【徹底解説】月岡芳年とは?「最後の浮世絵師」と呼ばれた絵師の人生と作品を解説!

【徹底解説】月岡芳年とは?「最後の浮世絵師」と呼ばれた絵師の人生と作品を解説!

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは月岡芳年(つきおか よしとし)という人物をご存知ですか?

月岡芳年(1839〜1892)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。名前の「芳年」は「よしとし」と読みます。歌川国芳のもとで学び、武者絵、歴史画、美人画と幅広い分野で人気を集めました。国立新美術館のアートコモンズに掲載された展覧会の紹介では、しばしば「最後の浮世絵師」とも呼ばれる、明治時代を代表する浮世絵師とされています。

晩年には、月にまつわる物語を100図に描いた『月百姿(つきひゃくし)』や、さまざまな時代の女性の表情を描き分けた『風俗三十二相』を完成させました。

本記事ではそんな月岡芳年の人生と作品についてご紹介します。

月岡芳年って?

基本情報

本名吉岡米次郎(通称・米次郎。辞典によっては本名を金三郎とする)。月岡の姓は月岡雪斎の名跡を継いだもの
読み方つきおか よしとし(Tsukioka Yoshitoshi)
画号一魁斎(いっかいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、大蘇(たいそ)など。1873年以降は「大蘇芳年」と名乗った
生年月日(没年月日)天保10年3月17日(1839年4月30日)〜明治25年(1892年)6月9日
国籍・出身日本/江戸生まれ。東京で没
学歴1850年(嘉永3年)、12歳で浮世絵師・歌川国芳に入門
分野浮世絵(錦絵)、新聞の挿絵
傾向迫力ある構図。武者絵、歴史画、美人画、物語絵など多彩な画風
師事した人物・影響を受けた人物歌川国芳(師)。歴史画では菊池容斎に私淑した。門下に水野年方、山中古洞ら

名前の読みは、国立国会図書館の典拠データでも「ツキオカ, ヨシトシ」、同館の電子展示会「近代日本人の肖像」でも「つきおか よしとし」とされています。

芳年の師である歌川国芳については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

浮世絵師・歌川国芳とは|読み方・生涯・代表作・技法を解説

経歴と作品

江戸に生まれ、12歳で歌川国芳に入門する(1839年〜1850年代)

月岡芳年は天保10年3月17日(1839年4月30日)、江戸に生まれました。日本大百科全書(コトバンク)によれば、本名は吉岡米次郎です。のちに月岡雪斎の名跡を継ぎ、「月岡」を名乗るようになりました。

1850年(嘉永3年)、12歳のとき、芳年は当時の人気浮世絵師・歌川国芳の門に入ります。国芳は武者絵や戯画で知られた絵師で、多くの弟子を育てました。国立新美術館のアートコモンズに掲載された展覧会の紹介は、芳年が国芳のもとで武者絵、歴史画、美人画など幅広いジャンルの作品に取り組んだと紹介しています。

日本大百科全書によれば、入門から3年後には、早くも最初の作品を世に出しました。世界大百科事典によれば、国芳に入門して「芳年」と名乗りました。同じ国芳門下には、のちに芳年とともに作品を手がける兄弟子の落合芳幾もいました。

若き浮世絵師として(1860年代)

国立新美術館のアートコモンズに掲載された展覧会の紹介によれば、芳年は1860年(万延元年)ごろから本格的に絵師として活動を始めました。

町田市立国際版画美術館の展覧会を伝えたインターネットミュージアムのレポートでは、妖怪を題材にした『和漢百物語』が、芳年の初期の妖怪絵の傑作として紹介されています。芳年は若いころから、物語や伝説の場面を一枚の絵に劇的にまとめる力を発揮していました。

芳年の名を広く知らしめたのは、1866年(慶応2年)に兄弟子の落合芳幾とともに描いた連作『英名二十八衆句』でした。日本大百科全書によれば、この連作で芳年は一躍人気絵師となります。芳年はこうした作品から「血みどろ絵」の絵師としても知られていますが、本記事では、美人画、歴史画、そして晩年の『月百姿』を中心にご紹介します。

改訂新版 世界大百科事典(コトバンク)によれば、芳年はこの時期、一魁斎、玉桜楼などの号を用いていました。

「大蘇芳年」の誕生と歴史画(1870年代)

明治に入ると、芳年の画風は大きく変わっていきます。世界大百科事典とブリタニカ国際大百科事典(コトバンク)によれば、芳年は1873年(明治6年)以降、「大蘇芳年」と名乗るようになりました。

この時期の芳年が力を入れたのが、歴史画です。複数の辞典が、芳年が幕末の歴史画家・菊池容斎に私淑して歴史画を研究したと記しています。世界大百科事典とブリタニカ国際大百科事典は、芳年が西洋の絵の描き方も取り入れ、画風が多様に広がったと解説しています。

インターネットミュージアムのレポートは、明治期の作品として『大日本名将鑑』や『皇国二十四功』を紹介しています。いずれも日本の歴史上の人物を描いたシリーズです。

月岡芳年の歩みを5段階で示した図。1850年に12歳で歌川国芳に入門し、1860年ごろ本格的に絵師として活動を始め、1873年から大蘇芳年と名乗り、1885年に月百姿の刊行が始まり、1892年4月に月百姿全100図が完結した。
図:月岡芳年の歩み

新聞の挿絵で新しい道を開く(1870年代〜1880年代)

明治の新しいメディアにも、芳年は活躍の場を広げました。世界大百科事典によれば、芳年は1878年(明治11年)以降、『絵入自由新聞』などに絵を寄せ、新聞の挿絵として浮世絵に新しい面を開こうとしました。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」と日本大百科全書は、芳年が維新後、『郵便報知新聞』『絵入自由新聞』『やまと新聞』などの挿絵を手がけたと記しています。日本大百科全書は、芳年が時事報道の分野に新しい面を見いだしたとも書いています。木版の錦絵で培った腕を、日々の出来事を伝える新聞の紙面に生かしたのです。

明治の芳年の人気を伝える資料もあります。国立国会図書館の電子展示会「水野年方と明治の浮世絵」は、明治18年(1885年)ごろの浮世絵師の人気番付『東京流行細見記』を紹介しています。そこでは芳年が1位に挙げられ、2位の小林永濯、3位の落合芳幾、4位の豊原国周らを上回っています。国立新美術館のアートコモンズに掲載された展覧会の紹介も、当時の芳年の人気は随一で、名実ともに明治時代を代表する浮世絵師だったと書いています。

大判の歴史画を描き続ける(1883年)

新聞の仕事と並行して、芳年は大判の歴史画の錦絵も描き続けました。その一つが、1883年(明治16年)の『藤原保昌月下弄笛図』です。ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)の記録によれば、3枚続きの多色木版画です。

『藤原保昌月下弄笛図』(1883年)

大きな満月の浮かぶ夜の野原で、平安時代の貴族・藤原保昌が、風にたなびく衣をまとって笛を吹きながら歩いています。その後ろでは、黒っぽい装束の男が身を低くかがめ、保昌の様子をうかがっています。3枚の画面いっぱいに揺れるすすきの穂と、静かに笛を吹く保昌の落ち着いた姿の対比が、夜の野原の緊張感を生み出しています。

月岡芳年『藤原保昌月下弄笛図』(1883年)。満月の夜の野原で笛を吹く貴族と、その後ろで身をかがめる男を描いた3枚続きの木版画
月岡芳年『藤原保昌月下弄笛図』(1883年)3枚続・多色木版、ロサンゼルス・カウンティ美術館(ハーバート・R・コール・コレクション)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

晩年の代表作『月百姿』(1885年〜1892年)

芳年が晩年のすべてを注いだのが、『月百姿』です。月にまつわる日本や中国の物語、歴史上の逸話、和歌や漢詩を題材に、100図にわたって描いた連作です。

太田記念美術館の特別展を伝えたインターネットミュージアムのレポートによれば、『月百姿』が出版されたのは明治18年から25年にかけてで、全100図が刊行されたのは明治25年(1892年)4月でした。芳年が亡くなったのは同じ年の6月ですから、文字どおり最晩年の作品ということになります。同じレポートは、一見べた塗りに見えても、角度を変えると文様が浮かび上がる「正面摺り」など、摺りにもすぐれた技が使われていることを紹介しています。

国立国会図書館は、『月百姿』の多くの図をデジタルコレクションで公開しています。ここでは、その中から何図かをご紹介します。

『月百姿 稲葉山の月』(1885年)

『稲葉山の月』は、レポートによれば明治18年(1885年)12月10日に届け出られた、シリーズの初期の一図です。国立国会図書館の記録でも、刊行は明治18年とされています。大きな月の前で、すすきの生えた険しい崖を、武者姿の男が身をかがめてよじ登っています。灰色にぼかした夜空と、月の光に浮かぶ崖の輪郭が、静かな夜の緊張感を伝えています。

月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』(1885年)。大きな月の前で、すすきの生えた崖を武者姿の男がよじ登る
月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』(1885年)多色木版、国立国会図書館/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

『月百姿 嫦娥奔月』(1885年)

題名の「嫦娥(じょうが)」は、中国の伝説で月へ昇ったとされる女性の名です。国立国会図書館の記録では、この図も明治18年(1885年)の刊行です。花模様の衣と長い領巾(ひれ)をなびかせた女性が、渦を巻く雲の上を軽やかに昇っていきます。背景は月を思わせる大きな円に満たされ、女性の装身具の細かな模様まで丁寧に摺り表されています。

月岡芳年『月百姿 嫦娥奔月』(1885年)。花模様の衣と長い布をなびかせた女性が、渦巻く雲の上を昇っていく
月岡芳年『月百姿 嫦娥奔月』(1885年)多色木版、国立国会図書館/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

『月百姿 名月や畳の上に松の影 其角』(1885年)

題名は、江戸時代の俳人・宝井其角の句「名月や畳の上に松の影」からとられています。インターネットミュージアムのレポートによれば明治18年(1885年)10月の届け出で、国立国会図書館の記録でも明治18年の刊行です。座敷にくつろいだ女性が団扇を手に、ふと視線を落としています。月そのものは描かれず、画面右下の畳の上に、松の枝の影が淡く落ちています。句の情景を、月の光が畳に映す影だけで表した一図です。

月岡芳年『月百姿 名月や畳の上に松の影 其角』(1885年)。団扇を持った女性が座敷にくつろぎ、畳の上に松の枝の影が落ちている
月岡芳年『月百姿 名月や畳の上に松の影 其角』(1885年)多色木版、国立国会図書館/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

『月百姿 石山月』

『石山月』は、山あいの寺の縁側で、長い黒髪の女性が欄干の内側に座り、外の月を眺めている図です。軒先には灯籠が下がり、遠くの岩山が淡い色で描かれています。女性の衣の紫の模様と、余白の多い静かな画面が印象的です。国立国会図書館の記録では明治20年(1887年)の刊行とされていますが、これと異なる年を記す資料もあるため、本記事では年を見出しに入れていません。

月岡芳年『月百姿 石山月』。寺の縁側の欄干の内側に、長い黒髪の女性が座って月を眺めている
月岡芳年『月百姿 石山月』多色木版、国立国会図書館(同館の記録では明治20年刊)/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

『月百姿 鶏鳴山の月 子房』(1886年)

国立国会図書館の記録で明治19年(1886年)刊行の『鶏鳴山の月 子房』は、中国の故事に取材した一図です。題名の「子房」は、漢の時代の軍師・張良の字(あざな)として知られています。白い衣をまとい、腰に刀を帯びた人物が、月の浮かぶ夜空を背に、岩山の上に立っています。紫と赤の衣の裾が風にあおられ、高い場所に立つ人物の緊張感を伝えています。

月岡芳年『月百姿 鶏鳴山の月 子房』(1886年)。白い衣の人物が、月の浮かぶ夜空を背に岩山の上に立っている
月岡芳年『月百姿 鶏鳴山の月 子房』(1886年)多色木版、国立国会図書館/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

『月百姿 月宮迎 竹とり』(1888年)

『月宮迎 竹とり』は、『竹取物語』の結末、かぐや姫が月の都からの迎えを受けて天へ昇っていく場面を題材にしています。国立国会図書館の記録では明治21年(1888年)の刊行です。画面の上では、十二単のかぐや姫が天女とともに雲に乗って月へ向かい、下では竹取の翁が地面に手をついて見上げています。月の白い円と、姫の衣の鮮やかな色が、別れの場面を美しく彩っています。

月岡芳年『月百姿 月宮迎 竹とり』(1888年)。十二単の姫が天女とともに雲に乗って月へ昇り、下で翁が見上げている
月岡芳年『月百姿 月宮迎 竹とり』(1888年)多色木版、国立国会図書館/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

レポートは、『月百姿』の妖怪の図には恐ろしい描写が少なく、月の出ている夜の静けさの表現が重視されているようだとも書いています。和歌や漢詩、音楽にまつわる逸話を題材にした図も数多く、芳年の集大成といえる連作です。

月百姿の特徴を3つの点で示した図。月にまつわる日本と中国の物語や逸話を題材にしたこと、明治18年から25年にかけて全100図を刊行したこと、正面摺りなどすぐれた摺りの技が使われていることを並べている。
図:『月百姿』の3つの特徴

美人画の傑作『風俗三十二相』(1888年)

『月百姿』の刊行が続いていた1888年、芳年は美人画のシリーズ『風俗三十二相』も手がけました。横浜美術館の鑑賞の手引きによれば、江戸から明治にかけてのさまざまな身分や職業の女性たちを描いた、全32枚からなる美人画のシリーズで、1888年(明治21年)の多色木版です。女性たちのさまざまな表情や気持ちが、一図ごとに描き分けられています。

『風俗三十二相 けむさう 享和年間内室之風俗』(1888年)

横浜美術館の手引きによれば、この図は享和年間(1801〜1803年)の女性を描いたもので、「内室」とは上流階級の家の奥様のことです。蚊遣り(葉や木をくすべた煙で蚊を追い払うもの)に火をつけたところでしょうか、立ちのぼる煙に体を反らし、目を細めて煙たそうにしている姿が表されています。

同じ手引きは、画面の中央を斜めに上っていく大きな煙の曲線に注目しています。煙が透けて向こう側が見えるように、着物や団扇の色の一部が淡くなっており、背景にはぼかし摺りも使われています。こうした透明感のある表現には摺師のすぐれた技が、一本ずつ細かく表された髪の生え際や、体の形に沿って大きさを変える着物の模様には、一流の彫師の仕事が見て取れると解説しています。

月岡芳年『風俗三十二相 けむさう 享和年間内室之風俗』(1888年)。立ちのぼる煙に目を細め、団扇を手に体を反らす女性
月岡芳年『風俗三十二相 けむさう 享和年間内室之風俗』(1888年)多色木版、国立国会図書館/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

『風俗三十二相 うるささう 寛政年間処女之風俗』(1888年)

国立国会図書館の電子展示会「水野年方と明治の浮世絵」でも紹介されている一図です。寛政年間(1789〜1801年)の若い娘が、赤い鈴の首輪をつけた白い猫を抱き寄せ、頬を寄せています。猫は顔をしかめるように目を細め、題名のとおり「うるさそう」にしています。娘の着物の細かな幾何学模様と、髪に結んだ赤い布の色が、画面をにぎやかに彩っています。

月岡芳年『風俗三十二相 うるささう 寛政年間処女之風俗』(1888年)。若い娘が赤い首輪の白い猫を抱き寄せ、猫がうるさそうに目を細めている
月岡芳年『風俗三十二相 うるささう 寛政年間処女之風俗』(1888年)多色木版、国立国会図書館/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

『風俗三十二相 暗さう 明治年間妻君の風俗』(1888年)

シリーズの中には、芳年と同じ時代、明治の女性を描いた図もあります。『暗さう』では、縞の着物の女性が、暗くなった行灯の明かりに手を伸ばし、のぞき込んでいます。横浜美術館の手引きは、かわゆらしそう、涼しそう、暗そうなど、シリーズの女性たちの内面や感情が豊かに表されており、見比べると表情の違いが際立って見えてくると紹介しています。

月岡芳年『風俗三十二相 暗さう 明治年間妻君の風俗』(1888年)。縞の着物の女性が行灯の明かりに手を伸ばしてのぞき込んでいる
月岡芳年『風俗三十二相 暗さう 明治年間妻君の風俗』(1888年)多色木版、国立国会図書館/出典:Wikimedia Commons(国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

浮世絵ができるまでと芳年の役割

芳年の作品の魅力を知るには、浮世絵がどのようにつくられていたかを知っておくと役立ちます。横浜美術館の鑑賞の手引きによれば、浮世絵版画は江戸時代に確立した多色木版画で、原画を描く「絵師」、版木を彫る「彫師」、紙に摺る「摺師」という専門の職人たちの分業でつくられました。芳年は、このうちの「絵師」です。

同じ手引きは、何年も修業した彫師や摺師の高い技術によって、絵に描かれた繊細な線や細かい模様、微妙に変わる色が版画として再現されていると解説しています。『月百姿』の正面摺りや、『風俗三十二相』のぼかし摺りも、芳年の下絵と職人たちの技が組み合わさって生まれたものです。

浮世絵版画の分業を3つの役割で示した図。原画を描く絵師、版木を彫る彫師、紙に摺る摺師が順につながり、月岡芳年は絵師にあたる。
図:浮世絵版画の分業

武者絵から役者絵まで、芳年の多彩な画題

芳年の仕事の幅の広さは、多くの資料が強調しています。国立新美術館のアートコモンズに掲載された展覧会の紹介は、芳年が歴史絵や美人画、役者絵、古典画など多種多様な浮世絵を手がけ、それぞれの分野で独特の画風を示したと記しています。日本大百科全書も、芳年が多様な画風をこなしたと書いています。

同じ紹介は、芳年が生きた時代を、鎖国の世から突然の文明開化を求められた動乱の時代と表現しています。江戸の浮世絵の伝統を受け継ぎながら、新聞や西洋の描き方といった明治の新しいものも取り入れたことが、芳年の作品の幅を広げたといえるでしょう。

町田市立国際版画美術館の展覧会を伝えたインターネットミュージアムのレポートは、展示を「若き芳年の活躍」と「『大蘇』以降の芳年」に分けて構成し、芳年の門人の年景が描いた「大蘇芳年像」も紹介しています。師から弟子へ、絵の技とともに師の姿も描き継がれていました。

晩年と弟子たち(1890年代)

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」は、芳年の門下に山中古洞や水野年方がいたと紹介しています。日本人名大辞典(コトバンク)も、弟子として水野年方らの名を挙げています。

国立国会図書館の電子展示会「水野年方と明治の浮世絵」によれば、水野年方は13歳で芳年に入門して浮世絵を学び、明治後期には新聞の挿絵を多く手がける人気絵師になりました。年方の弟子には、美人画の名手として知られる鏑木清方や池田蕉園がおり、同展示は年方が近代日本画に与えた影響は小さくないと紹介しています。歌川国芳から芳年へ、芳年から年方へ、そして年方から清方へと、浮世絵の技は明治以降の日本画にも受け継がれていきました。

歌川国芳から月岡芳年、水野年方、鏑木清方へと続く師弟のつながりを4段階で示した図。
図:国芳から清方へ続く師弟のつながり

月岡芳年は明治25年(1892年)6月9日、東京で亡くなりました。『月百姿』の全100図が刊行された、わずか2か月後のことでした。

まとめ

いかがだったでしょうか。月岡芳年の人生と作品について、ご紹介してきました。

芳年は1839年に江戸に生まれ、12歳で歌川国芳に入門しました。幕末には若手の人気絵師となり、明治に入ると「大蘇芳年」と名乗って歴史画に力を注ぎ、新聞の挿絵という新しい舞台でも活躍しました。

晩年の『月百姿』では、月にまつわる物語を100図にわたって描き、正面摺りなどの技とともに、夜の静けさを画面に表しました。『風俗三十二相』では、江戸から明治の女性たちの32通りの表情を、彫師や摺師の技とともに描き分けています。

「血みどろ絵」の印象が先に立つことも多い芳年ですが、その仕事の幅はとても広いものでした。機会があれば、ぜひ美術館や国立国会図書館のデジタルコレクションで、『月百姿』や『風俗三十二相』をじっくり眺めてみてください。

Euphoric " " の視点

芳年は、武者絵、歴史画、美人画、新聞の挿絵と、時代が変わるたびに新しい舞台へ仕事を広げた浮世絵師でした。晩年の『月百姿』では、恐ろしい描写よりも月の出ている夜の静けさを描き、『風俗三十二相』では江戸から明治の女性たちの表情を32通りに描き分けています。

その名品は、芳年の下絵と、彫師や摺師の技が組み合わさって生まれたものです。国芳から芳年、年方、清方へと、技とともに師の姿も描き継がれていきました。一人の才能を支え、次の世代へ手渡す人々の仕事にも目を向けると、浮世絵の見え方はさらに豊かになります。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。浮世絵は光に弱いため、常設で展示されていないことがあります。国立国会図書館の所蔵品は、デジタルコレクションでいつでも画像を見ることができます。

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