こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはアルフォンス・ミュシャという人物をご存知ですか?
アルフォンス・ミュシャ(Alphonse Mucha、チェコ語ではアルフォンス・ムハ〈Alfons Mucha〉、1860〜1939)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)に生まれ、パリで活躍した画家・デザイナーです。女優サラ・ベルナールのために描いたポスター『ジスモンダ』で一躍人気を集め、花や長い髪に彩られた女性像のポスターや装飾パネルで、パリのアール・ヌーヴォーを代表する存在になりました。
一方でミュシャは、生涯の後半を祖国のための仕事にささげました。20点の大作からなる『スラヴ叙事詩』や、チェコスロバキアの切手・紙幣のデザインは、パリの華やかなポスターとはまた違うミュシャの顔を伝えています。
本記事ではそんなアルフォンス・ミュシャの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleアルフォンス・ミュシャって?

基本情報
| 本名 | アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alphonse Maria Mucha)。チェコ語の表記はAlfons Mucha(アルフォンス・ムハ) |
| 生年月日(没年月日) | 1860年7月24日〜1939年7月14日 |
| 国籍・出身 | オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェ(現在のチェコ共和国南モラヴィア州)生まれ。プラハで没 |
| 学歴 | ミュンヘン美術アカデミー(1885年から2年間)、パリのアカデミー・ジュリアン(1887年)、アカデミー・コラロッシ(1888年) |
| 分野 | ポスター、装飾パネル、挿絵、宝飾・店舗のデザイン、絵画、壁画、ステンドグラス、切手・紙幣のデザイン |
| 傾向 | 細長い画面、やわらかな色、人物の頭の後ろに光の輪のような円を置く構図。のちにスラヴの歴史を描く大作に取り組む |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | パトロンのクーエン=ベラシ伯爵の支援で学ぶ。ウィーン時代に画家ハンス・マカルトの作品に関心を寄せた |
ミュシャはどんな人?
ひと言でいえば、ミュシャは「街角のポスターを芸術に高めたデザイナー」であり、同時に「祖国の歴史を描き続けた画家」でもあります。
ミュシャ財団は、『ジスモンダ』のポスターが、それまでけばけばしい街頭の広告だったポスターに品格と落ち着きをもたらしたと紹介しています。一方でミュシャは、1900年のパリ万国博覧会の仕事をきっかけに、スラヴの人々の歴史を描く大作の構想を抱き、その実現のために後半生を費やしました。華やかな商業デザインと、民族の歴史を描く大作。この二つの仕事の両方が、ミュシャという人物をかたちづくっています。
ミュシャがパリで出会った芸術家については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
経歴と作品
モラヴィアのイヴァンチツェに生まれる(1860年〜1878年)
アルフォンス・ミュシャは1860年7月24日、オーストリアの統治下にあった南モラヴィアの町イヴァンチツェに生まれました。父は裁判所の廷吏として働いていました。
ミュシャ財団は、ミュシャが歩くより先に絵を描くことができ、母親が床をはい回る幼いミュシャの首に鉛筆を結びつけていたという話を伝えています。財団の年表には、8歳ごろに描いたとされる最初期の作品も紹介されています。
12歳になると、ミュシャは聖歌隊の奨学生としてブルノのスラヴ系の中等学校に寄宿しました。財団の年表によれば、ここでのちの作曲家レオシュ・ヤナーチェクと出会っています。
しかし、学業はうまくいかず、学校を去ることになります。プラハの美術アカデミーへの入学もかなわず、ミュシャは父が用意した裁判所の事務の仕事に就きながら、地元の雑誌や劇場の装飾の仕事にかかわるようになりました。
ウィーン、ミュンヘン、パリで学ぶ(1879年〜1889年)
転機が訪れたのは19歳のときです。ミュシャ美術館(プラハ)の年表によれば、1879年、ミュシャは劇場の舞台背景を描く画工としてウィーンへ向かい、働きながら夜間のデッサン教室にも通いました。財団の年表は、ウィーンで画家ハンス・マカルトの作品に強い関心を寄せたことも記しています。
やがて勤め先の大口の取引先だった劇場が焼失し、ミュシャは職を失います。モラヴィアに戻り、南モラヴィアの町ミクロフで肖像画を描いていたところ、その腕前が土地の領主クーエン=ベラシ伯爵の目にとまりました。ミュシャは伯爵の館エマホフ城の装飾を任され、伯爵はミュシャのパトロンとなります。
伯爵の支援を受けて、ミュシャは1885年にミュンヘン美術アカデミーに入り、2年間学びました。1887年にはパリへ移り、アカデミー・ジュリアンで学びます。財団の年表によれば、翌1888年にはアカデミー・コラロッシに移りました。
ミュンヘンでは、チェコの画学生カレル・マシェクやルジェク・マロルト、ロシアの画家レオニード・パステルナークらと出会い、中欧・東欧出身の学生たちの集まり「シュクレタ会」に加わって、のちに会長も務めました。1886年には、家族のつてで、アメリカのノースダコタ州ピセクにあるチェコ系の人々の教会のために、聖キュリロスと聖メトディオスを描いた祭壇画の依頼も受けています。
ところが1889年、伯爵からの支援が突然打ち切られます。学校を離れたミュシャは、生活のために雑誌や本の挿絵を描き始めました。
挿絵画家として身を立てる(1889年〜1894年)
ミュシャ財団は、ミュシャがレンズ豆と豆の食事でしのぎながら、さまざまな雑誌や本の挿絵で生計を立て始め、やがて頼れる挿絵画家としての地位を築いていったと紹介しています。
財団の年表によれば、1890年からは印刷所ルメルシエが発行する雑誌『劇場と街の衣装(Le Costume au théâtre et à la ville)』に寄稿し、ここで初めてサラ・ベルナールをクレオパトラ役の姿で描きました。1891年には出版社アルマン・コランの挿絵画家となり、シャルル・セニョボスの『ドイツ史の場面と挿話(Scènes et épisodes de l’histoire d’Allemagne)』の挿絵を手がけています。ミュシャ美術館の年表は、この依頼を1892年の重要な仕事として挙げています。
1892年には、パリのサロンに初めて出品し、グザヴィエ・マルミエの『おばあさんの物語(Les Contes des Grand-Mères)』の挿絵で佳作賞を受けました。
同じころ、ミュシャは自分のアトリエでデッサンの教室を開き、評判を呼びます。1893年には10×13センチ判のカメラを買い、以後、写真は構図の準備に欠かせない道具になりました。同じ年、タヒチから戻った画家ポール・ゴーギャンとアトリエを分け合ったことも、財団の年表に記されています。
『ジスモンダ』とサラ・ベルナール(1894年〜1895年)
ミュシャの名を一夜にして広めたのが、1894年末の一枚のポスターでした。
『ジスモンダ』(1894年)
ミュシャ財団によれば、1894年12月26日、ミュシャは友人に頼まれてルメルシエの印刷所で校正刷りを直していました。そこへ、パリの舞台の大スターだったサラ・ベルナールから、ヴィクトリアン・サルドゥの劇『ジスモンダ』のための新しいポスターを至急つくってほしいという依頼が届きます。ふだんの専属画家たちは休暇中で、困った担当者はミュシャに頼みました。
こうして生まれたのが『ジスモンダ』のポスターです。ルネサンス座の公演のために描かれ、ヤシの葉を手にした等身大に近いベルナールが、細長い画面いっぱいに立っています。頭には花の冠、背後には弧を描く文字の帯と、頭を囲む円のかたちがあり、豪華な刺しゅうの衣装が足元まで流れ落ちています。

財団は、このポスターの細長いかたち、ほのかなパステル調の色、人物の頭のまわりの光の輪のような効果が、その後のミュシャのポスターに一生受け継がれる特徴になったと解説しています。そして何より、ほぼ等身大の人物の静けさが、それまでのけばけばしい街頭の広告に、品格と落ち着きをもたらしました。
財団の年表によれば、ポスターは1895年1月1日からパリの街の掲示板に貼り出され、大きな話題になります。収集家たちは貼り手に心付けを渡して手に入れたり、夜中にかみそりで掲示板から切り取ったりしたと伝えられています。
ベルナールはこの出来に大いに満足し、ミュシャと契約を結びました。ミュシャ美術館と財団の年表はいずれも、ポスターだけでなく舞台装置や衣装のデザインも任せる6年間の契約だったと記しています。こうして「ミュシャ様式(le style Mucha)」が誕生しました。

装飾パネルと広告ポスターの時代(1896年〜1899年)
『ジスモンダ』の成功のあと、ミュシャはパリで最も人気のある芸術家の一人になりました。財団によれば、その後の10年間、劇場のポスター、広告のポスター、装飾パネル、雑誌の表紙、メニュー、絵はがき、カレンダーと、依頼が押し寄せました。
『椿姫』(1896年)
ベルナールのためのポスターは、その後も続きました。1896年の『椿姫(La Dame aux Camélias)』は、アレクサンドル・デュマ・フィスの戯曲をルネサンス座で上演した際のポスターです。白い衣装のベルナールが、星をちりばめたような背景の前に立ち、髪には白い椿の花を飾っています。足元には椿の枝が伸び、上部のアーチには題名とベルナールの名前が組み込まれています。

1896年、ミュシャは印刷所シャンプノワとも契約を結びます。財団の年表によれば、シャンプノワは1880年から1910年ごろにかけての最も重要な印刷所の一つでした。同じ年、シャンプノワの依頼で四季をテーマにした装飾パネルの連作『四季』を制作します。ミュシャ美術館の年表は、これをミュシャ最初の装飾パネルとしています。財団によれば、この連作は大変な人気を呼び、シャンプノワは1897年と1900年にも同じテーマの連作をミュシャに頼みました。
同じ1896年には、フランスで人気の巻きたばこ用の紙のブランド「JOB」のポスターも手がけました。財団の年表によれば、JOBという名前は、ライスペーパーの冊子を考案したジャン・バルドゥの頭文字に由来します。もとは頭文字のJとBのあいだにひし形の印が入っていましたが、人気が高まるにつれて人々が「JOB」と呼ぶようになったといいます。
装飾パネルとは、リトグラフ(石版画)の印刷技術の向上とともに広まった、家の壁やついたてを飾るための版画です。ポスターと違って広告の文字を持たず、絵そのものを楽しむためにつくられました。
『Biscuits Lefèvre-Utile』(1897年)
広告の仕事でも、ミュシャは次々と人気作を生みました。フランスのビスケット会社ルフェーヴル=ユティルのために描いた1897年のカレンダーには、花の冠をかぶった女性が、ビスケットを載せた皿を手にほほえむ姿が描かれています。下の扇形の部分には1897年の暦が組み込まれ、装飾と実用がひとつの画面に収まっています。

『モナコ・モンテカルロ』(1897年)
同じ1897年には、パリ・リヨン・地中海鉄道(PLM)の観光ポスターとして『モナコ・モンテカルロ』を描いています。フランス国立図書館が所蔵するのは、鉄道会社の名前を入れない文字違いの版で、下の余白にはシャンプノワ印刷所と『ラ・プリュム』の名が刷られています。両手を口元に寄せた白い衣装の女性のまわりを、花と植物をつないだ大きな輪が幾重にも取り巻き、画面全体が一つの装飾模様のようにまとまっています。

1897年は、ミュシャが画家として大きく評価された年でもありました。2月にはパリのボディニエール画廊で初めての個展が開かれ、107点が並びました。財団の年表によれば、カタログの序文はサラ・ベルナールが書いています。5月には文芸誌『ラ・プリュム』が主催するサロン・デ・サンで448点を並べる個展が開かれ、その後2年のあいだに、ウィーン、プラハ、ブダペスト、ミュンヘン、ブリュッセル、ロンドン、ニューヨークなどでも作品が紹介されました。
ミュシャの画材と技法
ミュシャの作品は、どのような画材と技法でつくられていたのでしょうか。ミュシャ財団の年表や所蔵館の記録から、主なものを見ていきます。
まず、ポスターと装飾パネルの多くは、多色刷りのリトグラフ(石版画)です。財団の年表によれば、シャンプノワでは、最も高価な版をサテン(しゅす織りの布)や上質な羊皮紙風の紙、和紙に刷り、より手ごろな版として8色刷りのポスターや厚紙に刷ったものも注文できました。同じ絵柄を、紙や刷りの違いで値段の違う商品として届けていたのです。
ミュシャは原画を描く段階でも、さまざまな画材を使い分けました。財団の年表には、鉛筆と水彩、インクと水彩、ペンとインク、木炭による下絵や習作が数多く記録されています。1896年に移った、大きな窓とガラス張りの天井を持つヴァル=ド=グラース通りのアトリエでは、彫刻家オーギュスト・セイセスとの出会いをきっかけに、彫刻とパステルにも取り組み始めました。
そして、写真です。前に触れたように、ミュシャは1893年に自分のカメラを買い、写真を構図の準備に使うようになりました。財団の年表によれば、1895年にはリュミエール兄弟と知り合い、植物の動きの研究を含む映画撮影の実験にも参加しています。財団の年表は、ヴァル=ド=グラース通りのアトリエの光が、絵だけでなく写真にもよい条件をもたらし、ミュシャの写真の数が大きく増えたと記しています。
後半生の大作『スラヴ叙事詩』では、財団の記録によれば、カンヴァスに卵テンペラ(卵を絵の具のつなぎに使う技法)で描いています。ポスターの石版画から、巨大なカンヴァスのテンペラ画まで、ミュシャは仕事の目的に合わせて画材を選んでいました。

1900年パリ万国博覧会とフーケの宝飾店(1899年〜1901年)
1899年、ミュシャはオーストリア=ハンガリー政府から、翌年のパリ万国博覧会でボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を手がける依頼を受けました。財団によれば、準備のためにバルカン半島を旅し、その途中で、スラヴの人々の歴史を描く大作の構想が生まれたといいます。この装飾は万博で銀賞を受け、ミュシャはオーストリアのフランツ・ヨーゼフ勲章を授けられました。翌1901年には、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受けています。
同じ万博に向けて、ミュシャは宝飾の世界にも踏み出しました。財団の年表によれば、パリの宝石商ジョルジュ・フーケは、万博で本当に新しいコレクションを見せるため、ポスターの中で宝飾品を描く才能を示していたミュシャに協力を求めました。二人の協働は批評家から高く評価され、3年にわたるパートナーシップの始まりになりました。
フーケ宝飾店の店舗デザイン(1900年〜1901年)
フーケが店をパリのロワイヤル通りに移すと、ミュシャは店の外観と内装、家具、照明、ショーケースまで、すべてのデザインを任されました。財団は、ミュシャがこの店を一つの総合的な芸術作品として構想し、自然界から着想を得て、ステンドグラスの輝く図柄を背にした2羽の孔雀を主役に据えたと紹介しています。
カルナヴァレ美術館には、この店先を写した古い写真が残っており、その裏には「1900年にA・ミュシャの図案にもとづいてつくられた」という書き込みがあります。写真では、FOUQUETの文字を掲げた店先に、曲線を描く枠と大きなショーウィンドウが並んでいます。
同館には、この店のためのミュシャのデザイン画も数多く残っています。店の正面のステンドグラスのための下絵では、ピンク色の円の中に、頭に布を巻いた女性の横顔が描かれています。ポスターで磨いた女性像と曲線の装飾が、建物の一部としてデザインされていたことがわかります。

『装飾資料集』と教育(1902年〜1903年)
宝飾品、食器、布地と、ミュシャのデザインへの需要はふくらむ一方でした。そこでミュシャは、アール・ヌーヴォーの暮らしをつくるのに必要な図案をまとめた「職人のための手引き」を構想します。こうして1902年に刊行されたのが『装飾資料集(Documents décoratifs)』です。財団はこの本を、ミュシャの装飾の仕事の百科事典と呼んでいます。ミュシャ美術館の年表も、装飾の図案の見本帳であり、芸術家のための手引きだと紹介しています。
ミュシャは教えることにも力を注ぎました。財団によれば、アカデミー・コラロッシで教え、1898年からは画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーのアカデミー・カルメンでもデッサンの授業を受け持っています。
1902年には、友人の彫刻家オーギュスト・ロダンのプラハでの展覧会に同行し、二人でモラヴィアも訪ねました。1903年には、プラハの国民劇場でスメタナのオペラ『リブシェ』の舞台装置をデザインしています。
アメリカでの日々(1904年〜1910年)
万博の仕事の中で生まれた大作の構想を実現するには、大きな資金が必要でした。財団によれば、ミュシャは商業的な成功にもかかわらず蓄えが多くなく、パリを離れて、アメリカで社交界の肖像画家として資金を得ようと考えました。
1904年、ミュシャは初めてアメリカへ渡り、その到着はアメリカの新聞の一面を飾りました。財団の年表によれば、ミュシャは6年間に5回アメリカを訪れています。1905年にはニューヨークの女性のための応用デザイン学校で「ミュシャの講座」を受け持ち、1906年にはシカゴ美術館附属の学校で教える職を得ました。1909年には、アメリカの人気女優モード・アダムスがジャンヌ・ダルクを演じる舞台のために、肖像画を描き、衣装と舞台装置もデザインしています。
そして、アメリカでの日々はついに実を結びます。スラヴの人々に深い関心を持つアメリカの実業家チャールズ・R・クレインが、大作の資金を援助すると約束したのです。
プラハ市民会館と祖国のための仕事(1910年〜1930年代)
1910年、ミュシャはボヘミアに戻りました。ミュシャ美術館の年表によれば、西ボヘミアのズビロフ城に仕事場を借り、大作の制作に取りかかります。
同じころ、ミュシャはプラハに新しく建てられた市民会館(オベツニー・ドゥーム)の市長の間の装飾を手がけました。財団によれば、円形の部屋のための小さなパネル、壁画、天井画からなる装飾で、チェコの人々の英雄的な過去とスラヴの国々の結びつきを讃えています。ミュシャ美術館の年表は、1911年に完成したこの装飾を、プラハにおけるアール・ヌーヴォー様式の最後の大作と位置づけています。
1918年にチェコスロバキアが独立すると、ミュシャは新しい国のための仕事を引き受けました。チェコスロバキア最初の切手のデザインです。翌1919年には100コルナ紙幣をデザインし、財団の年表によれば、その後1931年までに1000、500、50、20、10、5コルナの紙幣のデザインが世に出ました。国民が毎日手にする切手や紙幣も、ミュシャの仕事だったのです。
1930年代の初めには、プラハの聖ヴィート大聖堂のステンドグラスもデザインしています。財団の年表によれば、スラヴィア銀行の依頼で、修復を終えたゴシック様式の北側の身廊の窓のためにつくられました。
『スラヴ叙事詩』(1910年〜1928年)
ミュシャが後半生のほとんどをかけて取り組んだのが、『スラヴ叙事詩』です。財団によれば、20点の巨大なカンヴァスからなる連作で、大きいものは縦6メートル、横8メートルにもなります。チェコの人々の歴史と、ほかのスラヴの人々の歴史から主題をとり、千年を超えるスラヴの歴史を讃えています。
財団の年表をたどると、ミュシャは1912年の終わりに最初の3点をプラハ市に引き渡し、その後も数点ずつ完成させていきました。最後の3点は1926年に、プラハの学校の講堂で描かれています。最後の作品『スラヴ民族の讃歌』は、連作全体の主題をまとめ、スラヴの国々の独立を讃える一枚で、4つの色で4つの時代を描き分けています。
最初に引き渡された3点のうち2点は、スラヴの古い神をまつる祭りを描いた『スヴァントヴィト祭』と、スラヴ語による典礼が始まった場面を描いた『スラヴ式典礼の導入』です。財団の年表によれば、ズビロフ城に移ったミュシャは、主題にかかわる本を手に入るかぎり読み込み、その分野の専門家の一覧をつくりました。翌年にはパリで、フランスのスラヴ史研究者エルネスト・ドニとも会っています。1913年にはロシアへ、1924年にはバルカン半島とギリシャへ取材の旅に出ており、一枚一枚が入念な調査にもとづいて描かれました。
完成した作品は、海を越えても紹介されました。1919年にプラハのクレメンティヌムで最初の展示が開かれたのち、作品はアメリカへ渡り、1920年のシカゴ美術館では1週間に5万人を超える来場者を集めました。1921年にはニューヨークのブルックリン美術館が、『スラヴ叙事詩』の5点を含む大規模な回顧展を開き、約60万人が訪れたといいます。
1928年、チェコスロバキア独立10周年を記念して、ミュシャとクレインは『スラヴ叙事詩』の全20点を正式にプラハ市に贈りました。その後、作品は長く巻かれて保管され、1960年代に修復が始まります。財団によれば、1968年からミュシャの故郷に近いモラフスキー・クルムロフの城で常設展示されるようになりました。2026年10月時点で、同地の公式サイトは、城で『スラヴ叙事詩』を公開していると案内しています。

晩年(1930年代)
晩年のミュシャは、『スラヴ叙事詩』に続く新しい大作にも取りかかっていました。財団の年表によれば、1936年、『愛の時代』『英知の時代』『理性の時代』からなる三連作の構想を始めます。国のためではなく、すべての人類のための作品として考えられましたが、この三連作は未完に終わりました。
1934年には、フランスのレジオン・ドヌール勲章のオフィシエに叙されています。同じ年、1921年から取り組んできた合唱団フラホルのための壁画『歌』が、プラハの同団体の建物の大広間に据えつけられました。
アルフォンス・ミュシャは1939年7月14日、プラハで亡くなりました。79歳の誕生日の10日前でした。プラハのヴィシェフラド墓地に葬られています。
まとめ
いかがだったでしょうか。アルフォンス・ミュシャの人生と作品について、ご紹介してきました。
ミュシャは1860年にモラヴィアのイヴァンチツェに生まれ、ウィーンの舞台背景の画工、ミュンヘンとパリでの修業、挿絵画家としての下積みを経て、1894年の『ジスモンダ』で一躍有名になりました。細長い画面、ほのかな色、頭のまわりの光の輪という「ミュシャ様式」は、ポスター、装飾パネル、カレンダー、宝飾店のデザインにまで広がっていきます。
石版画、鉛筆や水彩やパステルの下絵、写真、そして卵テンペラ。ミュシャは仕事の目的に合わせて画材と技法を選び、パリの街角を彩るポスターから、縦6メートルにもなる『スラヴ叙事詩』まで描き分けました。チェコスロバキアの切手や紙幣も、ミュシャのデザインです。
ポスターの女性像の美しさに惹かれた方は、ぜひその先にある後半生の仕事にも目を向けてみてください。華やかなパリの顔と、祖国のために描き続けた顔の両方を知ると、ミュシャの作品はいっそう奥行きを増して見えてくるはずです。
Euphoric " " の視点
ミュシャは、けばけばしい街頭の広告だったポスターに品格と落ち着きをもたらし、街角で誰もが目にするものを芸術に変えました。その一方で、後半生を『スラヴ叙事詩』にささげ、独立したばかりのチェコスロバキアの切手や紙幣までデザインしています。
華やかな商業の仕事と祖国のための仕事は、別々の顔のように見えて、どちらも多くの人の暮らしの中に美しいものを届ける仕事でした。石版画からテンペラ画まで、目的に合わせて画材と技法を選び分けた姿勢は、場所を選ばずに質を保つことの大切さを教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






