな人?
本名 | グランヴィル・リチャード・シーモア・レドモンド(Granville Richard Seymour Redmond) |
生年月日 | 1871年3月9日 |
出身 | アメリカ ペンシルバニア州 フィラデルフィア |
学歴 | カリフォルニア・スクール・オブ・デザイン、アカデミー・ジュリアン |
分野/芸術動向 | 風景画 / トーナリズム、印象派 |
人生と作品
生まれと環境
レドモンドは、1871年3月9日にアメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアにて生まれ、カリフォルニア州サンノゼで育ちます。
彼は2歳半のときに猩紅熱(しょうこうねつ)を患い、全ろうとなってしまいます。言葉を聞いて言語能力を鍛えるという幼少期の過程がなくなってしまったレドモンドは、全ろうになるまでに身につけていた言語能力も衰えてしまい、彼は言葉を喋ることもできなくなってしまいます。
サンノゼに引っ越したレドモンドは、8歳からカリフォルニアろう学校の寮生として入学し、手話を学んでいきます。たまたま、この学校の校長は聴覚障害者の生徒にとって芸術は理想的な科目であり、活躍できる仕事を見つけることができると信じている人物でした。
レドモンドはこの学校で芸術的な才能を発揮し、同じくろう者である美術教師のテオフィラス・デストレラから影響を受け、絵画、デッサン、パントマイムを学びます。デストレラは生まれつき耳が聞こえず、バルビゾン派や印象派など野外で描かれる絵画に関心を持つ人物でした。
カリフォルニア・スクール・オブ・デザインとアカデミー・ジュリアンに通う
レドモンドはカリフォルニアろう学校を卒業すると、カリフォルニア・スクール・オブ・デザインに入学します。ここでは美術の他に、同じく聴覚障害者である学生たちと交流したり、演劇やパントマイムなども学び非言語コミュニケーションの能力も高めていました。
この学校では生涯の友となるゴッタルド・ピアッツォーニと出会い、共にスケッチや絵画の旅などをすることになります。
1893年、レドモンドはパリの美術学校「アカデミー・ジュリアン」に留学します。パリでは、5年間カリフォルニアろう学校の卒業生であり彫刻家のダグラス・ティルデンの元に住み、経済的に不安定な生活を送りつつも、1895年のサロン・ド・パリに入選するほどに彼の作風と実力は成長していました。
しかし、不安定な生活には変わりなくフランスでの成功を諦めることになります。
サロン・ド・パリで入選した絵画 「冬の朝(Matin d’hiver)」
アメリカに帰国する – 結婚とキャリア
1898年にロサンゼルスに戻った27歳のレドモンドは、フランスで大きな成功を収めることができなかったことと経済的な将来への不安からうつ病を患っていましたが、これを克服しスタジオを開いて再び絵を描き始めます。
また、レドモンドはイリノイろう学校の卒業生であるキャリー・アン・ジーンと結婚し、最終的に夫婦の間には3人の子供が生まれました。
トーナリズムの作品
レドモンドの初期の作品は薄暗い色調で静かな雰囲気を持つ作品が多く、トーナリズム(色調主義)の特徴が見受けられます。
これらの作品はレドモンド自身の心の内面を表しているためか、彼が気に入っている作品が多いようです。
作風の変化
落ち着いた画風の作品を好み、描いていたレドモンドですが時が経つにつれ印象派的な鮮やかな配色を使用するようになり、これまで使用していた暗い色調を避けるようになりました。
バルビゾン派が開拓した戸外制作に倣い友人のピアッツォーニとともにカリフォルニアの田園や海岸に赴き描かれた作品達は人気を博し、特に人気があったのは金色のポピー畑を描いた絵画でした。
レドモンドは、ポピーの絵は「人気すぎる」、そして自分の好きな「トーナリズムの絵は買ってくれない」と嘆いていたそうです。
チャップリンとの出会いと俳優業の始まり
1916年、第一次世界大戦の影響により美術市場は急激に悪化します。
レドモンドは高い評価を得ていましたが、画廊の閉鎖など様々な問題から絵画で家族を養うことを不可能だと考えたレドモンドは映画業界に目を向けます。
この時代の映画はまだ無声映画であり、ろう者であることに加え喋ることができないレドモンドでも健常者の俳優と対等に渡り合うことができました。さらにレドモンドは少年期から青年期にかけてパントマイムを学んでいたため優れた非言語コミュニケーション能力を持っており、無声映画にうってつけの人材だったのです。
レドモンドは美術評論家のアンソニー・アンダーソンから紹介状を貰い、ハリウッドに挑みました。
そしてそこで出会ったのが、当時28歳ですでに世界的に有名になりつつあった無声映画俳優であり映画監督の「チャーリー・チャップリン」でした。
チャールズ・チャップリン
レドモンドの芸術的才能だけでなく非言語コミュニケーションの才能にも感銘を受けたチャップリンは、「犬の生活(1918)」の酒場の主人役から始まり、「キッド(1921)」の美術鑑賞の友人役など様々な映画でレドモンドを起用しました。
この影響で、チャップリンの映画だけでなくダグラス・フェアバンクス、レイモンド・グリフィスなど他の映画監督の作品への出演に繋がりハリウッドで最も有名なろう者になります。
レドモンドとチャップリンの関係
レドモンドとチャップリンは単に仕事仲間としてだけでなく、友人としても深い関係を持っており、チャップリンはレドモンドの画家としてのキャリアも後押しするために、チャップリンの映画施設にレドモンド専用の絵画スタジオを作ったり、レドモンドに絵画を依頼したりしていました。
晩年
有声映画が主流になっていくと、レドモンドは映画界から引退し、1935年に亡くなるまで絵を描き続けていました。
チャップリンはレドモンドの病気の医療費を負担し、葬儀の際にはパレットを模した巨大な花輪を送ったと言われています。
まとめ
いかがでしたか?
今回はカリフォルニアの印象派の一人で全ろうの画家、グランヴィル・レドモンドについてご紹介させていただきました。
チャップリンとの交流を見るととても仲が良く尊敬しあっていたことが感じられます。
グランヴィル・レドモンドについてもっと知りたい方はぜひ調べてみてはいかがでしょうか?
チャールズ・スペンサー・チャップリン(英: Sir Charles Spencer Chaplin, KBE、1889年4月16日 – 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者(英語版)」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3