こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはゲルハルト・リヒターという人物をご存知ですか?
ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)は、1932年にドイツ東部のドレスデンで生まれた画家です。写真をもとに描いて画面をぼかした「フォトペインティング」、塗料の色見本のような「カラーチャート」、大きなへら(スキージ)で絵具を引きずって描く抽象画など、まったく違って見える作品を60年以上にわたって描き続けてきました。
東京国立近代美術館は2022年の個展の案内で、リヒターを「現代アートの巨匠」と紹介し、油彩画、写真、デジタルプリント、ガラス、鏡など多岐にわたる素材を用いながら、人がものを見て認識するという原理に一貫して取り組んできた画家だと説明しています。
リヒターの絵は、具象と抽象を自由に行き来します。それでも、作品を順に見ていくと「絵画とは何か」「写真と絵はどう違うのか」という同じ問いが通っていることに気づきます。本記事ではそんなゲルハルト・リヒターの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleゲルハルト・リヒターって?

基本情報
| 本名 | ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter) |
| 生年月日(没年月日) | 1932年2月9日生まれ(2026年10月時点で存命) |
| 国籍・出身 | ドイツ/ドレスデン生まれ。ドイツ東部のライヒェナウとヴァルタースドルフで育つ |
| 学歴 | ドレスデン美術大学(Hochschule für Bildende Künste Dresden)、デュッセルドルフ芸術アカデミー(Kunstakademie Düsseldorf) |
| 分野 | 絵画(油彩)、写真、デジタルプリント、ガラス、鏡、ステンドグラス |
| 傾向 | 写真をもとにした具象画(フォトペインティング)と抽象画を並行して描く。資本主義リアリズム |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | デュッセルドルフでカール・オットー・ゲッツに師事。1959年のドクメンタ2でジャクソン・ポロックとルーチョ・フォンタナの抽象画に強い印象を受ける |
| 拠点 | ケルン(2026年10月時点の所属画廊の紹介による) |
リヒターと関わりのある作家や美術の流れについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
経歴と作品
ドレスデンで学んだ若い画家(1932年〜1961年)
ゲルハルト・リヒターは1932年2月9日、ドレスデンで生まれました。作家の公式サイトに掲載された伝記によると、1935年に一家はライヒェナウ(現在のポーランドのボガティニア)へ移り、その後、チェコとの国境に近いヴァルタースドルフという村で暮らしました。
公式サイトの年譜によると、学校を出たリヒターは、ツィッタウで舞台美術と看板描きの仕事を学びました。その後、ドレスデン美術大学に入学し、自由絵画を、のちに壁画を専攻します。卒業制作では、ドレスデンのドイツ衛生博物館のために、社会主義リアリズムの伝統に沿った大きな壁画を描きました。大学はこの作品を高く評価し、大学内のアトリエを3年間使う権利をリヒターに与えています。在学の時期は、公式サイトの年譜では「1952〜57年」の項に、所属画廊のデイヴィッド・ツヴィルナーの紹介では「1951〜56年」と書かれており、資料によって年が分かれます。
大きな転機は1959年に訪れました。西ドイツのカッセルで開かれた国際美術展「ドクメンタ2」を訪れ、ジャクソン・ポロックとルーチョ・フォンタナの抽象画に強い印象を受けたのです。社会主義リアリズムを学んできた若い画家にとって、西側の新しい絵画は大きな刺激でした。
1961年、リヒターはモスクワとレニングラードへの旅行の帰りに荷物を西ベルリンに預け、ベルリンの壁が築かれる直前に東ドイツを離れました。公式サイトの年譜は、壁が建設されたのが同じ1961年の8月だったことを書き添えています。
写真を描くことから始まった(1961年〜1960年代半ば)
西ドイツに移ったリヒターは、デュッセルドルフ芸術アカデミーに入り直し、画家カール・オットー・ゲッツのもとで学びました。ここで出会ったのが、のちに画廊主として知られるコンラート・ルーク(コンラート・フィッシャー)、ジグマー・ポルケ、ブリンキー・パレルモといった仲間たちです。
1962年、リヒターは西側で初めて作品を発表しました。けれども、そのとき見せた絵の多くを、後に自ら壊してしまいます。そして同じ年、雑誌の写真をもとに『Tisch(テーブル)』を描き、自分でまとめる作品目録(カタログ・レゾネ)の1番に置きました。写真を絵の出発点にするという、リヒターの仕事の土台がここで生まれたのです。公式サイトの年譜には、リヒターがこの年に初めてポップ・アートの作品を図版で見たことも記されています。
1963年には、デュッセルドルフの家具店ベルゲスで、ルークとともに展覧会「ポップと生きる:資本主義リアリズムのためのデモンストレーション」を開きました。公式サイトの年譜はこれを、家具店を会場にした一種のパフォーマンス・アートだったと説明しています。東ドイツの「社会主義リアリズム」をもじった「資本主義リアリズム」という呼び名は、東京国立近代美術館の紹介でも、リヒターが名を知られるきっかけになった運動として取り上げられています。同じ1963年、リヒターはルークとパリへ行き、画廊主イレアナ・ソナベンドに「ドイツの新しいポップ・アーティスト」として作品を見せましたが、成果は得られませんでした。この年にはマルセル・デュシャンの展覧会も見ています。
1964年、リヒターはミュンヘンのハイナー・フリードリヒ画廊、デュッセルドルフのアルフレート・シュメラ画廊、ベルリンのルネ・ブロック画廊で、初めての個展を開きました。
『Verwaltungsgebäude(Administrative Building)』(1964年)
同じ1964年に描かれたのが、ドイツ語で「管理棟」を意味する題名の『Verwaltungsgebäude』です。画面いっぱいに、窓が規則正しく並ぶ横長のビルがあり、手前の道路には古い型の自動車が数台止まっています。色は白と灰色だけで、建物の輪郭も窓の格子も、横方向にこすったようにぶれています。
作家の公式サイトによると、この絵は新聞やアルバムの写真を集めた資料集『アトラス』の「新聞・アルバム写真(1962〜1966年)」のシートにある写真がもとになっています。何の変哲もない事務所の建物を、写真のぶれやにじみまで含めて油絵具で描き写すことで、見る人は「これは写真なのか、絵なのか」と一瞬迷います。被写体よりも、写真という見え方そのものを描いた絵だといえます。


色と灰色の実験(1960年代半ば〜1970年代)
1966年、リヒターはカラーチャートを描き始めました。公式サイトの年譜は、これらの絵がペンキ屋の色見本のように見え、ポップ・アートとミニマリズムの両方を合わせたものだと説明しています。最初のカラーチャートは翌1967年にミュンヘンで展示されました。
1967年には灰色一色の「グレイ・ペインティング」を描き始め、4枚のガラス板を使った立体作品『4枚のガラス板』も制作しています。同じ年、ハンブルク美術大学の客員教授となり、レックリングハウゼン市の美術賞「ユンガー・ヴェステン賞」を受けました。
1968年からは、自分で撮った写真をもとに描くようにもなりました。同じころ、写真や新聞の切り抜き、スケッチ、絵はがきなどを集めて台紙に並べる『アトラス』の整理を始めます。公式サイトの年譜は、『アトラス』がそれ自体で作品として展示されてきたと書いています。具象と抽象の両方を描くリヒターの作風は、ひとつの分類に収まらないものになっていきました。
『Stadtbild Madrid(Cityscape Madrid)』(1968年)
1968年に描かれた『Stadtbild Madrid』は、高い場所から見下ろしたマドリードの街並みです。縦横およそ2.8メートル四方の大きな画面に、四角い建物の屋根や窓、斜めに走る大通り、街路樹のかたまりが、白と黒と灰色の太い筆の跡で描かれています。
作家の公式サイトによると、この作品は『アトラス』の「都市(1968年)」のシートにある写真をもとにしています。この作品を収めるサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)の学芸員レイチェル・ジャンスは、同館の音声解説で、この絵は近づくとばらばらに崩れて見え、離れると安定した街の姿にまとまると述べています。さらにジャンスは、不安定さとその反対側がつねに対になっていることがリヒターの作品を貫くテーマであり、戦争と東西ドイツの分断を経験したリヒターたちの世代には、当時の西ドイツに生まれつつあった「安定」への不信があったと説明しています。

1970年代に入ると、リヒターの活動は国際的に広がります。1969年にはニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館で開かれた若手作家9人の展覧会に作品が並び、1970年にはパレルモとともにニューヨークを訪れました。この年には灰色の絵と、雲を描いた絵をさらに描いています。1971年からはデュッセルドルフ芸術アカデミーで教え始めました。1972年には第36回ヴェネツィア・ビエンナーレで西ドイツ代表を務め、百科事典の写真をもとに、文化や科学の分野で名を知られた人物を描いた『48の肖像』を発表しています。同じ年に国際展ドクメンタ5に参加し、オランダのユトレヒトで『アトラス』を展示しました。1975年には観光地の写真をもとにした絵や海の風景を描き、1978年にはカナダのハリファックスにあるノヴァスコシア美術デザイン大学で客員教授を務めています。
テート・モダンは回顧展の案内で、リヒターの仕事はいくつもの対立で組み立てられているように見えると説明しています。写真をもとにした絵と抽象画、伝統的な静物画と重い主題の絵、灰色一色の絵と多色の格子の絵。計画して秩序立てて描かれた絵もあれば、予測できない筆跡と消し跡の積み重なりから生まれた絵もあります。テートによれば、リヒターはこの対立を保つこともあれば、ときにほどいてしまうこともあるといいます。
『256 Farben(256 Colors)』(1974年/1984年)
カラーチャートの代表的な作例が、SFMOMAで見られる『256 Farben』です。幅およそ4メートルの白い画面に、赤、黄、緑、青、茶、黒など色とりどりの長方形が、縦16段、横16列の格子状に並んでいます。
SFMOMAの音声解説によると、リヒターはこの作品のために数学的なしくみを考えました。まず三原色を混ぜて12の色相をつくり、そこに白と黒を加えて明るさや濃さを変え、180色を用意します。それぞれの色に番号を付け、箱から番号をくじのように引いて、その順に格子へ色を置いていきました。マス目は256あるため、同じ色がくり返し現れます。学芸員のジャンスは、リヒターが偶然の考え方を使い、自分の外にあるものから絵を生み出す方法を探っていたと語っています。
音声解説はまた、このころフォトペインティングを白と黒で描いていたリヒターにとって、カラーチャートは絵に色を取り入れる方法を体系的に探るものだったと説明しています。制作年は作家の公式サイトとSFMOMAの双方で「1974/1984」と表記されています。


1974年には、さらに大きな『4096色』も描かれました。この作品は、後で紹介するケルン大聖堂のステンドグラスの出発点になります。1976年からは「アプストラクテス・ビルト(抽象画)」と呼ばれる抽象画の連作を始め、1977年にはドクメンタ6に参加しました。
具象と抽象を同時に描く(1980年代)
1981年、リヒターの抽象画は技法と色の両面で大きく変わり始めます。公式サイトの年譜はこれを「目を見張る変化」と書いています。同じ年、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで開かれた展覧会「絵画の新しい精神」に作品が展示され、デュッセルドルフ美術館では初めての「鏡」の作品が発表されました。翌1982年にはドクメンタ7に参加し、アーノルト・ボーデ賞を受けています。この年に描き始めたのが、1本のろうそくを写真のように描いた「ろうそく」の連作です。テート・モダンの回顧展の案内でも『ろうそく』(1982年)は代表作の一つに挙げられています。
写真と抽象のつながりを示す作品として、テートは1980年の『ストローク(赤の上に)』を挙げています。筆の一筆を撮った写真をもとにした、長さ20メートルにおよぶ大作で、2011年の回顧展ではドイツ国外で初めて展示されました。抽象画に見える筆跡も、写真を通して描けば具象画になります。リヒターにとって二つの描き方は、いつも行き来できるものでした。
公式サイトの年譜は1983年から84年の項で、リヒターがデュッセルドルフからケルンへ移り住んだことを記しています。1985年にはウィーンでオスカー・ココシュカ賞を受け、1986年には初めての大規模な回顧展がデュッセルドルフで開かれ、ベルリン、ベルン、ウィーンを巡回しています。同じ1986年には、作家自身の覚え書きが、アムステルダムの美術館の展覧会カタログで初めて公刊されました。1988年にはトロントのオンタリオ美術館をはじめ、シカゴ、ワシントン、サンフランシスコを巡る回顧展が開かれ、同じ年にフランクフルトのシュテーデル美術学校の客員教授も務めています。
『Dorf(Village)』(1988年)
1980年代後半のリヒターは、抽象画と並んで風景画を描き続けました。『Dorf』(村)は、そうした風景画の一つです。左手に赤茶色の石の壁、右手に枝を広げる大きな木があり、その奥に窓のある建物が見えます。手前には日の当たる明るい地面と木の影が広がっています。画面全体がやわらかくぼけていて、ピントの合っていない古い写真を見ているような印象を与えます。
作家の公式サイトによると、この絵は『アトラス』の「風景(1986年)」のシートにある写真をもとに描かれました。写真のぼけを描き写すことで、どこにでもありそうな村の一角が、記憶の中の風景のような遠さを帯びます。

1988年、リヒターは1970年代の西ドイツで起きた事件を題材にした15点の連作『1977年10月18日』を描きました。テートは、この作品を白黒の写真をもとにした連作として紹介しています。この連作は1995年にニューヨーク近代美術館(MoMA)が収蔵しました。主題が人の死にかかわるため、本記事では内容の詳しい説明は控えます。
スキージがつくる抽象画(1990年代)
リヒターの抽象画を代表するのが、大きなスキージ(へら)を使って描かれた作品です。テート・モダンの回顧展の案内は、リヒターがしばしばスキージで絵具をキャンバスの上に引きずって抽象画を描いてきたと説明しています。
SFMOMAの学芸員ジャンスは、同館の抽象画の音声解説で、リヒターの抽象画は一層ずつ積み重ねてつくられ、ときには絵具を削り取り、ときには層どうしを混ぜ合わせると述べています。大きなスキージを画面の横や縦に引くと、下の層の絵具が動き、層が混ざったり、はがれたり、新しく重なったりします。ジャンスはこれを、長い時間をかけて行われる、とても身体的な作業だと語っています。
『Wald (4)(Forest [4])』(1990年)
1990年の『Wald (4)』は、高さ3.4メートルを超える大きな抽象画です。濃い青と黒の地に、オレンジや黄土色の絵具が細かくはがれたように散らばり、ところどころに青緑や白が光っています。画面の中ほどには横に走る線があり、上と下で色の調子が少し変わります。縦方向と横方向にこすられた絵具の跡は、題名のとおり、木々の幹や、水面に映る森のようにも見えます。
作家の公式サイトによると、この作品は2011年にテート・モダンで始まった回顧展「ゲルハルト・リヒター:パノラマ」にも出品されました。具体的なものは何も描かれていないのに、題名を知ると森が見えてくる。スキージの偶然がつくる模様と、見る人の想像が出会う場所に、リヒターの抽象画の魅力があります。

1989年には抽象画の連作『息』『道』『川』『岩』を、続いて『1月』『12月』『11月』を描き、公式サイトの年譜はこれらを象徴的な連作と呼んでいます。
1990年代、リヒターの評価は世界的なものになりました。1991年にはロンドンのテート・ギャラリーで回顧展が開かれ、1992年にはドクメンタ9で一室を構成しました。1995年にはイスラエルのウルフ賞を受けています。そして1997年、第47回ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受け、同じ年に日本美術協会の高松宮殿下記念世界文化賞を受賞しました。同年のドクメンタ10では『アトラス』を展示しています。1999年には、ベルリンの連邦議会議事堂(ライヒスターク)のロビーに作品『黒・赤・金』を設置しました。
ガラスと光へ広がる仕事(2000年代〜)
2002年にはニューヨーク近代美術館で大規模な回顧展が開かれました。2005年から2006年には、デュッセルドルフで始まった個展が日本の金沢21世紀美術館とDIC川村記念美術館を巡回しています。東京国立近代美術館によると、これがリヒターの日本の美術館での個展として、2022年の展覧会の前の最後のものでした。
2007年、ケルン大聖堂の南側の翼廊に、リヒターがデザインした高さ20メートルのステンドグラスが完成しました。公式サイトの年譜によると、このデザインは1974年の絵画『4096色』から着想を得たもので、72色、およそ1万1500枚の約10センチ角のガラスでできています。ケルン市は、リヒターが2007年4月16日に、造形芸術家として初めてケルン名誉市民の称号を受けたことを伝え、この南翼廊の窓を、リヒターが第二の故郷に贈った特別な贈り物だと紹介しています。
2008年には、自分で撮った写真の上に絵具をのせた「オーバーペインテッド・フォト」の展覧会が初めてレバークーゼンで開かれました。同じ年にはガラスの裏側にエナメル塗料を流した連作『シンドバッド』も制作しています。2011年には、デジタルプリントの新しい連作「ストリップ」を構想しました。2006年には6点の抽象画からなる「ケージ」の連作を描いており、テート・モダンの回顧展では、この連作が一室を構成しました。
写真や切り抜きを集めた『アトラス』も、仕事の柱であり続けました。公式サイトの年譜によると、2013年にはミュンヘンのレンバッハハウスが『アトラス』の全802枚の台紙を展示しています。2011年には、映画監督コリンナ・ベルツによるリヒターの記録映画が世界各地の映画館で上映されました。
リヒターが生まれた町ドレスデンでも、その仕事は大切にされています。公式サイトの年譜によると、2004年にドレスデンのアルベルティヌムがリヒターの作品のための3つの展示室を設け、2010年の改装再開館でも2つの展示室がリヒターに充てられました。ドレスデン国立美術館群には、リヒターの作品にかかわる本やカタログ、記事、写真、手紙などを集める研究拠点「ゲルハルト・リヒター・アルヒーフ」が置かれています。
2011年にはテート・モダンで回顧展「ゲルハルト・リヒター:パノラマ」が始まり、ベルリンの新国立ギャラリー、パリのポンピドゥー・センターへ巡回しました。テートはこの展覧会を、写真をもとにした写実的な絵画、スキージによる色鮮やかな抽象画、肖像画、風景画、歴史画まで、リヒターの仕事の全体を見せるものだと紹介しています。
2014年には、4点の大きな抽象画からなる《ビルケナウ》を完成させました。東京国立近代美術館は、この作品がホロコーストを主題にした、作家にとって重要な作品だと説明しています。
2015年には、作曲家アルヴォ・ペルトとともに、イギリスのマンチェスター国際フェスティバルで現代美術と音楽を組み合わせた展覧会をつくりました。
日本では2022年6月7日から10月2日まで、東京国立近代美術館で「ゲルハルト・リヒター展」が開かれました。同館によると、日本の美術館での個展は16年ぶり、東京の美術館での大規模な個展は初めてで、リヒター自身と財団が手元に置いてきた作品を中心に、約110点で60年の画業をたどる内容でした。
| 年 | 主な受賞・出来事 |
|---|---|
| 1967年 | ユンガー・ヴェステン賞(レックリングハウゼン) |
| 1972年 | 第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ 西ドイツ代表 |
| 1982年 | アーノルト・ボーデ賞 |
| 1985年 | オスカー・ココシュカ賞(ウィーン) |
| 1995年 | ウルフ賞(芸術部門) |
| 1997年 | 第47回ヴェネツィア・ビエンナーレ 金獅子賞/高松宮殿下記念世界文化賞 |
| 2007年 | ケルン大聖堂 南翼廊のステンドグラス完成/ケルン名誉市民 |
| 2011年 | テート・モダンで回顧展「パノラマ」 |
| 2022年 | 東京国立近代美術館で「ゲルハルト・リヒター展」 |
なお、作家の公式サイト(gerhard-richter.com)は、2026年10月時点で「This site is unavailable.」と表示され、閲覧できない状態です。本記事の作品番号・制作年は、同サイトの過去の保存版(Internet Archive)と作品を収める美術館の公式ページで確認しています。
まとめ
いかがだったでしょうか。ゲルハルト・リヒターの人生と作品について、ご紹介してきました。
リヒターは1932年にドレスデンで生まれ、東ドイツで社会主義リアリズムの壁画を学んだのち、1961年に西ドイツへ移りました。1962年に雑誌の写真をもとにした『Tisch』を作品目録の1番に置いてから、写真のぶれやぼけまで描き写すフォトペインティング、偶然の手順で色を並べるカラーチャート、スキージで絵具の層を動かす抽象画へと、方法を次々に広げていきました。
2007年のケルン大聖堂のステンドグラスは、1974年の『4096色』から生まれています。灰色の写真の絵も、色見本のような絵も、森のような抽象画も、ばらばらの仕事に見えて、どれも「絵を見るとはどういうことか」を確かめる試みでした。
リヒターの絵は、近づいたときと離れたときで違って見えます。機会があれば、ぜひ実物の前で、距離を変えながら眺めてみてください。
Euphoric " " の視点
リヒターは、写真をもとにぼかした絵、色見本のような絵、へらで絵具を引きずる抽象画と、まったく違って見える仕事を続けてきました。けれども作品を順にたどると、その根には「絵を見るとはどういうことか」という一つの問いが通っています。
1974年の『4096色』から2007年のケルン大聖堂のステンドグラスが生まれたように、一つの試みが時を経て新しい形に育っていく歩みは、問いを持ち続けることの豊かさを示しています。近づいたときと離れたときで表情を変える画面は、見る人自身の目の働きにも気づかせてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。以下の3点は、2026年10月時点でサンフランシスコ近代美術館の作品ページに「展示中」と表示されています。






