こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはエゴン・シーレという人物をご存じですか?
オーストリア・ハンガリーを代表する画家のひとりであるエゴン・シーレ。不思議なポーズをとったモデルとインパクトのある画風で、印象に残っている方も多いのではないでしょうか。
また、28歳という若さで病死したことやシーレの美学であるエロティシズムと周りからの不理解など、一見力強い画風と裏腹に悲壮感のあるエピソードを多くもつ画家でもあります。
本記事ではそんなエゴン・シーレの人生と作品についてご紹介します。
目次
エゴン・シーレって?
基本情報
本名 | エゴン・シーレ(Egon Schiele) |
生年月日 | 1890年6月12日-1918年10月31日(28歳没) |
国籍/出身 | オーストリア・ハンガリー ウィーン近郊 |
学歴 | ウィーン美術アカデミー |
分野 | 絵画 |
傾向 | 象徴派、ウィーン分離派、表現主義 |
師事した/影響を受けた人 | フィンセント・ファン・ゴッホ、エドヴァルド・ムンクなど |
経歴と作品
生まれと環境
シーレは1890年6月12日、鉄道員の父と敬虔なカトリック教会信徒であった母の元に生まれます。
シーレが初めて絵を描いたのは1歳半の時だったとのことです。天才画家シーレの画家としてのスタートラインは思わぬ不幸で始まりを迎えることとなりました。
三人兄弟の長男であったシーレは、初等教育を受けるために市外へ移住するほど愛情を注がれていました。技術者としての成功を期待していた父アドルフ・シーレは時に意見をぶつけることもあったようでしたが、シーレが15歳のときに父は持病の梅毒で死亡してしまいます。
そのことがショックだったのか叔父に引き取られてから、シーレの学業は伸び悩み、あまり学業に興味を示さなくなりました。しかし叔父はそのことを咎めることなく、シーレが興味を持っていた芸術分野に理解を示し、応援していました。
シーレの生まれた1980年は奇しくもゴッホの没年と重なっており、その後ゴッホに強く影響を受けたシーレにとってこれは自分の宿命を感じる偶然だったかもしれません。
アカデミックな美術教育に見切りをつけ、クリムトに弟子入りする
初等教育を終える頃、シーレは中等教育ではなく職人への道を進むことを決め、ウィーン工芸学校に学びます。このウィーン工芸学校はグスタフ・クリムトが学んだ学校でもありました。
しかし成績を落とし工芸学校を落第したシーレは、ウィーン美術アカデミーへ進学します。このウィーン美術アカデミーはかのアドルフ・ヒトラーが受験したことで有名な名門の美術学校でしたが、当時最年少での合格を果たしました。しかし、シーレにとってはあまり良い環境ではなかったようです。
シーレは中等教育を投げ打った代わりに美術の専門的な教育を受けることができましたが、必ずしも自分の価値観に合うとは限りませんでした。保守的でアカデミックな古典主義を教えるアカデミーの方向性に辟易としたシーレは、ウィーンで開催された総合芸術展「クンストシャウ」で工芸学校時代の先輩でもあるクリムトと知り合い、弟子入りを志願することにします。
クリムトとの出会いと、アカデミーとの訣別
『芸術家の妹 (1908)』
クリムトはシーレの熱意を認め、弟子として可愛がり存分な支援をしました。そのような支援もあり1908年には初の個展を開いています。翌年はアカデミーを退学して「Neukunstgruppe」という交流会を設立します。「新たな芸術の集い」という意味のこの交流会は、アカデミーの保守的な教育を嫌ったシーレにとって自由な表現と交流を象徴するコミュニティでした。
実際にアカデミー退学後のシーレは、アカデミーの制約を抜け自由に表現を模索しました。生涯にわたって様々な芸術運動を渡り歩くシーレですが、この頃からその表現の研鑽には余念がなかったと思えますね。
社会への不満とゴッホの作品との出会いが進路を決める
アカデミーを退学したシーレに衝撃を与えたのは、クリムトが開いたフランス印象派の絵画展でした。その中でも特にシーレはフィンセント・ファン・ゴッホと、ゴッホに影響を受けた画家たちによるドイツ表現主義の作品に強く影響を受けました。
シーレの作品の、主観的な感情によって歪められた現実のモチーフという特徴はこのドイツ表現主義の影響が色濃く残るポイントでもあります。
すでに幾人かのパトロンを得ていたシーレですが、芸術家として独立するには心許ない経済事情が叔父の目に留まり、軍人への転向を強く勧められます。
このような理由からシーレは社会情勢の不安定さと、芸術家として先行きの見通せない自身への不満が重なり、強い現実批判の気持ちを育てていくことになります。
シーレは芸術家としての河岸を変えるつもりで、母の故郷であるクルマウという田舎町へ引っ越します。国勢の不安定なウィーンよりも落ち着いたこの町を「死の町」と呼び、自身にインスピレーションを与えてくれる場所として愛着を抱いていました。
性と生と死
『三人の少女 (1911)』
自己表現のための絵画を模索していたシーレは、特に人体への興味に精力的でした。ただし、古典会がに見られるような肉体美への賞賛のためではありません。
シーレは人体構造への造詣をそのままキャンバスに反映させるのではなく、大胆な構図とねじれたポーズで自身の感情を表現しました。
また、シーレは絵画のテーマ選びも独特で挑戦的でした。
シーレは、当時倫理的に避けられていた死や性といったテーマをありのまま描き作品へ反映させていったのです。絵画における性は古くから分野として存在していましたが、シーレの描く(主に)女性のヌードはどこか生々しく、また古典絵画のヌードのような肉体美の礼賛や偶像崇拝的なテーマも見られないことからか多くの批評家には過激だとして受け入れられませんでした。
というのも、シーレは度々未成年をアトリエに迎え入れ、ヌードモデルをしてもらっていたのです。また、工芸学校時代には妹のゲルティにもヌードモデルを頼んでおり、肉体関係もあったといいます。こういったスキャンダルが田舎町のクルマウでは瞬く間に悪い噂を引き寄せ、しだいにシーレはクルマウを去ることを余儀なくされました。1911年には17歳の少女ヴァリと同棲し、ウィーンから離れたチェコの田舎町へ移り住んでいます。
フロイトの影響を受け“エロティックな神聖さ”を描く
『うつ伏せで横たわる女(1917)』
シーレがジェンダーや生死への関心を持ったのは、精神哲学への興味も大きな理由の一つでした。
ジークムント・フロイトがこの時期に執筆した『性理論に関する3つの論考』には「性的倒錯」「幼児性欲」「思春期以降の形態変化」という三点のトピックについて書かれており、シーレはこの論考から影響を受け、絵画における性描写を深掘りすることに役立てました。
このあとシーレは移り住んだチェコの田舎町で町の子供を招いてデッサンのモデルとしていたことで住民の不審を招くことになります。しかし、彼の書簡には描いたデッサンについて「永遠の子ども」という表現をしています。
シーレは社会情勢や現実への鬱屈とした不満を抱え、それを燃料として創作活動に励んでいました。これまでのスキャンダルを鑑みると、性的倒錯がその糧の一部となっていたことは否定できませんが、田舎町に住む子供の、純心さや無垢でありのままの姿に魅力を感じ、それを描くことが社会への反抗を表すと考えていたようにも思えます。
シーレは「エロティックな芸術にも神聖さはありうる」とし、アカデミーの提唱する古典的神聖さへの反抗を作品にしていきました。
しかし1912年のノイエ・プレス紙には「彼の異常さは、これまでウィーンで見た中で最も嫌なものの一つである」と書かれ、過激で革新的なシーレの芸術性は理解されないどころか、嫌悪の対象になることすらありました。
数々のスキャンダルの果て、ついに投獄される
『紫の靴下を履いて座っている女 (1917)』
シーレたちがやってきたチェコの田舎町もまた、その閉鎖的な風俗ゆえにシーレの創作活動を歓迎はしませんでした。シーレもヴァリとの関係を隠さず、町の女性や娼婦に声をかけヌードモデルを頼んでいたため、町民の反感を買い近隣住民に追い出されることになります。
1914年、14歳の少女がシーレの家で一夜を過ごしたと警察に告発したことがきっかけで、シーレに捜査の手が伸びます。シーレ自身は家出してきた少女を一晩泊めただけと手記に残していますが、シーレの家が捜索されたときに、少女の裸体を描いた作品の数々が押収され、結果的に24日間の拘留を受けます。
拘留から解かれウィーンに戻ったシーレは、家の向かいに住んでいたハルムス家の姉妹と知り合っていました。シーレは妹のエーディトと婚約することを決めますが、ヴァリとの関係も続いたままでした。これまで少女との付き合いで痛い目を見たシーレは「社会的に許される人間を選んだ」としていますが、一方でヴァリとの付き合いも諦められていませんでした。エーディトとヴァリの双方に、関係を続けたいと申し出ましたが、許されるはずもなくヴァリはシーレの元を去っていきました。
1915年にエーディトとの結婚式が執り行われ、晴れて花婿となったシーレでしたが、その一方で義姉となったアデーレとも親密な関わりを持っていました。実際、『紫の靴下を履いて座っている女 (1917)』は義姉のアデーレがモデルになったとされており、アデーレはこの頃にシーレとの肉体関係があったと告白しています。
第一次世界大戦への従軍経験が、芸術の爆発を生む
『座っている芸術家の妻 (1918)』
エーディトとの結婚のわずか三日後、シーレは第一次世界大戦へ召集されます。しかしシーレは戦地に直接立つことはなく、文化人であったことから前線へ立つことを見逃され、プラハの捕虜収容所で看守の仕事をしました。まもなくプラハからウィーンへ転属し、兵役中に暖めていたアイデアを発散するように制作に打ち込みました。
翌年の1918年、クリムトが第49回ウィーン分離派展を開き、シーレはこれに50点以上の作品を出品しました。これまで知名度のなかったシーレの作品は一気に注目を浴び、絵の買取依頼が次々と舞い込むようになりました。
晩年
富裕層の住む高級住宅地で、売れっ子画家としての第一歩をまさに踏み出そうとしていたシーレでしたが、妻エーディトがシーレの子を宿したままスペイン風邪に倒れ、10月28日に死去します。シーレも同じ病にかかり、その三日後、10月31日に亡くなりました。
28歳、あまりに短い人生でした。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
様々な芸術運動から磨き上げた独特の美学を持ちながら、周りから理解されない時期を送りつつも最後には飛躍の兆しを見つめながら病に倒れたシーレ。
女性関係には奔放で、理解が得られないばかりかトラブルに発展したこともありましたが、その卓越した観察眼と表現力で描かれた人体表現は未だ多くの人を魅了して止みません。
もしシーレが天寿を全うするまで創作活動を続けていたらどんな画家になっていたでしょうか。
夭折の天才、エゴン・シーレの人生と作品を振り返りながらそんな空想に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。
おすすめの書籍
エゴン・シーレの人生と作品をもっと知りたい方におすすめです!
アンリ・マティスの人生と作品について詳しく分かりやすく書かれた本です。新書サイズで読みやすく、気軽に手に取ることができます。当時の手紙や批評家の言葉が誌面からの引用があり、シーレの生きた時代の空気を生々しく感じることができます。
画家自身の言葉を中心に引用した「自作を語る画文集」シリーズの第六弾です。シーレ自身が書いた手紙や詩文からの引用が作品と共に紹介されており、よく見る作品のリアルな裏側を知ることができる貴重な資料です。
エゴン・シーレ まなざしの痛み
エゴン・シーレの紆余曲折の人生を、代表作と共に紹介した本です。「ジャポニズムとシーレ」や「コレクターとしてのシーレ」など、新鮮な切り口で書かれた章もあり、より多角的にシーレの人生と作品を見つめ直すことができるでしょう。