こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはブルーノ・タウトという人物をご存知ですか?
ドイツ生まれの建築家で、20世紀に起こった表現主義を代表する『鉄の記念塔』『ガラスの家』などの作品を残したことで知られています。
日本とも親交が深く、特に『桂離宮』に見られる日本の伝統美を評価し、モダニズム建築との共通点を見出したことは日本の伝統建築と近代性に大きな影響を与えました。
本記事ではそんなブルーノ・タウトの人生と作品についてご紹介します。
目次
ブルーノ・タウトって?
基本情報
本名 | ブルーノ・ジュリアス・フロリアン・タウト(Bruno Julius Florian Taut) |
生年月日 | 1880年5月4日-1938年12月24日(58歳没) |
国籍/出身 | ドイツ/ドイツ ケーニヒスベルク |
学歴 | ケーニヒスベルク国立建築工学校 |
分野 | 建築、都市計画 |
傾向 | 表現主義 |
師事した/影響を受けた人 | テオドール・フィッシャー等 |
人生と作品
生まれと環境
タウトは1880年5月4日、ドイツのケーニヒスベルクという東プロイセンの中心都市に生まれました。
この町は哲学者エマニュエル・カントが生まれ、教鞭を取ることになるケーニヒスベルク大学があることで知られており、タウトも生涯、同郷のカントを尊敬していました。
その気持ちぶりといえば、少年の頃からカントの『永遠平和のために』に感銘を受け、後述する日本滞在時には短冊に、カントの墓に記されている「輝ける大空は我が上に、道徳的規範は我が内に」をよく書いたほどでした。
後述する表現主義の出発点は思想家であるニーチェでした。作家の感情を作品にぶつける表現主義との出会いを予感させるような生い立ちですね。
経済的にも文化的にも発展していた町で、教養の行き届いた幼少期を過ごしたタウトは1897年にクナイプホープ・ギムナジウム(日本の高等学校にあたる)を卒業。建設会社グートツアイトで見習いとして働くことになりました。
これには父の仕事が失敗し、自身で大学進学のための学費を稼がなければならなくなったことも大きく関係しているようです。
1900年にケーニヒスベルクの国立建築工学校に入学したタウトは、建設会社での仕事を続けながら1902年に無事卒業しました。
故郷を離れ、事務所を渡り歩く
卒業後にタウトは、ベルリンなどの都市で修行を積み、1904年からはテオドール・フィッシャーという建築家に弟子入りし、建築理論を学びながら実地での仕事も経験させてもらいました。
4年の弟子入りを終えた1908年からはハインツ・ラッセンの設計事務所で働き、ベルリンでシャルロッテンブルク工科大学の教授であるテオドール・ゲッケからの指南も受けていました。
またこの時タウトは、ベルリンで働くために50キロほど離れたコリーンという村に滞在していました。
ここでタウトは村の鍛冶屋の娘ヘドヴィック・ヴォルガストと出会い、1906年には結婚しています。
しかしヘドヴィックの体調不良から生まれた子供を弟に預け育てており、2人の家族模様は複雑でした。
ドイツ工作連盟との出会い
1909年、フランツ・ホフマンと共にベルリンで建設事務所を設立します。3年後の1912年には弟のマックス・タウトが事務所に入り、その翌年の1910年にタウトはドイツ工作連盟に参加します。
ドイツ工作連盟とはドイツ ミュンヘンで発足された団体で、建築家やデザイナーをはじめ実業家や評論家も広く参加していました。
リーダー的存在であったヘルマン・ムテジウスがイギリスで起こった芸術運動アーツ・アンド・クラフツ運動からの影響で、団体の目的は「近代社会における芸術と産業のあり方を見つめ直し、統一すること」でした。
表現主義建築の誕生
『ガラスの家(1914)』
ドイツ工作連盟に加わったタウトは、1913年にライプツィヒで開かれた国際建築博覧会で『鉄の記念塔(1913)』を、翌年の1914年にドイツ工作連盟の展覧会で『ガラスの家(1914)』を発表します。
先ほど紹介した通り、この二つはタウトの代表作として今日まで知られ、タウトの名前を広く知らしめることになる有名な作品になります。
『ガラスの家』を出展するにあたり、きっかけとなり、タウトに生涯影響を与えることになった詩人パウル・シェアバルトは、17歳年下のタウトに宛てた手紙で自身のことを「ガラスの父さん」と呼び、ガラス建築を世に打ち出した先駆者としての自負を語っています。
20世紀建築においてガラス建築といえば、ヴァルター・グロピウスのカーテンウォール構造やミース・ファン・デル・ローエの摩天楼を思い浮かべる人も多いかもしれません。
しかし先人とは言えずとも、シェアバルトとタウトもほぼ同時期にガラスの魅力と特性を捉え、いち早く建築に取り入れていることは事実のようです。
1916年、タウトはドイツ・トルコ友好会館の設計をするためにオスマン帝国コンスタンティノープルを訪れます。そこではモスク(イスラム教の礼拝を行う建物)の建築をおこなったミマール・スィナンの仕事に感銘を受け、晩年に至るまでトルコと関わりを持ち続けました。
夢みる建築家
『アルプス建築(1919)』
タウトは後年『日本美の再発見』などを著した作家としての側面でも知られることになりますが、作家としてのタウトは1919年に始まっていました。
1919年に出版された『アルプス建築(1919)』はニーチェの代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」に影響を受けたと見られる、アルプス山脈に建設することを想定した実現不可能な建築のスケッチ集です。
タウトは宇宙や幻想へのイメージを建築と組み合わせることを好んでいたようで、『アルプス建築』の中では第五章「星の建築」、同年に出版された『宇宙建築師(1919)』には物語調でギリシア建築から幾何学的に展開される幻想的なスケッチが残されています。
哲学者への造詣が深く、詩人との親交もあったタウトのスケッチは詩や小説を伴うこともあり、「幻想詩人」「建築詩人」と呼ばれることもあったようです。
社会生活と合理性によって生まれたモダニズム建築が流行の兆しを見せていたこの時代、一見タウトの行っていたこれらのスケッチは趣味か、企画倒れのような印象を受ける人もいるかもしれません。
しかし、この実現不可能な建築のスケッチにこそ表現主義のキモが秘められているのです。
デザインのモダニズム、アートの表現主義
作家の感情を中心に考える表現主義はタウトの作品を説明するために重要なキーワードです。
その起こりは20世紀初頭のドイツ、ポスト印象派の画家として知られるフィンセント・ファン・ゴッホをはじめとするドイツ表現主義です。
彼を皮切りに、絵画分野は青騎士、ブリュッケへと派生し、分野は映像、文学、音楽へと横断していきました。
そして建築の分野に流入してきた表現主義は、実現可能性よりも作家の感情や思想を重要視するような奇抜で伝統を打ち壊す設計を数多く生み出すきっかけになりました。
実際にそのまま建設された例はほとんどないもののその影響は大きく、ガラスや鉄筋コンクリートの導入と相まって建築という分野をより自由にした要素に挙げられます。
1910年代の建築界隈はバウハウスの設立に先立ってモダニズム建築が流行の兆しを見せ、建物に対して合理性と社会的役割を求め始めていました。
その中で表現主義は、いわばカウンターカルチャー的に評価されていきました。
モダニズム建築と表現主義建築、この二つはいわば、デザインとアートの違いと言ってもいいかもしれません。
色彩宣言
『オットー=リヒター通り集合住宅(1921)』
このように、伝統にとらわれない半ばアーティスティックな表現主義建築ですが、そのアート性の一端が垣間見える作品が、タウトが手がけた『オットー=リヒター通り集合住宅(1921)』です。
まさにアートといった鮮やかな色彩の由来は、タウトが1921年頃に発表した『色彩宣言』に端を発します。
「建築物はすべて色彩を持たなければならない」という主張通り、鮮やかな塗装を施します。
第一次世界大戦を終えて
その後、1924年にベルリンに戻ったタウトは、第一次世界大戦で敗戦したドイツのひとびとが、賠償金を払うために過酷な労働環境で働かされていることを目の当たりにします。
住宅供給公社ゲハークの主任建築家に就いたタウトは、労働者たちが住むジードルング(集合住宅)の建設に取り掛かります。
1924年から8年もの期間を経て、1万2千戸もの住宅を設計を終えたタウトは国際的な評価を受けることになります。
2008年にはタウトの設計したジードルング3点が「ベルリンのモダニズム集合住宅群」の一部として世界遺産(文化遺産)として登録されています。
時代の変化に追われるタウト
第一次世界大戦の敗戦を見届けた身として社会主義的な思想の持ち主でもあったタウトは、革命への憧れから1932年からソ連で仕事を受けていました。
しかし市局との意見が相容れずタウトはドイツに帰国することになります。
帰国したタウトでしたが、帰ってきたドイツにはヒトラー内閣が誕生しており、ソ連から帰国してきたタウトは政権から親ソ連派と見做され、建築家としての仕事を追われることになります。
1932年の「日本インターナショナル建築会」で日本へ招待されていたタウトは、パリ、スイスへの亡命を経て日本へやってくることになります。
日本への亡命
『桂離宮』
日本へやってきたタウトは「日本インターナショナル建築会」から手厚く招待され、京都府の皇室財産『桂離宮』や栃木県の『日光東照宮』を訪れました。
タウトは『日光東照宮』の過剰な装飾を「将軍芸術」と呼び批判したのに対し『桂離宮』の伝統美を「皇室芸術」と高く評価。
このことをタウトは『ニッポン(1934)』、『日本美の再発見(2019)』などで著し、桂離宮の魅力を世界中に広めることに大きく貢献しました。
仙台で工芸デザインの指導を行なったり、講義や執筆活動などをして過ごしたタウトでしたが、建築家として建築依頼を受けることは約3年のあいだほとんどなく、日本で建築家として滞在し続けることに不安を感じていました。
日本美の再発見/ニッポン
本記事でも触れた、日本滞在時にタウトが執筆した著書です。日本の建築をヨーロッパの建築と照らし合わせてどのようなことを思い、考えたのかを知ることができます。
トルコへの転身
『アンカラ大学(1937)』
1936年、タウトの下にトルコのイスタンブール芸術アカデミーで教授として働く招待が届きます。建築家としての仕事を求めて日本を発ったタウトは、同年11月から度々仕事を共にしたトルコを新しい住処とするのでした。
日本滞在時と打って変わってトルコでのタウトは多忙で、教授と並行して『アンカラ大学(1937)』などの教育機関から一般住宅まで幅広く仕事をし、その多くは今でも現存しています。
しかし多忙が祟ったのか、1938年には体調を崩しています。
晩年
体調不良と戦いながらタウトが最後に手掛けたのは当時のトルコ大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの死没に際しての祭壇制作でした。
トルコ渡航当時から懇意にしてもらい、首都アンカラの文化省建築局主席建築家としての地位を貰ったアタテュルク大統領の祭壇制作を終えた翌年、イスタンブール郊外に構える予定だった自宅の製作中、タウトは心臓疾患で病死します。
まとめ
いかがだったでしょうか。
モダニズム建築と同時期に表現主義建築を興したタウトは、20世紀建築の裏の立役者と言っても過言ではないでしょう。
世界の情勢に揉まれ故郷を離れながらも、日本では「日本美」の再発見と周知に貢献しながら建築理論を研究し、トルコでは再び建築家として今でも残る作品を数多く作りました。
その功績は、長い時間を経て世界遺産への登録や、著書の出版という形で今の私たちに伝えられている通りです。
おすすめ書籍
ブルーノ・タウトをもっと知りたい方にはこちらの書籍がおすすめです!
ブルーノ・タウトと建築・芸術・社会
タウトの人生を生誕から死没までがまとめられた本です。作品や影響を受けた芸術運動まで章立てされているので、タウトについて詳しく知りたい方は一読をおすすめします。
建築家ブルーノ・タウト ー人とその時代、建築、工芸ー
現存するタウトの作品を実際に訪ねて撮影された、建築写真集。コラムとしてタウトの活動などにも言及されており、作品と一緒にタウトがどのように建築に携わってきたのかを知ることができます。