こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはパブロ・ピカソという人物をご存知ですか?
20世紀芸術を代表する巨匠として知られる画家であるパブロ・ピカソは、アートに詳しくない人でもその名前を知ってるほど有名なアーティストのひとりなのではないでしょうか。
その代表作や名作は数多く、「この作品でピカソを知った!」というきっかけも人それぞれかもしれません。
しかし、多くの有名作品に共通するのはピカソの代名詞である「キュビズム」という技法です。
ピカソといえば写真のコラージュのように遠近を分割したオリジナルな技法「キュビズム」の創始者としても知られており、一見奇抜で不思議な絵を描く人だと思われているかもしれません。
しかしピカソの作品を変遷を見てみると、実はさまざまな芸術運動や画風に挑戦しており、時には写実的なデッサンやモダニズムの時代などを経ています。
本記事ではそんなパブロ・ピカソの作品に注目してご紹介します。
目次
パブロ・ピカソって?
基本情報
本名 | パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ (Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso.) |
生年月日 | 1881年10月25日〜1973年4月8日(91歳没) |
国籍/出身 | スペイン |
学歴 | 王立サン・フェルナンド美術アカデミー |
分野 | 絵画、彫刻、陶芸 |
傾向 | モダニズム、シュルレアリスム、キュビズム |
師事した/影響を受けた人 | フィンセント・ファン、ゴッホ、ポール・セザンヌ、ディエゴ・ベラスケス |
人生と作品
生まれと環境
1881年10月25日、ピカソはスペインのアンダルシア地方の町に生まれました。父のホセ・ルイス・イ・ブラスコは工芸学校で美術教師もつとめる画家で、ピカソは幼い時から絵画に慣れ親しみながら育ってきました。
父に芸術について豊かな教育を受けたピカソは、8歳ですでに油彩画をはじめ、当時支配的であった「新古典主義」的な画風は10歳の頃にすでに熟達していました。
あまりにピカソの絵が上手いために、絵を教えた先生である父ホセ・ルイスが絵の道具をピカソに譲り、自身で絵を描くことを辞めてしまったという逸話が残っているほどです。
「青の時代」「ばら色の時代」「キュビズム」「新古典主義」「シュルレアリスム」と様々に作風を変え、自身の表現したい技法に向き合ったピカソは代表的な作品以外にもたくさんの個性的な作品を残しています。
由緒正しいアカデミーも、退屈な場所だった
『初聖体拝領(1896)』
ラ・コルーニャ、バルセロナの両地方の美術学校で学び、1897年に王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学します。
王立サン・フェルナンド美術アカデミーはスペインの首都マドリードに所在する美術学校で、古くはアントニオ・ゴンザレス・ベラスケス(1723~1793)が卒業後に校長をつとめ、後年にはサルバドール・ダリ(1904~1989)やアントニオ・ロペス・ガルシア(1936~)などが卒業している由緒正しいスペインを代表する美術学校です。
そんな歴史のあるアカデミーに通うことになったピカソですが、古典的な絵画を重んじる保守的な教育にうんざりし、もっぱら絵の勉強はアカデミーではなく近くの美術館で行っていました。
1898年、急病にかかったピカソはアカデミーを中退し、バルセロナに戻っています。
本当の出発点
『カフェの女(1901-1902)』
1899年、バルセロナに戻ったピカソはカフェに集まる画家と交流を深め、アカデミーに変わる学びの場所としました。ラモン・カザス(1866~1932)やサンティアゴ・ルシニョール(1861~1931)などスペインで活躍していた画家と出会い、ピカソは腕を磨いていきます。
若きルーキーであったピカソの腕はまたたく間に界隈から注目を浴び、バルセロナで個展を開きます。そのことが地方紙で好意的な評価を得て、1900年に早くも2度目の個展を開くまでになりました。
この頃のピカソの作品はアール・ヌーヴォーの影響を強く受けており、これまでの古典主義やアカデミックに裏打ちされた価値を持つ写実的な作風から一気に様相を変えたものでした。
アール・ヌーヴォーとは「新しい芸術」という名の通り、古典主義から脱却した新時代の芸術を追求する芸術運動のことで、ピカソの作品はまさにアール・ヌーヴォーが象徴する「新古典主義からモダニズムへの架け橋」でした。
非自然的な色彩と自由な輪郭を描き出した作品は、アヴァンギャルド(前衛芸術)と評される一面もありました。しかしピカソはそういった意味でも、その技巧と若く柔軟な精神で世間の注目を集めたと言えるでしょう。
「時代」のはじまり〜青の時代〜
『人生(1903)』
ピカソの中でもキュビズムに並んで有名なキーワードである「青の時代」は、パリでの個展を受けて名が知れ始めていたこの頃を指します。
青と緑を基調としたくすんだ色彩で、貧困層や娼婦などのモチーフで陰鬱な社会を切り出した作品群の誕生は、1901年に雑誌「若き芸術」の編集者としてマスメディアに携わっていたことに関わりがあるかもしれません。
直接的な理由としてはこの時ピカソは友人であったカルロス・カサヘマスを亡くしており、少なくとも健康的な精神状態ではなかったと言えます。
このような鬱屈とした気持ちをキャンバスにぶつけるかのように、現実をありありと、しかし夢の中のように幻想的な色合いで表現した「青の時代」の作品群は、代表作「人生」が傑作と称されるように今でも多くの支持を受けています。
「時代の進化」〜ばら色の時代〜
『ラパン・アジャイルにて(1905)』
1904年、ピカソはフェルナンド・オリヴィエという女性に出会います。またたく間に二人は恋仲となり、ピカソの鬱屈とした精神にある意味での安定を与えたのか、「青の時代」から一転した作風の変化をもたらします。
「ばら色の時代(または桃色の時代)」と呼ばれる1904年以降のピカソの作品は、「青の時代」と打って変わってオレンジやピンクなどの暖色系をふんだんに使い、彼のミューズとなったオリヴィエも絵のモチーフとして度々登場しました。
この頃にはピカソは画家として十分な知名度を持っており、ガートルード・スタインというコレクターが付いていました。彼は兄のミヒャエル・スタインとその妻サラにもピカソを紹介し、家族ぐるみでピカソのコレクターでした。ガートルードは絵を買い取るに飽き足らず、パリのサロンにピカソの作品を紹介してくれるなど、長くピカソを応援し支えた人物の一人でした。
またこの頃にはアンリ・マティスと知り合い、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラーという美術史家の画廊に所属するなど、着々と独立した画家として深いコミュニティを結んでいました。
「時代の完成」〜キュビズムの時代〜
『アヴィニョンの娘たち(1907)』
1907年以降、ピカソはアフリカ彫刻やポール・セザンヌの影響を受けて「モチーフをキャンバスに書き写すのではなく、再構成する」という表現方法に目覚めます。
ピカソの重要トピックである「キュビズムの時代」の到来を予言するのがこの作品です。
バルセロナに実在したアヴィニョン通りの売春宿にいた売春婦を描いた作品で、元々は「アヴィニョンの売春宿」というタイトルでしたが、大衆を刺激しないように改題されたようです。
女性の、特に顔がさまざまな角度から見たものをコラージュしたように不自然で、かつてピカソが得意としていた写実的でアカデミックな表現方法とはかけ離れていることがわかります。
これが「キュビズム」の始まりと言われています。
キュビズムといえばピカソが代表的ですが、ピカソはこの技法をたった一人で開発したのではありません。
「近代絵画の父」として知られるフランスの画家ポール・セザンヌ(1839~1906)の「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉がその発端とされています。
ピカソが用いるキュビズムは、正面から見た輪郭の中に横や真下から見たときにみえる形態を共存させるという手法をとっており、この具体的な手法についてはアフリカ彫刻をきっかけにしていると言われています。詳しくはアフリカ彫刻の影響を素直に取り込んだ「プロトキュビズム」、明暗法や遠近法といった基本的な法則にとらわれない「分析的キュビズム」、フォト・コラージュの表現方法そのままに新聞の切り抜きや縄など素材や画材の枠さえ飛び出した「総合的キュビズム」に分かれていますが、共通するのは「再構成」というキーワードです。
また、ピカソの知り合いであったフランスの数学者モリス・プリンセが紹介したエスプリ・ジュフレの著書『四次元幾何学概論』に描かれている記号や図形もモチーフになっているようです。
キュビズムといえばピカソといえるほど代表的な技法になりましたが、その成熟には多くの人々と学問が複雑に関係しているのです。
関連記事
時代の回帰〜新古典主義の時代〜
『母と子(1921)』
1917年にオルガ・コクローヴァという女性と結婚したピカソは、母と子をテーマにした作品をいくつか描くようになります。
1921年に描かれた『母と子』は、その中でも代表的な作品です。
ロシアの踊り子であったオルガは、ピカソがこの作品を描いた1921年に第一子を産んでおりまさに「母と子」の間に生まれる無償の愛を描いたあたたかい作品と言えるでしょう。
作品の遍歴としてはピカソはオルガとの結婚を機に「新古典主義」へと作風を変えており、かつて賞賛を浴びるきっかけになったアカデミック絵画へと回帰しています。
新古典主義とは、18~19世紀に起こった芸術運動のひとつで、装飾華美なロココ・バロック様式の絵画の流行を背景に「真の様式」を求めてギリシア芸術を模範とし、理性的な精緻なデッサンが重視されました。
「古典回帰」と呼ばれるこの傾向ですが、1920年代のアーティストにはよく見られたようです。
そのきっかけは「私を描くときは私とわかるように描いてほしい」というオルガの言葉を受けて古典主義的な画風に変化したと言われています。
かつてピカソが退屈を感じていた伝統主義への回帰ですが、愛する妻のために写実的な作風に変えてしまうなんて大胆ですね。
「時代」の波及〜シュルレアリスムの時代〜
『ゲルニカ(1937)』
新古典主義への「古典回帰」を経て、ピカソは「シュルレアリスムの時代」に到達します。アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」で示された
口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り
という定義通り、無意識と向き合った火花がキャンバスに絵を映し出すような、攻撃的な剥き出しの芸術性はピカソだけに限らず眉を顰める者も多い芸術運動です。
しかし第一次世界大戦やスペイン内戦を通して、多くの同業者やパトロンを失ったピカソがその精神に向きあい、爆発させるためには絶好のチャンスでもありました。
このような背景があって生まれたのがピカソの代表作として知られる名画『ゲルニカ(1937)』です。
スペイン内戦で無差別爆撃の目にあった町・ゲルニカの様子を生々しく描き出し、ニューヨーク近代美術館で長い間、人の目に触れて戦争の残虐さを伝えるメディアになりました。
晩年
1947年になるとピカソは彫刻や陶芸などの立体作品を手がけるようになります。
また版画や戯曲などの仕事も手がけます。
そんな晩年の傍ら、過去の作品群は社会に名高く広まり、1970年にパルセロナでピカソ美術館が開館、回顧展や新作個展を含む展示会がロンドンやシカゴなど全国で開かれます。
1973年、肺水腫によりフランスで亡くなります。
まとめ
いかがだったでしょうか。
20世紀最大の芸術家として知られるピカソの最大の特徴である目まぐるしく変化する「時代」と呼ばれる作風を踏まえて彼の人生を簡単にご紹介しました。
いわゆる英才教育を受けたピカソは幼い頃から絵の才能を発揮し、保守的な絵画表現に反発してスペインの画家と交流し、キュビズムという唯一無二の表現方法を創始するに至りました。
その唯一無二でインパクトのある画風は、晩年には全国的に個展が開かれ、ピカソ美術館が建設されるほどの影響を与えました。
特に代表的な作品である『ゲルニカ(1937)』は、戦争を題材に扱ったセンセーショナルな作品ということで批判を受けつつも、今では反戦のシンボルになるほどの知名度と影響力です。
このように人生と作品を知ってみると、ピカソがただ奇抜で不思議な絵を描いている人だとは思えませんよね。
むしろ少年期のピカソは古典主義に忠実な写実的な絵を描いていましたし、1930年代には古典回帰として新古典主義に傾倒し、古典主義に立ち戻った「古典回帰」的な絵画を手がけました。
画家で美術教師でもあった父から絵を習い、基本がしっかりできているピカソだからこそキュビズムという唯一無二の表現方法に辿り着いたのだと思います。
関連リンク
ピカソ美術館 : https://museupicassobcn.cat/en
おすすめ書籍
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ピカソ
ピカソがどのような作品を描いたかを図版付きで、どんな人生を送ったかを年表形式で簡単にまとめてある本です。作品についてのエピソードやコラムも充実しており、短く読みやすいのでピカソについて詳しく知りたい方はまず入口にご一読をお勧めします。
ピカソの世紀―キュビスム誕生から変容の時代へ 1881‐1937
ピカソがたどった人生についてさらに詳しく書かれている本です。この本のコンセプトはずばり歴史と共に歪められてきたピカソ像を問い直すことで、実際の手記や取材、証言をもとに書かれておりエビデンスレベルの高い一冊です。