こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはアレクサンドル・ロトチェンコという人物をご存知ですか?
彼はロシア構成主義、あるいはロシア・アヴァンギャルドを先導した中心人物として知られる芸術家で、絵画、グラフィック・デザイン、写真、舞台芸術など幅広い分野で活躍した多才な人物です。
同年代の芸術運動であるキュビズムや未来派に比べると知名度の低い印象のあるロシア構成主義ですが、10年に満たない洗練された時間で培われた個性的でインパクトのある作品の数々は、一度見たら「あっ」となる方も多いのではないでしょうか。
本記事ではそんなアレクサンドル・ロトチェンコの人生と作品についてご紹介します。
目次
アレクサンドル・ロトチェンコとは?
基本情報
本名 | アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ロトチェンコ (Aleksander Mikhailovich Rodchenko) |
生年月日 | 1891年12月5日〜1956年12月3日(65歳没) |
国籍/出身 | ロシア/ロシア サンクトペテルブルク |
学歴 | カザン美術学校 |
分野 | 絵画、グラフィック・デザイン、舞台芸術、写真 |
傾向 | ロシア構成主義、ロシア・アヴァンギャルド |
師事した/影響を受けた人物 | ウラジミール・タトリン、カジミール・マレーヴィチ等 |
人生と作品
生まれと環境
1891年12月5日、ロトチェンコは首都モスクワに次ぐ都市サンクトペテルブルクに生まれます。
父はスモレンスク出身で、モスクワで劇場の小道具係をしていました。ロトチェンコが幼少期を過ごしたアパートは劇場の真上にあったため、舞台芸術という当時をときめくアートに触れ合う機会は十分にあったと考えられます。
実際にロトチェンコは後に舞台芸術を手がけていますし、当時歯科技工士を目指していたもののすぐに放棄し、アートを学びたいと思うようになります。
1904年、ロトチェンコはロシアの管轄区域であるカザンへ引越しを経験します。
それがアートを目指す決定的なきっかけでした。
美術への一歩
1914年のカザンでは、当時新進気鋭のアーティストであったロシア未来派のウラジミール・マヤコフスキー(1893〜1930)、ダヴィド・ブルリューク(1882〜1967)が未来派の会議のために訪れていました。ロトチェンコは彼らの詩の朗読会に参加しマヤコフスキーの写真を買っています。
1910年から1914年までカザン美術学校を聴講し、モスクワに出てストロガノフ美術学校に入ります。
そこでロトチェンコはのちに結婚するワルワーラ・ステパーノワに出会います。
しかしすぐ学校に失望し、モスクワのアヴァンギャルドのグループに入ります。
そこで第三の出会いが訪れます。
タトリンとの出会い
『第三インターナショナル記念塔(1919)』
モスクワのアヴァンギャルドグループは、美術学校では触れることのできなかった体験の連続が待っている世界でした。
タトリン、ポポーワ、マレーヴィチなどが参加していたアヴァンギャルドグループで、ロトチェンコはタトリンから展覧会に招待され、生涯に渡って影響を受けるタトリンと親交を深めます。
ウラジミール・タトリン(1885〜1953)はロシア・アヴァンギャルドを代表するアーティストで、絵画だけでなく建築や彫刻を学び教鞭も執っています。そのため彼の代表作は『第三インターナショナル記念塔(1919)』や『レタトリン(1932)』など規模の大きなインパクトのある作品が多く残っています。特に彼が「カウンター・レリーフ」と称した、壁に彫刻を張り渡した作品は伝統的な芸術に疑問を投げかけた作品で、後世に大きな影響を与えました。
リュボーフィ・ポポーワ(1889〜1924)はキュビズムを学び、タトリンの下でロシア構成主義を中心に活動したアーティストです。タトリンに負けず劣らず、テキスタイル・デザインや家具デザインなど幅広いジャンルで活躍しました。
カジミール・マレーヴィチ(1879〜1935)はキュビズムや未来派などの20世紀に起きたヨーロッパの芸術運動に大きく影響を受け、抽象絵画で「立体未来主義(クボ=フトゥリズム)」というロシアの風俗的な主題を取り入れたスタイルを確立しました。
そんなロシア・アヴァンギャルドのビッグネームに囲まれ、特にタトリンからは多大な影響を受けました。
私は彼からすべてを学んだ。仕事、物事、材料、食事、そして人生そのものに対する態度…
そしてそんな環境で芸術を学んだこと、師として定めたタトリンが多彩なジャンルで活動していたことは、ロトチェンコの作風に大きな影響を及ぼしました。
例えば画家、グラフィック・デザインといった平面的な作品を主に手掛けていたロトチェンコは次第に写真を学び、やがて代表作で知られるフォト・モンタージュへと手を伸ばしていきます。
結果的にロトチェンコは生涯でさまざまなジャンルの作品を残し、誰にも作風の真似できない、そして誰の真似でもないオリジナルの作品を生み出していきます。
そしてそのジャンルも、「これ!」と言い表せないほど多彩で質の高い作品を次々生み出していくことになります。
日の目を浴び始めるロシア・アヴァンギャルド
『ディスクと蓋(1919)』
1920年にはロトチェンコはヴフテマス(国立高等美術工芸工房)で教鞭を取ることになります。
また同時期にモスクワに設立されたモスクワ・インフクの中心的なメンバーにもなっていました。
これは画家のワシリー・カンディンスキー(1866〜1944)が主導した芸術研究機関で、ロシア構成主義およびロシア・アヴァンギャルドの拠点として親しまれた場でした。
1920年3月から始まったモスクワ・インフクですが、カンディンスキーの「芸術が人間の心理に働きかける作用」を重点とする思想に批判が集まったことをきっかけに、グループ内にロトチェンコを中心とした客観分析グループという派閥が生まれました。
客観分析グループの発足はカンディンスキーが好んで用いた「コンポジション(音楽などの影響を強く受けた抽象的な美的構図)」を排除し、「コンストラクション(伝統から脱却した論理的な構成)」に重きを置くことを宣言するものでした。
この頃には、感情的表現を排した論理的な構成を好むようになり、人々の日常に根付いた「生活的芸術」を目標に制作を進めるようになります。そしてその過程で絵画の制作からは距離を置くようになりました。
1921年にはロトチェンコはアレクセイ・ガンやステパーノワとともに構成主義の第一作業グループを結成します。モスクワ・インフクで交わされた意見および研究を自身が働くヴフテマスで広められ、ヴフテマスの生徒がモスクワ・インフクの研究を手伝うことさえあるほど親密な関係でした。
ロトチェンコの辿った、「伝統からの脱却」「論理的な分析」「生活と芸術の調和」という流れはドイツで起こったモダニズムと非常に似ていることが興味深いです。
事実、ロトチェンコが教鞭を執っていたヴフテマスの教育プログラムはドイツの美術学校であるバウハウスに近いものがありました。
思いがけない賞賛と…
『「本」のための肖像(1924)』
1923年に入り、ロトチェンコはマヤコフスキーと協力して「広告構成主義」として広告代理店を運営することになります。1923年から1925年にかけて雑誌『レフ』、1927年から1928年にかけて『新レフ』の編集デザインをし、数百の看板やポスターを発表し、優れたグラフィック・デザインを多く残しました。
また、ロトチェンコはそこでフォトモンタージュの実験も行っていました。
自ら携帯できる35mmカメラを買い、被写体そのものの美しさというよりは画角や遠近法などのテクニックにこだわり、「そのもの」の「新しい姿」を掘り起こすような写真を撮りました。
これは今後のロトチェンコの作品の中で最も顕著に現れる特徴となり、ロシア・アヴァンギャルド全体の印象としても大きな影響が見られます。
その中で生まれたロトチェンコの代表作が『「本」のための肖像(1924)』です。
このモデルはマヤコフスキーの恋人であるリーリャ・ブリークで、元々の写真を見るとかなり斜めに傾いたような角度で撮影されており、それをグラフィックで直立しているように書き換えていることがわかります。
これはラクルス(遠近短縮法)と呼ばれ、今では写真の撮り方の一つとして広く知られた手法です。
このように元々の写真をグラフィックやタイポグラフィと組み合わせて新しい印象を作り出すことを得意としたロトチェンコは、他にもフォト・モンタージュやコラージュといった手法を独力で完成させ、写真芸術というジャンルにおいて大きな影響を与えたことを象徴する、奥深い作品ではないでしょうか。
盗作疑惑
『階段(1930)』
めきめきとロシア・アヴァンギャルドの魅力を世界に解き放っていくに見えたロトチェンコの活躍でしたが、世の中に作品を発表する上で避けることのできないトラブルに巻き込まれてしまいます。
1920年代頃から、アヴァンギャルド芸術家たちは「形式主義」という非難を受けるようになります。
形式主義とは、本質的な価値を追求するのではなく外見だけ整えた作品を送り出す人々を揶揄する形で生まれた言葉で、言語学や数学など幅広い学問分野で用いられる言葉です。
近代芸術においては客観的な要素だけが美である(描き手の感情やモチーフの歴史は評価対象ではない)という文脈で用いられており、モスクワ・インフクでロトチェンコが指導した客観分析グループの活動が非難の憂き目に遭ってしまいます。
その中でロトチェンコは盗作疑惑をかけられました。
ロトチェンコの写真の特徴であるラクルスを指して、モホイ=ナジやレンガー=パッチェらの写真と比べてその模倣性を雑誌で批判するコメントを掲載したのです。
さらには「上から下へ」「下から上へ」極端に傾けた構図は古典的なブルジョワ的思想を広めるものだとして、ロトチェンコの芸術家としての社会性を問う批判へと発展していきました。
これに対してロトチェンコは
われわれは視覚についての思考を革命化しなければならない。
われわれは「へその位置から」と呼ばれている幕を眼からとらなければならない。
あらゆる視点が見つかるまで、「へそ」を除くすべての視点から撮影しよう。
「上から下へ」「下から上へ」、そしてそれらの視点の傾斜はもっとも興味深い現代の視点である。
と回答を示しました。
つまり、水平撮影という基本姿勢に捉われず写真の構図を模索することへの正当性と、カメラという機械でしか撮れない画角にこそ真実が写されているというロトチェンコの写真哲学を返したのです。
晩年
1925年にはロトチェンコはパリに案内され、パリ万国博覧会のソビエト・パビリオンで「労働者クラブ(1925)」の家具インテリアを手掛け、を発表し、銀メダルを獲得。世界規模でロシア・アヴァンギャルドを見せつける結果になりました。
舞台デザインでも活躍し、マヤコフスキーの「南京虫(1929)」のコスチュームとセットをデザインしました。
大祖国戦争を終えた1945年以降、ロトチェンコはほとんどこれまでのようなインテリアや写真からは離れ、本の装丁やアルバムを主に手がけました。それでも創作活動は活発とは言えず、1951年には一度「芸術家同盟」からの除名を受けており、ロシア・アヴァンギャルドは徐々に世界から退場していきました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
グラフィックや写真の世界において基本となるような表現や技法を、独力で生み出したロトチェンコは、今や「グラフィックデザインの父」と呼ばれる存在でした。
今では当たり前となったフォト・モンタージュやコラージュといった技法の発明者と知ると、ロシア・アヴァンギャルドが短い衰勢の中で磨き上げられた美的感覚の一端を感じられるようです。
ロシア・アヴァンギャルド自体は決して長く続いた運動ではありませんでしたが、その中でロトチェンコは数々の発明と大胆でインパクトのある魅力的なグラフィックや写真を残しており、名実ともに「ロシア・アヴァンギャルドの代表作家」であり「グラフィックデザインの父」であるという肩書きも過言ではないように思えますね。
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