【徹底解説】フェルナン・レジェって?日常を幾何学的に再構成する独特なキュビスト

【徹底解説】フェルナン・レジェって?日常を幾何学的に再構成する独特なキュビスト
『Discs』(1918)

こんにちは、ユアムーン編集部です。

皆さんは「フェルナン・レジェ」という人物をご存知でしょうか?

レジェは、ピカソやブラックなど他のキュビスト達とは異なるキュビスムのスタイルを確立し、その作品には円筒形(Tube)に抽象化された物体が多く描かれることから「Tubism」などとも呼ばれることとなる、キュビスムの発展に貢献したフランス人画家です。

今回はそんなフェルナン・レジェの人生と作品についてご紹介します!

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フェルナン・レジェってどんな人?

本名 フェルナン・レジェ(Fernand Léger)
生年月日 1881年2月4日
出身 フランス オルヌ県 アルジャンタン
学歴 エコール・デ・ボザール、アカデミー・ジュリアン
分野/芸術動向 絵画 / キュビスム

経歴と作品

生まれと環境

フェルナン・レジェは1881年2月4日、フランスのオルヌ県アルジャンタンで、父親が牧畜を営む家庭に生まれます。

レジェは家族に父のような商売をするように育てられ、芸術家という道を勧められることはなかったようですが、自身のデッサンの才能に気づくと芸術への興味が湧きます。

1897年から1899年まで建築家に弟子入りし、そこで建築製図や写真のレタッチなどの仕事をしながら芸術家としての道を追求します。

1900年にパリに移った後、1902年から1903年の間ヴェルサイユで兵役に就きます。

兵役を修了し、エコール・デ・ボザールに入学しようとするも不合格となったレジェは、装飾美術学校に入学しながら、エコール・デ・ボザールの絵画教授であるフランスの画家「ジャン=レオン・ジェローム」のもとで無所属の学生として、ジェロームが亡くなる1904年まで絵画を学びます。

また、そのほかにアカデミー・ジュリアンでも絵画を学び、この時期からレジェは本格的に画家として活動を始めます。

初期のスケッチ(1901~1904)

作品の抽象化

Paul Cézanne『Montagne Sainte-Victoire』 (1904)

1907年、秋の展覧会であるサロン・ドートンヌでポール・セザンヌの作品に出会い、その物体を単純な幾何学的形状に抽象化するアプローチに影響を受け、その後のレジェの作品は幾何学的な描画が多く見られるようになります。

1909年、モンパルナスにアトリエを構えたレジェは、ジョルジュ・ブラック、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーらと知り合い、1910年にはサロン・ドートンヌで初期のキュビスム作品を展示します。

『森の裸婦』(1910)

『Nudes in the Forest』(1910)

この作品はレジェが印象派から脱却し、キュビスムを探求したことを示す、最初の代表作とされていて、幾何学的・機械的なその作品には3人の裸婦が描かれていることが確認できます。

レジェのキュビスムは同時期のキュビスト達のスタイルとは異なり、単色、幾何学、質量感などのレジェの個人的な関心が作品に現れています。

また、レジェは都市化や工業化の利点を描くことにも関心を示しており、レジェのスタイルはしばしばイタリア未来派とも並べられることがあるようです。

レジェのキュビスムは円筒形(Tube)を多用したことから、批評家からはその作風を「Tubism」と呼ばれ、彼はその呼び名を気に入ってはいませんでした。

レジェ独自のキュビスム

『The Exit of the Russian Ballet』(1914)

レジェはピカソやブラックの作品に見られるような陰鬱で緻密な作風とは異なり、明るい原色を使い、ひと筆で素早く描いていくことにより、キュビスムに楽観主義を持ち込んだとされています。

『The Exit of the Russian Ballet(ロシア人バレエダンサーの出口)』はキュビスムの楽観的なイメージを代表する作品で、太い黒の輪郭線と、原色の青、赤、黄などの鮮やかな配色が特徴です。

レジェの作品は18世紀、19世紀とは異なる新しい美的価値観を生み出したとされています。

第一次世界大戦の経験と作風の変化

『Soldier with a pipe』(1916)

1914年から第一次世界大戦が勃発し徴兵されると、1917年まで従軍します。

塹壕の中でも仲間の兵士たちのスケッチを描いたり、1916年に一時帰国した際には『Soldier with a pipe(パイプを持った兵士)』を描きます。

しかし同年の9月、ドイツ軍によるマスタードガス攻撃に遭い、一時生死の狭間を彷徨って長い療養生活を過ごすことになります。

レジェはこの前線での凄惨な体験を経て、以下のように語り、これまでの物とは全く異なる作風に変化していきます。

「1912年から13年にかけての抽象主義を忘れたのは、私の周りにいた男たちの粗野さ、多様さ、ユーモア、そして完璧さ、実用的な現実に対する彼らの正確な感覚と、生死をかけたドラマの中でのその応用…私は、その色彩と機動性を全て備えた俗語で絵を描きたくなった。」

『Discs(円盤)』(1918)

『Discs』(1918)

パリの病院で長い療養生活を経た後、レジェは「円盤シリーズ」として知られることになる円盤の形を表現した作品を作り始めます。

「Discs」はレジェの作風が劇的に変化し、より機械的になった時代の始まりに描かれ、都市の喧騒や工業化文明によるユートピアを表現しているかのように鮮やかな色彩と、幾何学的な構成で形作られています。

その他の円盤シリーズ

結婚と、関心対象の広がり

1920年、レジェはジャンヌ=オーギュスティーヌ・ロワと結婚し、モダニズム建築の巨匠「ル・コルジュビエ」という人物と出会います。

『Three Women』(1921)

この時代の作品は作品の抽象度が低くなり、具象的なスタイルで人間が主題の作品が多く描かれるようになります。また、コルジュビエは未来派との関係があったことから、レジェの作品にも未来派の影響が見られる作品が存在します。

技術や機械への関心と、人間の姿への関心とが結びついた彼の世界観の表現は絵画だけにとどまらず、本の挿絵の制作や、バレエや演劇の舞台装置や衣装を制作にも反映されました。そして1924年にはパリに現代美術のフリースクールを設立し、マリー・ローランサンらと共に教鞭を執るなど精力的な活動を続けました。

1930年代のスタイル

1930年代になると、それまで機械的・無機的だったレジェの作品は、徐々に有機的なスタイルに変化していきます。1930年代半ばから一般の労働者に絵画を教え始めた彼は、現代美術をより民主的で全ての鑑賞者に理解しやすいものにしようと努力していたようです。

晩年

第二次世界大戦が勃発するとレジェはアメリカへ移住し、1940年から1945年の間そこで暮らしました。

その間描かれた作品は、1910年代の作品に多く見られる黒と原色の赤、青、黄、緑などを使う鮮やかな配色に加え、より輪郭線が強調され、現代的でグラフィカルな作風へと変化します。

晩年はパブリック・アートへの関心を高め、大学のステンドグラス窓や、オペラのためのモザイク画などの大規模なプロジェクトを手掛けるなどして、1955年8月17日にフランスの自宅で亡くなりました。

まとめ

いかがでしたか?

今回はピカソやブラックと並びキュビスムの発展に貢献した、独自スタイルを持つキュビスト、「フェルナン・レジェ」についてご紹介させていただきました。

新しい美的価値観をもたらした彼の作風は、円筒形という独自の幾何学的形状と大胆な色使いが特徴でした。彼の作品は日常の風景が幾何学的な形をもって再構築されているような雰囲気を醸し出しており、見ている側は強烈なインパクトを受けることでしょう。

レジェについて気になった方は、さらに深掘りしてみてはいかがでしょうか?



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