こんにちは、ユアムーン編集部です。
皆さんはジョージ・イネスという画家をご存知でしょうか?
イネスはハドソン・リバー派、バルビゾン派の影響を受け、繊細で美しい風景を描いたアメリカの風景画家で、その作品は完全な自然風景を描くのではなく人や列車など、どこか文明を感じる要素が描かれた作品が多いです。
またスウェーデンボルグの神学にも興味を示しており、彼の作品に影響を与えていると言われています。
今回はそんなジョージ・イネスの人生と作品をご紹介します!
目次
ジョージ・イネスってどんな人?
本名 | ジョージ・イネス(George Inness) |
生年月日 | 1825年5月1日 |
出身 | アメリカ ニューヨーク州 ニューバーグ |
学歴 | ナショナルアカデミーオブデザイン(National Academy of Design) |
分野/芸術動向 | 風景画/トーナリズム、バルビゾン派、ハドソン・リバー派 |
人生と作品
生まれと環境
ジョージ・イネスは1825年にニューバーグで13人兄弟の5番目の子として、農夫で雑貨商をしていたジョン・イネスとクラリッサの間に生まれます。
幼少期に「クロード・ロラン」の絵が気に入り、父親が持っていた芸術の本を読み返していたイネスは、父親の八百屋になってほしいと言われますが、その望みには応えませんでした。
その気持ちを理解してくれた父親は経済的余裕があったため芸術教育をイネスに受けさせようと考えましたが、幼いイネスはてんかんを患っており、教育を受けることは困難でした。
絵画の師と美術学校への入学
1839年、14歳になったイネスは画家の「ジョン・ジェシー・パーカー」に数ヶ月間師事して絵画を学び、16歳からニューヨークのSherman & Smith、 N. Currierで地図彫刻家として働きます。
また地図彫刻家として働いている間、イネスは雪景色を得意とするフランスの風景画家「レジス・フランソワ・ジヌー」の目に留まり彼の元でも絵画を学ぶことになります。
そして1840年代半ば、イネスはナショナル・アカデミー・オブ・デザインに入学し、そこで「ロマン派の影響を受け、ハドソン渓谷やその周辺を描いたハドソン・リバー派」の作品に触れ、その運動の中心人物である「トーマス・コール」や「アッシャー・デュランド」を研究しました。
のちにイネスは「この2人を結びつけることができるのなら、私はやってみる」と思い返したようです。
イギリス生まれのアメリカ人芸術家であり、ハドソンリバー派芸術運動の創始者で重要なアメリカの風景画家として広く認められている。
彼の描く作品はしばしば保守的であり、産業主義など現代の傾向への批判が見られる。
ハドソン・リバー派の画家の1人であり、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインの校長を1845年から1861年の間務める。
代表作の一つの「気の合う者」(kindred spirits)はキャッツキル山地の風景の中に、友人のトマス・コールと詩人のウィリアム・カレン・ブライアントを描いた作品でコールが亡くなった後、ブライアントに贈られた。
1844年、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインで初めての展覧会を開催し、「将来が有望」であるという評価を受けたイネスは翌年、ニューヨークにアトリエを構えます。
ヨーロッパ旅行、キリスト教神秘主義との出会い
1850年代、ローマとフィレンツェを巡る海外旅行に行ったイネスはスウェーデンの科学者であり、神秘主義者で霊的体験に基づく著書を多く残した「エマヌエル・スウェーデンボルグ」の作品と出会います。
イネスの思考に影響を与えたのは「自然界のあらゆるものは霊的なものと対応関係にあり、神からの「流入」を受けて絶えず存在している」という考え方であり、彼は「神学は芸術以外で私に興味を持たせてくれる唯一のものだ」と語っています。
エマヌエルの作品との出会いはイネスの作品に永続的な影響をもたらすことになります。
初期の作品「The Lackawanna Valley (1855)」
「The Lackawanna Valley」は1855年の作品で、デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道の初代社長のために75ドルで制作された絵画です。
牧歌的要素と工業的要素が混在した風景画で、繊細なタッチが美しい作品になっています。
しかしイネスはこの絵画を制作する上で、線路の本数を増やし、丸屋根を誇張し、列車にロゴを描くように要求されていたようで腹を立てていたようです。
南北戦争の勃発と印象派の評価
てんかんや経済的な不安によるストレスにより不健康であったイネスは1860年にマサチューセッツ州のメドフィールド村に移住します。
その後南北戦争が勃発すると、奴隷制度廃止論者であったイネスは入隊を試みますが、健康状態のために入隊できず、その代わりに集会を組織し、演説を行い、ボランティアや寄付を促すなど様々な行動を起こします。
そのような行動を起こすうちに彼の牧歌的な作品は情緒的な雰囲気を帯びだし、世間に受け入れられやすくなっていきます。
そして戦争が終わった5年後、1870年に再びヨーロッパに赴いたイネスは、パリで開催された第1回印象派展に参加しますが、イネスは印象派の画風を「見せかけ」で「一過性のもの」という評価を下し、心動かされることはなかったようです。
1860年代から1870年代の作品
この期間の作品は広い視野を捉えたパノラマ的で美しい作品が多く、構図や描画、感情が伝わるような色彩など様々な点で高い評価を受けています。
トーナリズム的作風に変化
1884年12月、イネスはニュージャージー州モントクレアに定住し、60歳になった後も様々な場所に旅をして作品を作り続けていきます。
イネスの初期の作風は線密で写実的なスタイルでしたが、晩年になるとイネスの作品は抽象度が増し、光や空気の効果を重視するトーナリズム(調性主義)の特徴が見られるようになります。
「Niagara (1889)」
ナイアガラの滝を描いたこの作品は、抽象的で暗めの色彩で描かれることによって滝の轟音や力強さを表現しており、右上には紫色の煙を排出する煙突を描き、その煙は左上の黒い空に溶け込んでいます。
大胆なナイアガラの滝と工業的要素という特異な組み合わせが特徴的な絵画で、イネスは人生で9回も行っているほどナイアガラの滝が気に入っていたようです。
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晩年
イネスはその生涯を通して健康には恵まれず、晩年は消化不良とリウマチに苦しんでいました。
またうつ病を患い自殺未遂を図ったこともあるようです。
1894年、スコットランドに旅行に行ったイネスは心臓発作で亡くなります。息子によるとイネスが夕日を眺めていた時、彼は急に両腕を宙に掲げ「なんて美しいんだ!」と叫び、地面に倒れたといいます。
まとめ
いかがでしたか?
今回はハドソン・リバー派、バルビゾン派、そしてスウェーデンボルグの神学からも影響を受けたアメリカの風景画家、ジョージ・イネスの人生と作品についてご紹介させていただきました。
ジョージ・イネスについて気になった方はさらに調べてみてはいかがでしょうか?