【徹底解説】レッサー・ユリィってどんな人?作品と人生を3分で理解しよう!

こんにちは!ユアムーン株式会社 編集部です!

突然ですが、皆さんはレッサー・ユリィという画家を知っていますか?

ユリィはドイツの印象派画家です。去年から今年にかけて東京都と大阪府で開かれた「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜-モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン」でも注目の集まった画家なので、ご存じの方も多いかもしれませんね。

この記事では画家レッサー・ユリィがどのような人生を歩んだのか、そして彼の生み出した作品はどのようなものであったかご紹介します!

レッサー・ユリィとは?

Lesser Ury
出展:『自画像』, wikiart, wikiart.org
本名 レオ・レッサー・ユリィ(Leo Lesser Ury)
国籍/出身 ドイツ/旧プロイセン、ビルンバウム
生年月日 1861年11月7日
分野/芸術動向 画家、版画家/印象派
学歴/出身大学など デュッセルドルフ美術アカデミー

経歴と作品

初期

1879年、デュッセルドルフ美術アカデミーでヘルマン・ヴィスリツェネスに指示し画家としての一歩を踏み出したユリィは、アカデミーを出たあともデュッセルドルフやブリュッセル、パリ、シュトゥットガルトなどの都市を回りさらに絵について学びを深めていきました。1887年にベルリンに引っ越すと、それからは人生の大半をベルリンで過ごすこととなります。

1889年に初めての個展を開いたユリィは、そこで同じくドイツの画家アドルフ・フォン・メンツェルから評価され賞を受賞しました。その頃の作品がこちらです。 

『赤い絨毯』(1889年)イスラエル博物館蔵

The Red Carpet - Lesser Ury

一目見た瞬間、視界に飛び込んでくる絨毯の赤色が印象的な作品です。白と黒、そして赤という大胆な色使いも特徴的です。11歳の時にユリィの父親が他界してから、ユリィの母親はリネン店を構え、彼やその兄弟たちを女手一つで育ててきました。『赤い絨毯』には窓辺で裁縫をする女性の後ろ姿が描かれていますが、ここからは幼い頃のユリィが目にした母親の姿が連想されます。ユリィにとって母親がどのような存在であったのか、絵から想像してみるのも楽しいのではないでしょうか。このような幼少期の思い出が、のちの彼の作風に影響を与えているのかもしれません。

中期

1893年には、ユリィはドイツとオーストリアの前衛芸術家たちによって興されたミュンヘン分離派の一員になりました。ミュンヘン分離派とは19世紀末にドイツやオーストリアの諸都市で起こった芸術革新運動から派生した分離派の一つです。

1901年に再びベルリンに戻るも、当時影響力のあったドイツ印象派画家マックス・リーバーマンの作品の光の効果は自分が描いたものだという発言により確執が生じてしまいます。この一件によりユリィはドイツの美術商パウル・カッシーラーの画廊での展示やリーバーマンが会長を務めていたベルリン分離派展への出品などの評価の機会を逃し、しばらくは美術界から注目を集めることがありませんでした。

 風景』(1900年頃)イスラエル博物館蔵

暗い色合いの多いユリィの作品ですが、この作品は木々や遠方の建物の暗い部分に対して空と水面の反射が白で表現されており、そのコントラストが目に焼き付きます。建物から漏れる光も、絵全体で占める割合はわずかであるにもかかわらず見た者にインパクトを与えています。水面にくっきりと映り込んだオレンジ色からは、湖の抜こう側の建物内でどんなことが起こっているのか、あの光のもとにはどんな人がいるのかといった物語性まで想像させられます。

晩年

疎遠になっていたリーバーマンが1911年にベルリン分離派の会長を辞退すると、1915年からようやくユリィの作品もベルリン分離派展に出品されるようになりました。特に1922年に開かれたユリィの60歳を祝う個展は盛大に執り行われました。ここでユリィの名声は確固たるものになります。この頃になると油彩画やパステル画が人気を集めました。

もともと内向的な性格だったユリィは晩年には人と会うこともほとんどなくなります。1931年10月18日、ベルリンで亡くなった彼はベルリン市内のユダヤ人墓地であるヴェイセンゼー墓地に葬られました。

『夜のポツダム広場』(1920年代半ば)イスラエル博物館蔵

 

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最も知名度の高い作品の一つともいえる本作品は、実は数奇な運命を辿ったのちイスラエル博物館に所蔵されました。1926年の個展に出品された『夜のポツダム広場』は数年後ベルリンのユダヤ人団体による美術品コレクションに収められました。そして1933年に設立したベルリンのユダヤ博物館に所蔵されます。ところが同年に成立したナチスドイツの弾圧によって、1938年11月10日、ユダヤ博物館が強制閉館を余儀なくされるとともに『夜のポツダム広場』は行方をくらませてしまいます。しかし終戦後の1945年になると旧帝国文化院の地下室で再発見され、やがてベルリンのユダヤ人返還継承組織を通してエルサレムのベツァルエル美術館へと送られました。その後1965年に開館したイスラエル博物館に収蔵され今に至ります。

さて、絵そのものに目を向けてみると、雨の中傘を片手に交差点を横切る人々が描かれていることがわかります。右手に描かれたドーム付きの建物はハウス・ファーターラントという娯楽施設です。20世紀初頭、ポツダム広場は鉄道と地下鉄駅を備えた新しい都市交通の中心地であり、芸術作品でもよく取り扱われるモチーフでした。雨の降った路面には建物の人工的なネオンの光が反射し、霧がかったような雰囲気が特徴的です。絵の中の人々の服装からも季節は秋から冬だと予想できますが、その冷たく凜とした空気がこちらにも伝わってくるようです。描かれているのは現実の世界だというのに、どこか知らない世界へ迷い込んでしまったような、それでいて見知った光景を眺めているような不思議な気持ちになる作品です。

その他の作品

『冬のベルリン』1920年代半ばイスラエル博物館蔵

 

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先ほどの『夜のポツダム広場』と同時期に描かれた本作品にも、ユリィの独特な世界観が広がっています。例えばパレットナイフを用いて絵の具を横方向に引き伸ばす手法は『冬のベルリン』にも『夜のポツダム広場』にも見られます。またユリィの他作品と比べて『冬のベルリン』は明るい色が多く使われていますが、やはり白と黒のコントラストがはっきりしていたり、人物の描き方がやや縦長で表情が読み取りづらかったりする点は一貫しているといえるでしょう。

このような描き方にはユリィ自身の性格や価値観が影響しているのかもしれません。先述の通り、内向的で単独行動の多かった彼にとって他者の存在はあくまで風景の一部であり、表情などの細部を描き込まなかった可能性もあります。しかし決してユリィが相手を突き放しているという意味ではありません。それは『赤の絨毯』で見られたような、絵から滲み出す温かさを考えても明らかです。ユリィは街を行き交う人々も含め、その目に映った光景丸ごとを作品として表出していました。『冬のベルリン』にはカンヴァスを通して、ユリィの不器用ながらも温かな目線が表れています。

まとめ

いかがだったでしょうか?

レッサー・ユリィは日本ではまだあまり名前を聞かない画家の一人ですが、そのアンニュイな画風は世界で広く親しまれています。

今日初めてユリィの名前を知った方にも、もともと知っていた方にも、より彼の魅力をお伝えできたら嬉しいです。

しかし、どれだけ言葉を尽くしてその魅力を伝えようとしても実物を見たときの衝撃には敵いません。また日本でユリィの作品が展示される機会があれば、ぜひ足を運んでみてくださいね!


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