こんにちは、ユアムーン編集部です。
皆さんは「デヴィッド・ボンバーグ」という人物をご存知でしょうか?
ボンバーグは名門スレード美術学校に入学するも、前衛的であるがために追放されてしまいます。しかし、彼は機械への賛美を持ちキュビスムと未来派のエッセンスを取り込んだスタイルを確立した、独創性が高い大胆な画家です。
今回はそんなボンバーグの人生と作品についてご紹介します!
デヴィッド・ボンバーグってどんな人?
本名 | デヴィッド・ガーシェン・ボンバーグ(David Garshen Bomberg) |
生年月日 | 1890年12月5日 |
出身 | イギリス バーミンガム |
学歴 | ウェストミンスター美術学校、スレード美術学校 |
分野/芸術動向 | 絵画 / ヴォーティシズム、キュビスム、フューチャリズム |
経歴と作品
生まれと環境
デヴィッド・ボンバーグは1890年、イギリスのバーミンガムでポーランド系ユダヤ人移民の11人兄弟の7番目の子として生まれ、5年後にはロンドンのイーストエンドにあるホワイトチャペルに移り住み、幼少期の大半をここで過ごすことになります。
ボンバーグの家族は2部屋しかない住居で貧しい生活を送っていましたが、母親は芸術の夢を追求するボンバーグをいつも励ましていたようです。
1908年から1910年までウェストミンスター美術学校でポスト印象派のウォルター・シッカートに師事します。
この時代のシッカートは労働者階級の女性の陰鬱な生活を明示的に描くことによって、近代における都市生活の傾向をイメージさせるような作品を制作しており、これはボンバーグにとって大きな影響を与えたと言われています。
1911年にはユダヤ人教育援助協会から援助を受けてスレード美術学校に入学します。ボンバーグがスレード美術学校で共に学んだ同世代には「スタンリー・スペンサー」、「ドーラ・キャリントン」、「クリストファー・ネヴィンソン」らがおり「黄金世代」とも呼ばれていたようです。
前衛芸術に傾倒 ~ 学校から追放
ボンバーグはスレード美術学校で優秀な成績を収め、同学年の中でも一つ頭の抜けた学生でありながらも、学校が奨励していた伝統的な絵画手法は取り入れることはありませんでした。
彼はやがて成長する未来派やキュビスムなど前衛芸術のエッセンスを取り込み、他の学生たちとは一線を画す存在となります。
『エゼキエルの幻視』(1912)
未来派やキュビスム、フォーヴィスムなど前衛芸術の影響を受けたボンバーグは、1913年に「エゼキエルの幻視」という作品を発表します。
この作品は旧約聖書のエゼキエル書からインスピレーションを受けているものとされており、中央に母親と抱きかかえられる子供が描かれています。
キュビスムのような幾何学的な形に抽象化され、未来派のような動きで描かれた斬新な作品は、同世代の中で注目を集めます。そしてヴォーティシズム(渦巻主義)の共同創設者であり、ヴォーティシズムの機関誌「ブラスト(Blast)」の刊行をすることになる「ウィンダム・ルイス」の目に留まりました。
1913年、ボンバーグはパリを訪れ、ピカソ、モディリアーニ、アンドレ・ドラン、マックス・ジャコブらと知り合います。
ロンドンに戻ると、ボンバーグは教育方針に従わず過激な表現を続けていたことが理由で、スレード美術学校から追放されてしまいます。
『柔術』(1913)
ボンバーグは退学前に「柔術」を修了しており、それをテーマとした作品を制作しました。
64マスのグリッドで区切られ、ポジティブとネガティブが交錯しながら単純化された人間が描かれた絵画となっています。
ボンバーグは機械の美や動きを賛美しており「新しい生活は、新しい知覚によって刺激された新しい芸術の中にその表現を見出すべきである。私は大都市の生活、その動き、その機械を、写真的ではなく、表現的な芸術に変換したい」と語っているようです。
このような点でヴォーティシズムとの共通点が見られ、ヴォーティシズムとして作品を発表することもありましたが、ボンバーグはヴォーティシズムの正式なメンバーとなることはありませんでした。
『泥風呂』(1914)
この作品は地元のユダヤ人たちの蒸し風呂からインスピレーションを受けた作品です。濃い茶色の浴場の柱の周りには鮮やかな赤の浴槽が描かれその周りは明るい茶色の地面が描かれています。
赤い浴槽の中には明暗を表現しているような幾何学的な白と青の面で構成された人間が描かれていて、彼らは踊っているかのようにも見えますね。
ヴォーティシズムの正式メンバーではなかったボンバーグですが、この作品はしばしばヴォーティシズムの象徴的な作品として扱われ、国内外の前衛芸術家から高い評価を得ています。
戦争の経験とその反動
第一次世界大戦が勃発すると、ボンバーグは1915年から1919年にかけて陸軍に配属されます。
1916年にボンバーグより10歳ほど年上の女性、アリス・メイズと結婚するものの、まもなくライフル部隊に移籍し西部戦線に送られます。戦地では塹壕の中で過酷な状況を耐え抜きながら詩を書いていました。
機械による虐殺と塹壕での兄と友人の死が影響し、戦争以前の機械文明への耽美は消え失せ、ボンバーグのスタイルは次第に有機的で自然主義的な形態へと遷移していきます。
戦後のスタイルの変化
1920年代から1930年代のボンバーグの作品は風景画と陰鬱な自画像が中心でした。戦後も変わらずボンバーグへの芸術的評価は高かったようですが、作品はほとんど売れず、深刻な財政難に陥ります。
ボンバーグの自画像は詳細で写実的なスケッチから、顔の特徴が判別できない曖昧なものまで多岐に渡り、戦後の芸術家としてのアイデンティティを探求していたのかもしれません。それからはより緩やかで表現主義的なスタイルへと発展していきます。
1930年代は1916年に結婚したアリスとは別れ、1929年にスペイン旅行中に出会い2番目の妻となる画家のリリアン・ホルトと共に様々な場所を旅します。
第二次世界大戦の勃発と鬱病の罹患
第二次世界大戦が勃発するとボンバーグは鬱病を患らいながらも、戦争芸術家諮問委員会の仕事に応募し、戦争画家として作品を残しています。
『爆弾庫』(1942)
『爆弾庫』(1942), ©︎David Bomberg WIKIART, https://www.wikiart.org/
1942年、戦争の現実を記録するために依頼され、英国空軍の地下爆弾庫を描いた作品です。
不本意ながらもこの仕事を受けたボンバーグは、爆弾庫をテーマとする作品を多く制作し実現はしなかったものの、中には壁画のための大規模なものまで制作していたようです。
教職に就く ~ 晩年
1946年からはボロー・ポリテクニックで美術講師として教鞭を執りはじめ、ボンバーグの授業は「異端的なアプローチとカルト的な熱狂」で評判になり、その指導方法は多くの生徒の人生を変えたと言います。
ボンバーグは美術界からは十分に認められてはいなかったものの、忠実な教え子たちからは記憶され、尊敬されていたようです。
1954年にスペインに移り住み、1957年ごろに重病を患ったボンバーグはイギリスに帰国しますが、直後の1957年8月19日にロンドンで亡くなります。
まとめ
いかがでしたか?
今回は独創的なスタイルによって名声を博し、モダニズム運動に貢献するも多くの点で困難な人生を送った前衛芸術家、デヴィット・ボンバーグについてご紹介させていただきました。
彼の評価は死後に急激に上昇したようで、生前は2番目の妻リリアンの収入と妹からの仕送りで暮らしていたようです。
ボンバーグについて気になった方は、さらに深掘りしてみてはいかがでしょうか?