こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはレッサー・ユリィという人物をご存知ですか?
レッサー・ユリィ(Lesser Ury、1861〜1931)は、ドイツのベルリンを拠点に活動した画家・版画家です。雨にぬれた石畳に街灯や馬車の明かりが映り込む夜の大通り、人でにぎわうカフェ、湖に沈む夕日。19世紀の終わりから1920年代にかけて、近代都市ベルリンの光と空気を、油彩とパステルで描き続けました。日本語では「レッサー ユリィ」「ユリィ」とも表記されます。
若いころは評価に恵まれず、画壇の有力者との関係にも苦しみましたが、60歳を迎えるころには「首都を芸術でたたえた画家」と呼ばれるまでになりました。2021年から2022年にかけて東京と大阪を巡回した「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」展にも作品が並び、日本でも知られるようになっています。
本記事ではそんなレッサー・ユリィの人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | レオ・レッサー・ユリィ(Leo Lesser Ury)。一般にはレッサー・ユリィ(Lesser Ury)の名で知られる |
| 生年月日(没年月日) | 1861年11月7日〜1931年10月18日 |
| 国籍・出身 | ドイツ/プロイセン王国ポーゼン州ビルンバウム(現在のポーランド、ミェンジフト)生まれ。ベルリンで没 |
| 学歴 | デュッセルドルフの美術アカデミー、ブリュッセルの王立美術アカデミーで学ぶ。その後パリ、シュトゥットガルト、ミュンヘンでも研鑽を積む |
| 分野 | 油彩画、パステル画、版画(エッチング・ドライポイント) |
| 傾向 | 印象派の手法による都市の夜景、雨の街路、カフェの情景、湖や森の風景。黒を多く使い、強い光の反射を描く。旧約聖書に取材した大作も手がけた |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ベルリンで画家アドルフ・フォン・メンツェルとマックス・リーバーマンの支援を受ける(のちにリーバーマンとは不和に) |
ユリィが活躍した時代の美術の流れについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
経歴と作品
ビルンバウムに生まれ、ベルリンへ(1861年〜1870年代)
レッサー・ユリィは1861年11月7日、プロイセン王国のポーゼン州ビルンバウムに、ユダヤ系の家庭の三人兄弟の末っ子として生まれました。ビルンバウムは現在のポーランド西部の町ミェンジフトにあたります。
父はパン職人でしたが、ユリィが子どものころに亡くなります。1872年ごろ、母は子どもたちを連れてベルリンへ移りました。ロンドンのベン・ウリ美術館の作家紹介によると、ユリィは画家を志す前に、まず商人のもとで見習いとして働いています。
のちに「ベルリンの画家」と呼ばれることになるユリィにとって、この街との最初の出会いは少年時代のこの引っ越しでした。
デュッセルドルフ、ブリュッセル、パリで学ぶ(1879年ごろ〜1886年)
18歳でベルリンを離れたユリィは、デュッセルドルフの美術アカデミーで絵を学び始めました。デュッセルドルフは当時、ドイツでも指折りの美術教育の中心地でした。
1882年にはベルギーのブリュッセル王立美術アカデミーに籍を置きます。ベルリンの国立美術館(ナショナルギャラリー)の作品解説によると、ユリィは1882年から1884年まで、現在はブリュッセルの郊外となっているフランドル地方の村、フォルルーヴェ(Volluvet)で暮らしていました。この時期には、輪郭のはっきりした村の情景が描かれています。
ユリィはブリュッセルに籍を置く前にもパリなどに滞在しており、その後もパリ、シュトゥットガルト、ミュンヘンで腕を磨きました。ベン・ウリ美術館は、ユリィがパリで近代都市とその夜の生活に強く引きつけられ、それがのちに彼のもっともよく知られた主題になったと紹介しています。
『エスタミネ(フランドルの酒場)』(1884年)
フランドル時代を代表する作品が、ベルリンの旧ナショナルギャラリーが所蔵する『エスタミネ(フランドルの酒場)』です。「エスタミネ」は、ベルギーやフランス北部の村にある小さな居酒屋のことです。縦100.5センチ、横52センチの縦に長い画面に、村の酒場の店内が描かれています。
手前には、はだしで立つ二人の子どもがいます。奥の子は背を向け、手前の小さな子は肩越しにこちらを振り返っています。画面の右奥では、赤い服の女性が大きな容器の取っ手に手をかけています。旧ナショナルギャラリーの解説は、扉、テーブル、台座、窓といった幾何学的な形が画面を組み立て、その中に二人の子どもと酒場の女性が置かれていると説明しています。
茶色から赤褐色の落ち着いた色の中に、窓から入る白い光と、赤や緑の小さな色が効いています。同館は、ユリィがこの村の酒場に引かれたのは、その簡素さのためだったのだろうと述べています。光と影への印象派的な関心と、きっちり組み立てられた空間が同居している点が、この絵の見どころです。

ベルリンに戻り、都市を描く(1887年〜1890年代前半)
1887年、ユリィはベルリンに戻ります。初めての展覧会は、1888年に画商フリッツ・グルリットのもとで開かれたとも、1889年とも伝えられ、資料によって年が異なります。
ベン・ウリ美術館によると、ベルリンでの最初の反応は冷ややかなものでした。それでも、当時のベルリン画壇を代表する画家アドルフ・フォン・メンツェルとマックス・リーバーマンがユリィを支持します。ユリィはまた、ベルリンの美術アカデミーが与えるミヒャエル・ベーア賞を受け、その賞金でイタリアを旅しました。
この時期にユリィが取り組んだのが、夜の大都市という主題です。馬車が行き交う大通りの路面に、雨が街灯の光を映す。ユリィはその一瞬の光景を、暗い色の中に明るい反射を置く大胆な描き方でとらえていきます。
『ベルリンの街の情景(ライプツィヒ通り)』(1889年)
ベルリンの近現代美術館、ベルリニッシェ・ギャラリーが所蔵する一枚です。描かれているのは、ベルリン中心部の繁華街ライプツィヒ通り。縦107センチ、横68センチの画面のほとんどが、夜の闇と雨にぬれた路面で占められています。
左手には馬車が並び、白い馬が首を下げています。道の先には街灯の白い光が点々と続き、その光が濡れた石畳に縦長の筋となって映り込んでいます。右手前には、傘をさした女性たちの姿が見えます。人物や馬車の輪郭は暗がりに溶け込み、はっきり見えるのは光とその反射だけです。
画面の左下には「L. Ury」の署名があります。この作品は2018年にベルリンのエフライム宮殿で開かれた展覧会「大都市の美」や、2019年にリーバーマン・ヴィラで開かれたリーバーマンとユリィの展覧会にも出品されました。夜の雨の大通りは、生涯を通じてユリィの代名詞となる主題です。

『赤い絨毯』
エルサレムのイスラエル博物館が所蔵する室内画です。同館の表記では制作年は1890年代とされています。
大きな窓の向こうに、白っぽい街並みが見えます。窓辺の椅子には、黒い服の女性が背を向けて座り、ひざの上の白い布に針を運んでいます。足元には布が広がり、左手には誰も座っていない椅子が一脚置かれています。そして床一面を覆うのが、画面の下半分を占める鮮やかな赤の絨毯です。
白、黒、赤というはっきりした色の組み合わせと、窓から差し込む冷たい光。夜の街路とは対照的に、昼の静かな室内を描いた作品ですが、光が物の表面をどう照らすかへの関心は共通しています。

リーバーマンとの不和とミュンヘン時代(1890年代〜1900年)
順調に見えたベルリンでの歩みは、まもなく大きくつまずきます。長い不遇の始まりは、支援者だったリーバーマンとの関係の悪化でした。
ユダヤ系の新聞「ユーディッシェ・アルゲマイネ」の記事によると、ユリィはリーバーマンの絵『ラーレンの亜麻小屋』(1887年)について、その光の効果は自分が後から手を加えて良くしたのだ、という趣旨の発言をしたとされます。記事はこれを「重大な失言」と呼んでいます。リーバーマンは、のちに「十一人の会」やベルリン分離派で中心的な役割を担う人物でした。ユリィはその後、これらの団体から遠ざけられることになります。
ユリィは1893年、ミュンヘン分離派に加わりました。分離派とは、19世紀末のドイツ語圏で、保守的な官展から離れて新しい芸術を発表しようとした画家たちの団体です。ベン・ウリ美術館によると、ユリィはその後1901年にベルリンへ戻っています。
ノレンドルフ広場のアトリエと再評価(1901年〜1920年代)
ベルリンに戻ったユリィは、1901年からノレンドルフ広場1番地の屋根裏のアトリエに住み、亡くなるまでそこで暮らしました。ベルリン市立博物館の作品解説が伝えている事実です。同館によると、後でご紹介する『ノレンドルフ広場駅の夜』は、このアトリエから描かれました。
転機は1915年に訪れます。画家ロヴィス・コリントがベルリン分離派の会長になると、ユリィはようやく分離派の展覧会に参加できるようになりました。ベン・ウリ美術館によると、ユリィは1915年と1922年にベルリン分離派で作品を発表しています。
1922年、60歳を迎えたユリィの作品150点を集めた展覧会が開かれました。このときベルリン市長はユリィを「首都を芸術でたたえた人」と呼んで顕彰しています。長い不遇の末に、ユリィはベルリンを描く画家として広く認められるようになりました。
この時期のユリィは、油彩と並んでパステルを多く用いました。色の粉を固めたパステルは、乾くのを待たずに素早く色を重ねられるため、移ろう光や空気をとらえるのに向いています。ユーディッシェ・アルゲマイネの記事は、夜の街の強い光の反射をパレットナイフで置いたこと、湖や空の風景にしばしば色鮮やかなパステルを使ったことを、ユリィの特徴として挙げています。

『ノレンドルフ広場駅の夜』(1925年)
ユリィがアトリエの窓から見た景色を描いた作品で、ベルリン市立博物館が所蔵しています。同館の解説によると、ノレンドルフ広場の駅が夜の闇に黒いシルエットとして浮かび、ちょうど列車が入ってくるところです。前景には通行人が近づき、背景では広場の南側の建物の明かりが輝いています。
大きなドーム屋根のアーチの中は、駅の照明で金色に光っています。右手には明かりのともった車両が連なり、手前の小道には赤い服の人々の小さな姿が見えます。画面の大部分は青緑と黒の暗い色で塗られ、その中に灯りの黄色が点々と散らばっています。
ベルリン市立博物館は、ユリィをドイツ印象派の先駆けの一人に数え、夜の都市を神秘的なものとして見るまなざしを、この作品の特徴として挙げています。1901年から暮らした場所を、20年以上たってなお描き続けたことからも、ユリィにとって身近な街の夜がいかに尽きない主題だったかがうかがえます。

この1925年には、ユリィがアトリエでベルリンの街を木炭で描く姿が、16ミリフィルムに記録されています。ドイツ国立科学技術図書館(TIB)の映像アーカイブには、ハンス・キュルリスの文化研究所が撮影した短い白黒映像「アトリエのレッサー・ユリィ、ベルリン1925年」が所蔵されています。
版画と、農村を見つめる目
ユリィは油彩とパステルだけでなく、銅版画も手がけました。題材は都市だけではありません。若いころのフランドルの村と同じように、田園で働く人々にも目を向けています。
『納屋の床で』(1923年)
アメリカのワシントンにあるナショナル・ギャラリー・オブ・アートが所蔵するドライポイントです。ドライポイントとは、銅板に鋭い針で直接線を刻み、インクを詰めて刷る版画の技法で、線のふちに独特のにじみが出ます。版の大きさは縦20.8センチ、横14.9センチです。
薄暗い納屋の中で、白いシャツの男性が背を丸め、長い棒を両手で振り上げています。足元には刈り取った麦わらが積まれています。棒の先に打ち具のついた殻竿(からざお)で穀物を打つ、脱穀の作業を思わせる場面です。背景の壁は細かく刻まれた線で黒く覆われ、その暗がりの中で、男性のシャツと床に落ちる光だけが白く浮かび上がっています。
暗い地の中に光を浮かび上がらせる構成は、夜の街路を描いた油彩と同じです。画面の下には鉛筆の署名と「18/100」という刷りの番号が入っています。

旧約聖書の大作と、晩年(1890年代〜1931年)
風景や街路で知られるユリィですが、本人が大きな意味を見いだしていたのは、旧約聖書に取材した大きな絵でした。ユーディッシェ・アルゲマイネの記事は、『エレミヤ』(1897年ごろ)や『井戸辺のリベカ』(1908〜1909年)などの宗教的な主題を挙げています。また、ユダヤ教のラビ、アブラハム・ガイガーを描いたパステルの肖像(1907年ごろ)は、現在ベルリン・ユダヤ博物館の所蔵です。
ベルリン・ユダヤ博物館によると、ユリィは「根本的な社会の理念を描く大きな絵」を描くことを夢見ていました。1928年、ケルンで開かれた国際新聞博覧会「プレッサ」のユダヤ館の栄誉の間のために、ユリィは油彩『約束の地を望むモーセ』を完成させます。同館はこの絵を、生涯をかけたモーセへの関心の締めくくりと位置づけています。油彩はその後ベルリンのユダヤ人共同体が取得し、1933年に開館したベルリンの最初のユダヤ博物館で展示されましたが、現在は失われ、同じ主題のパステル(1928年、50.5×35.5センチ)が同館に残っています。
ユリィは1931年10月18日、ベルリンで亡くなりました。70歳の誕生日を記念してナショナルギャラリーで予定されていた展覧会は、その数週間前に亡くなったため追悼展となり、158点の油彩とパステルが並びました。ユーディッシェ・アルゲマイネの記事によると、ユリィが生涯に残した作品はおよそ1500点にのぼります。
没後の評価
ユリィの評価は、没後も続く研究と展覧会によって形づくられてきました。1920年には、美術史家カール・シュヴァルツがユダヤ系の芸術家を紹介する叢書「ユダヤ文庫」の一冊としてユリィについての本を出しています。
生誕100年の1961年には、ベルリンのティーアガルテン区がハウス・アム・リュッツォウプラッツで約100点の回顧展を開きました。ベルリン・ユダヤ博物館によると、カール・シュヴァルツはこの図録の序文で、ナチスの時代にユリィの作品の多くが失われたと記しています。
近年では、2019年にベルリンのヴァン湖畔にあるリーバーマン・ヴィラで、リーバーマンとユリィの二人を取り上げた展覧会が開かれ、ベルリニッシェ・ギャラリーの『ライプツィヒ通り』も出品されました。かつて対立した二人が、同じ街を描いた画家として並べて紹介されたことになります。
日本では、2021年10月から三菱一号館美術館で開かれた「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」展で、ユリィの『夜のポツダム広場』(1920年代半ば)が紹介されました。美術手帖の報道は、この作品を、ベルリンのポツダム広場で傘をさす通行人や街のネオン広告を描いたものと伝えています。同展はその後、大阪のあべのハルカス美術館に巡回しました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1861年 | 11月7日、ビルンバウムに生まれる |
| 1872年ごろ | 父の死後、家族でベルリンへ移る |
| 1879年ごろ | 18歳でベルリンを離れ、デュッセルドルフの美術アカデミーで学ぶ |
| 1882〜1884年 | ブリュッセルの王立美術アカデミーに籍を置き、フランドルの村フォルルーヴェで暮らす |
| 1884年 | 『エスタミネ(フランドルの酒場)』 |
| 1887年 | パリなどを経てベルリンに戻る |
| 1888〜1889年 | ベルリンで最初の展覧会(年は資料により異なる) |
| 1889年 | 『ベルリンの街の情景(ライプツィヒ通り)』 |
| 1893年 | ミュンヘン分離派に加わる |
| 1901年 | ベルリンに戻り、ノレンドルフ広場1番地のアトリエに住む |
| 1915年 | コリントの会長就任を機に、ベルリン分離派の展覧会に参加 |
| 1922年 | 150点の展覧会。ベルリン市長から顕彰される |
| 1925年 | 『ノレンドルフ広場駅の夜』。アトリエでの制作の様子が映像に記録される |
| 1928年 | ケルンの「プレッサ」のために『約束の地を望むモーセ』を描く |
| 1931年 | 10月18日、ベルリンで死去。予定されていた展覧会は追悼展となる |

まとめ
いかがだったでしょうか。レッサー・ユリィの人生と作品について、ご紹介してきました。
ユリィは1861年にビルンバウムに生まれ、少年時代にベルリンへ移りました。デュッセルドルフ、ブリュッセル、パリで学んだのち、1887年にベルリンへ戻り、雨にぬれた夜の大通りやカフェ、駅の明かりを、暗い色の中に強い光を置く描き方で描き続けました。
支援者だったリーバーマンとの不和から、長く画壇の中心から遠ざけられましたが、1915年にベルリン分離派の展覧会に参加し、1922年には150点の展覧会で「首都を芸術でたたえた人」と呼ばれるまでになりました。1901年から亡くなるまで暮らしたノレンドルフ広場のアトリエから見た駅の夜景は、ベルリン市立博物館に残っています。
ベルリニッシェ・ギャラリーや旧ナショナルギャラリーを訪れる機会があれば、濡れた石畳に映る光の筋を、ぜひ間近で眺めてみてください。
Euphoric " " の視点
ユリィは、支援者との不和から長く画壇の中心を離れながらも、ベルリンの夜の光を描き続けた画家でした。1901年から亡くなるまで暮らしたノレンドルフ広場のアトリエから、20年以上たってなお駅の夜景を描いています。
遠い名所ではなく、毎日目にする街の明かりの中に、尽きない主題を見つけていたことがわかります。60歳を迎えるころ、ユリィは「首都を芸術でたたえた人」と呼ばれました。身近な風景を長く見つめ続けることが、やがて一つの都市の記憶そのものになる。その歩みは、作品を見る人にも、足元の景色を見直すきっかけを与えてくれます。
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