【徹底解説】ルネ・ラリックとは?20世紀初期のモダンジュエリーの創始者

こんにちは!ユアムーン株式会社編集部です。

ルネ・ラリック。こちらの名前をみなさんはご存じでしょうか?

ラリックは20世紀初期にアールヌーヴォーとアールデコという2つの時代を駆け抜け、ジュエリーやガラス工芸など、生涯にわたり多様なジャンルの作品を作り続けたフランス出身のアーティストです。

今回はラリックの手がけた美しいジュエリーやガラス工芸とともに、彼がどのような人生を送ったのか見ていきましょう。

ルネ・ラリックとは?

ルネ・ラリック基本情報

本名 ルネ・ラリック(René Lalique)
国籍/出身 フランス、シャンパーニュ地方マルヌ県アイ村
生誕 1860年4月6日
死没 1945年5月1日
職種 宝飾デザイナー、ガラス工芸家
学歴/出身大学など 装飾美術学校(パリ)
公式・関連サイト Lalique official website and online store | Lalique

経歴と作品

幼少期から青年期へ

1860年4月6日、フランスのシャンパーニュ地方マルヌ県アイ村で生まれたルネ・ラリックは、自然豊かな環境で育ちました。引っ越した後も、バカンスの旅にこの村を訪れていたようです。パリで過ごした少年時代は、デッサンを学びながら美的センスを養いました。その画才は、象牙の板に花束の絵を描いたり風景をスケッチしたりして商人たちに売り歩くほどでした。

しかし1876年、ラリックが16歳のとき仲買商を営んでいた父親が亡くなったことで学業を断念します。母親に勧められて宝飾・金属職人に弟子入りしすると、昼間は見習いとして働き、夜は装飾美術学校に通いました。18歳になったラリックはロンドンに渡ります。彼が住んでいたシデナム地区には1851年ロンドン万国博覧会のパビリオン「クリスタルパレス」が移築されていました。博物館やモールなど色とりどりの施設からインスピレーションを受けたラリックは、併設されたカレッジでデッサンの専門課程を履修します。特にサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)では多くの時間を過ごしていたようです。

宝飾デザイナーとしての道

ラリックは20歳でフランスに帰国すると、カルティエなどの一流宝飾店にデザインを提供するようになります。1885年に引退した宝飾デザイナーのジュール・デスタップの工房を買い取り、熟練の職人集団を継承したまま工房の新たな主人として制作活動を開始しました。

初期のラリックはヴェヴェールやブシュロンなどの有名宝石店のもとで作品を作っていたため彼自身の名前はそこまで知られていませんでした。当時はナポレオン3世の皇后ユージェニーが好んでいたとされるマリー・アントワネット時代の保守的なデザイン様式が流行しており、ラリックの作品にもそうしたルネサンス風のグロテスク文様やネオ・ロココの結び目文様、古典的なガーランド文様が見られます。なかにはジャポニスム由来の東洋文化を思わせる造形の作品もあります。

1890年代に入ると、ラリックは宝石そのものの価値よりもデザインに重きを置いた制作スタイルに転向していきます。象牙や獣角、七宝、色ガラスなど、デザインを良いものにするためなら宝石に比べ価値の劣る素材も積極的に使用しました。それぞれの素材がうまく融合するようヴァルール(色価)を微調整したり立体感の演出に工夫を凝らしたりするなど、細部にも拘っていました。

1890年、30歳になったラリックはオペラ座通りの一角に工房と私邸を構えます。このときには工房で働く職人はすでに30人ほどに増えていました。ラリックの関心はジュエリー以外の分野にも向けられるようになり、技法の探究と実験を重ねた末、1893年の装飾美術中央連盟主催金銀細工品コンクールでは2等賞と佳作賞を受賞しました。他にも陶器の制作や本の装丁など、彼のデザインはどんどん広がりをみせていきました。

『胸元飾り《トンボの精》』(1897~1898年頃)カルースト・グルベンキアン美術館蔵

トンボの精

全体にグロテスク文様の装飾が施された作品。胴体は魚のようでありながら、鋭く大きな爪を持った脚はグリフォンを彷彿とさせます。羽根の生えた女性の頭部にはエジプトの魔除けであるスカラベがいるのもポイントです。まるでキメラのような奇妙とも取れる造形ゆえに、見た者に強烈なインパクトを与えています。

ここに注目!

トンボの羽根部分はプリカジュール技法で作られています。プリカジュール技法とはガラスを焼き付けた金属を酸で溶かして表面のガラスの層だけを残したり、初めから胎に相当する部分がない透かし彫りの金枠に釉薬を焼き付けたりする技法のことです。トンボの羽根は後者に該当します。この場合焼けたガラスが表面張力によって膜を形成して孔をふさぎます。透明で繊細なガラスの皮膜がステンドグラスのような美しさを表現していますね。

『胸元飾り《蛇》』(1898~1899年頃)カルースト・グルベンキアン美術館蔵

ヘビの胸飾り

不気味なのに目の離せない美しさ。この作品を一言で表すとそのような表現になるのではないでしょうか。当時も「稀な豪華さと比類ない見事な仕上げ。蛇体の結び目から体をくねらせて鎌首を持ち上げる言語に絶する恐ろしげな美」と批評されています。緻密なうろこの文様によって異なる蛇が組み合わさっている構図がわかりますね。蛇体に嵌まった金輪にも舌を出した蛇のレリーフが見られます。

本作品は1900年パリ万国博覧会に出品されたあと、1908年にグルベンキアンがラリックから買い取りました。ちなみに重量は332グラムもあるのだそう。

ここに注目!

9匹の蛇を作り出すため、この作品にはクロワゾネ技法という金、銀、銅などの表面にガラス質の顔料を焼きつけることで色が混ざってしまうのを防ぐ技法が取り入れられています。

『胸元飾り《孔雀》』(1898~1900年頃)カルースト・グルベンキアン美術館蔵

クジャクの胸飾り

今にも動き出しそうなほどリアルに作られた孔雀の体から抽象曲線で構成された飾り羽根が左右に広がっています。飾り羽根に散りばめられたカボションカットのオパールも良いアクセントになっています。写実的な孔雀の体と抽象的な飾り羽根という異なる造形理念が融合し唯一無二のデザインを確立させているている点からは、同時期に活躍した画家アルフォンス・ミュシャの影響が感じられます。

ここに注目!

立体的な飾り羽根の秘密は、バスタイユ技法にあります。地金部分に彫金文様を施し、模様が浮き上がって見えるように半透明な釉薬をのせて焼きつけることでこの立体的な形が表現されています。

大女優との交流

ラリックが駆け出しの宝飾デザイナーだった頃、同じくフランスの演劇界ではカリスマ女優のサラ・ベルナールが人気を誇っていました。19世紀末から第一次世界大戦までの華やかなパリで文化が育まれたベル・エポック時代、彼女は自らの劇団で世界中を公演してまわりました。その才能は、ヴィクトル・ユゴーには「黄金の声」、ジャン・コクトーには「聖なる怪物」と評されるほど。亡くなった際は国葬の礼も受けました。

文化人との交友関係も広かったサラは、オスカー・ワイルドに戯曲作品を注文したり、アルフォンス・ミュシャに舞台のポスターを依頼したりしたことでも知られています。ちなみに今となっては有名なミュシャですが、そんな彼の出世作となったのが「ジスモンダ」のポスターでした。戯曲に登場するモチーフがポスターに散りばめられ、線の太さを変えることによって繊細で存在感のある人物を描き出すミュシャの画風はサラのお気に入りだったそう。

Poster for Victorien Sardou`s Gismonda starring Sarah Bernhardt at the Théâtre de la Renaissance in Paris, 1894 - Alphonse Mucha
出典:ルネサンス座の「ジスモンダ」のポスター アルフォンス・ミュシャ

ラリックもサラによってその名が知られるきっかけを得たアーティストの1人です。1885年、ラリックは画家クレランを通して紹介されていたサラの舞台「イゼイル」と「ジスモンダ」が上演されることになり、その舞台で使用するアクセサリーの制作依頼を受けました。名女優の身につけるジュエリーは大きな舞台の上でも栄えるように大きく派手に作られました。のちにはアルミニウムを導入することで軽量化されたティアラなども制作していたようです。

下のポスターもミュシャによって描かれました。こちらに描かれているのは1895年にルネサンス座で上演された『遥かなる姫君』でサラ・ベルナールが演じたメリザンド姫の姿です。このときラリックは、メリザンド姫の被った白百合の花冠を制作しました。

Sarah Bernhardt, 1896 - Alphonse Mucha
出典:サラ・ベルナール アルフォンス・ミュシャ

サラによってパリの演劇界や社交界での名声を手に入れたラリックは、メダルのレリーフや公演用パンフレットにサラの肖像画を描き、彼女への感謝の気持ちを込めたそうです。

ガラス工芸家としての道

パリ万国博覧会で見事ブレイクしたラリックは、人気絶頂であった1905年に高級宝飾店の集まるパリのヴァンドーム広場で店を開きました。しかし同時にアール・ヌーヴォーのマンネリ化やファッション革命により、ラリックの手がけてきた宝飾品の人気は衰退の一途を辿ります。時代の移り変わりによって、彼のジュエリーは富裕層の嗜好に合わなくなっていったのです。それまではラリックの作品を評価していた評論家もこの言いようです。「彼のジュエリーはデリケートで洗練され、独創的だが所詮ショーケース・アートに過ぎない。ラリックのジュエリーは1つとして着用できるものはない。今風の衣装にはおよそ合わず、流行のファッションをぶち壊してしまう。変装用か、舞台衣装、仮面舞踏会には使えるだろうが。」

一方ガラス細工界では、光の屈折や反射を利用して透明なガラスに様々な表情を持たせるラリック独自の発想によって新しい美の価値観がもたらされていました。

1912年以降、ラリックはガラス作品のみを展覧会に出品するようになります。ガラス工芸家として知られるようになったラリックは、第一次世界大戦などを乗り越え、1921年には最新設備を備えた工場を落成するなどして事業の規模を拡大させていきました。エリゼー宮(フランス大統領官邸)の公式晩餐会用食器セットや大統領専用車両のガラスパネルを始め、豪華客船の壁面装飾や照明器具の納入など、ガラスメーカーのブランドイメージが瞬く間に構築されたのです。

1925年の4月から10月にかけてパリで開催された「現代装飾美術産業美術国際博覧会(通称アール・デコ博)」ではガラス部門の責任者も務め、また個人の展示場の設置が認められる栄誉を得るなど、ラリックは65歳にして人生で2度目の成功を手にしました。

『彼女らの魂』(1913年)パリ工芸博物館蔵

彼女らの魂

ドルセー社の香水「彼女らの魂」のために作られた香水瓶。瓶本体を覆うようにストッパーが円形状に広がっており、花の咲いた木とその枝にぶら下がる2人の裸婦がデザインされています。当時はラリックだけでなく、バカラやドーム兄弟といったアーティストもドルセー社の香水瓶をデザインしたことが知られています。

香水そのものだけではなく、香水瓶からも買い手にその世界観を伝えるラリックの表現力の高さがうかがえますね。

『5頭の馬』(1925年)コーニングガラス美術館蔵

5頭の馬

5頭の馬が連なったカーマスコット。この作品はシトロエン社で1922年に発売されたシトロエン5CVのために作られたと言われています。5馬力で走るという意味を込めて、5頭の馬をモチーフにしています。

カーマスコットは車の先端部に取り付ける装飾品で、1920年代から1930年代初頭にかけて流行しました。

『渦巻』(1926年)メトロポリタン美術館蔵

渦巻

植物のシダの渦巻模様を大胆にデザインした花器。本作品はラリックのガラス工芸品を代表するものの一つで、量産されたものの仕上げは手作業で行われています。透明のガラスに黒いエナメルで模様をつけており、このタイプに良く似たものが大村美術館にも展示されています。

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ラリックの作品たちを豊富な写真や解説とともに知ることができます。彼の人生の流れと合わせてスタイルの変化を感じられるのも嬉しいポイント。

ラリックの少し前にガラス工芸家として一世を風靡していたエミール・ガレとの比較論にも注目です。新たな発見があるかも…?

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

ジュエリーとガラスなど様々な分野で活躍したフランスのアーティスト、ルネ・ラリック。今回ご紹介しきれなかった彼の作品はまだまだたくさんあります。

国内でもラリックの作品を展示している美術館や博物館は多くあるので、ぜひ一度足を運んでみてください!


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