こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはジョルジョ・デ・キリコという人物をご存知ですか?
ギリシャに生まれ、イタリアで活躍した形而上絵画を代表する画家です。
彼の創始した形而上絵画は、後にシュルレアリスムという大きな芸術動向へ繋がる重要なジャンルで、いわゆる夢の中のような景色を描いた絵画の原点とも言うべきものです。
また、遠近法や時系列をあえて無視した技法はキュビズムのようであり、その目を惹く画風とテーマから日本でも目にすることの多い芸術動向ではないでしょうか。
本記事ではそんなジョルジョ・デ・キリコの人生と作品についてご紹介します。
目次
ジョルジョ・デ・キリコについて
基本情報
本名 | ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico) |
生年月日 | 1888年7月10日〜1978年11月20日(90歳没) |
出身/国籍 | ギリシャ/イタリア |
学歴 | ドイツ ミュンヘン美術アカデミー |
分野 | 絵画、彫刻、詩 |
傾向 | 形而上絵画、シュルレアリスム |
師事した/影響を受けた人物 | アルノルト・ベックリン、マックス・クリンガー(前期) ラファエロ、ルーベンス(後期) |
形而上絵画って?
形而上絵画とは、ジョルジョ・デ・キリコが創始し、提唱したとされる芸術動向です。
形而上派、メタフィジック絵画とも呼ばれ、デ・キリコが1910年頃に制作した『信託の謎(1909-1910)』や『秋の午後の謎(1909-1910)』が発端とされています。
由来となった形而上学とは、感覚や経験では説明できない存在や自由、宗教といったテーマを理性的に説明しようとする分野のことを指します。
このことから芸術分野においては遠近法や画面内の整合性を無視したり、奇妙な生物や人体構造を登場させるといった特徴を持つジャンルをこのように呼びます。
アルノルト・ベックリン(1827-1901)やマックス・クリンガー(1857-1920)といった象徴主義画家の影響を受けていると考えられており、デ・キリコを発端にカルロ・カッラやジョルジョ・モランディといった追随者が現れました。
フランスの作家であるアンドレ・ブルトンは形而上絵画を高く評価し、その後のシュルレアリスム宣言へと繋がりました。
このような沿革を経て、マックス・エルンスト(1891-1976)、ルネ・マグリット(1898-1967)、イヴ・タンギー(1900-1955)、ポール・デルヴォー(1897-1994)、ピエール・ロア(1880-1950 )といった後続者が続々と現れる重要な芸術動向になったのです。
経歴と作品
生まれと環境
1888年7月10日、ギリシャのテッサリアという町に生まれたデ・キリコは、イタリア人の夫婦のもとに生まれました。父エヴァレスト・デ・キリコは鉄道の敷設を指揮する技師でした。
1891年に弟アンドレーアが生まれます。アンドレーアは後に、アルヴェルト・サヴィニオと名乗って同じく画家として活躍します。
1900年、アテネの理工科学校に通いながら、ジョルジオ・ロイロス、ジョルジオ・ジャコビッヂといった画家のもと指導を受け、静物画を中心に絵画に触れました。
父が死去した翌年の1906年、家族はギリシャを離れてフィレンツェに移住します。
1
『時間の謎(1911)』
ドイツのミュンヘン美術アカデミーに入学したデ・キリコは、ニーチェやショーペンハウアーなどのドイツ人哲学者から影響を受けます。
1910年、フィレンツェに移住したデ・キリコはこの頃に初めての形而上絵画を手掛けています。
この時デ・キリコは精神的に弱っており、神からの啓示を幻聴していたようです。
そのような精神状態を表すかのように、初期の作品の多くは形而上絵画の象徴とも言える不条理と幻想的な風景が主題に置かれました。
特に興味深いのは絵の明暗です。ごく普通の風景(生まれ育ったギリシャやイタリアへの郷愁を反映していると言われています)を描きながらも明暗を誇張して描くことで、夢の中の風景のような幻想性と神秘性があり、寂しくも、不気味にも感じられます。
この特徴を引き継いでいると思われる作品が、後年のシュルレアリスムで名を残したルネ・マグリットの『光の帝国(1953-1954)』です。
形而上絵画のテーマである目に見えない不条理を、誇張して可視化することで超現実(シュルレアリスム)とした代表的な例ではないでしょうか。
その後、デ・キリコは1911年にパリへ移住。
パリに向かう間に過ごしたトリノで、トリノの広場やアーチ状の建物といった古典的建築に関心を抱きます。このような伝統建築は後の作品にも度々登場します。
1912年にはパリのサロン・ドートンヌ(秋のサロン展)へ作品を3点出品しました。
しかしデ・キリコの描く古典的な建築物や彫刻、機関車などの世俗的なモチーフを配した風景画は当時の流行とは異なるもので、すぐには理解されませんでした。
2
『偉大な塔(1913)』
1913年のアンデパンダン展およびサロン・ドートンヌへ出品、初めて絵の買い手がつきます。
売れたのは『赤い塔』と言う作品で、この頃は塔を主題とした作品を多く手掛けていました。
またこの時、詩人ギヨーム・アポリネールから注目されており、彼からの紹介で画商のポール・ギヨームと売買契約を交わしました。後に彼とは親交を深めることになります。
3
『愛の歌(1914)』
1915年、第一次世界大戦の勃発に伴い、イタリア軍から招集を受けて北イタリアのフェッラーラに駐屯します。フェッラーラは当時、繊維工場が麻を煮る匂いが充満しており、この時の麻薬体験がその後の作風に影響したと考えられています。
1917年に画家カルロ・カッラと親交を結びます。
彼との交流の中でデ・キリコは「形而上的」と言う言葉を用いました。哲学上用いられる形而上学の定義からは離れ、不条理と不自然さ、遠近法や時系列にとらわれないモチーフ選択という、形而上絵画の特徴が決まっていきました。
5
『子どもの脳(1917)』
1918年、デ・キリコは前衛美術雑誌『造形的価値(ヴァローリ・プラスティチ)』に「職人への回帰」という記事を寄稿しました。自らの詩の中で古典芸術への回帰を宣言し、徐々に現代芸術との乖離が表れていきました。
これまでの形而上絵画は、デ・キリコが少年期に悩まされていた旧世代の権威への反抗として捉えられていましたが、この寄稿以降のデ・キリコはローマの伝統的な建築やアカデミックな芸術を中心的な主題とし、古典回帰することになります。
1919年にデ・キリコはローマで個展を開きますが、美術史家のロベルト・ロンギから酷評を受けてしまいます。
この方向転換はこれまでデ・キリコに注目していた前衛芸術家から批判を受け、対立を明確にするものでした。
7
『奇妙な旅(1922)』
1920年以降、デ・キリコはラファエロやルーベンスを手本とした古典芸術への回帰を進め、ルネサンス絵画の模写やテンペラ画、ネオバロック様式の習作を多く残しました。
1924年にパリのシュルレアリスムグループから招待を受けるものの、すでに古典主義に立ち返っていたデ・キリコは受け入れられず、より対立を激しくするものになりました。
パリで開かれた個展は現代芸術を礼賛する批評家によって酷評を受けました。しかし懲りずにデ・キリコは1928年にニューヨーク、ロンドンで個展を開き、アートビジネスの枠からはみ出してしまった一方で詩やエッセイの寄稿を続け、1929年に「エブドミロス」という小説も発表しました。
8
『不安を与えるミューズたち(1916-1918)』
画家と作家の二足の草鞋で歩みを始めたデ・キリコでしたが、これまでの買い手が去ってしまったことですぐに生活が立ち行かなくなっていきます。
それほどに古典回帰後の作品は批評に違わず売れなかったということです。
そこでデ・キリコは、形而上絵画の頃の作品『不安を与えるミューズたち(1916-1918)』を自身で模倣し、販売することを思い付きます。
これに対してもやはり非難が集まりますが、デ・キリコ本人は、古典主義に立ち返った自身の作品が認められず、昔の(形而上絵画の頃の)作品ばかりが取引されることへの復讐であると表明しました。
晩年
1950年以降、ニューヨーク、ローマ、ミラノと世界的に個展を開催。
1978年11月20日、長く治療を受けていたものの心臓発作によってこの世を去りました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
シュルレアリスムの萌芽となる、形而上絵画の創始者として日本では特に有名なデ・キリコですが、人生を紐解いていくと前衛芸術に身を投じていたのは90年の生涯のうちたった10年ほどという短い期間でした。
その後は古典主義へ回帰していき、自身でそれを成熟し、完成されたものと満足していましたがアカデミズム芸術から前衛芸術へ民衆の興味が移り変わっていく社会に逆行したようなデ・キリコの信念は仲間にもパトロンにも受け入れがたいものだったようです。
デ・キリコにとって形而上絵画とは、若い頃の不安定な精神状態が生み出した、まさに夢の中のような作風だったのでしょうか。
しかし、デ・キリコがシュルレアリスムを呼び起こした重要人物であることには変わりありません。
デ・キリコを応援したアンドレ・ブルトンは後にシュルレアリスム宣言をし名実ともにシュルレアリスムの創始者になりましたし、形而上絵画に追随したカルロ・カッラは未来派に属して音楽や工業デザインなどにも影響を与えるムーブメントに参加しました。
デ・キリコの動向というよりは、かつてカッラと共に生み出した形而上絵画という定義と残された作品群がシュルレアリスムを生み出したと言えるでしょう。
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