【徹底解説】ウィリアム・ターナーの人生と作品に迫る〜想像力を味方につけた光の画家〜

こんにちは。ユアムーン 編集部です。

皆さんはウィリアム・ターナーという人物をご存知ですか?

ターナーはイギリスを代表するロマン主義画家です。

ターナーが活躍した18世紀のヨーロッパには、後に印象派として芽吹く土壌がありました。そしてそのきっかけを築いたのは、何を隠そうターナーなのです。

知名度のある印象派ですが、ターナーの存在はあまり知られていません。

ターナーは印象派にどのような影響を与えたのでしょうか。

本記事ではそんなウィリアム・ターナーの人生と作品についてご紹介します。

ウィリアム・ターナーって?

Self-Portrait, c.1799 - J.M.W. Turner

基本情報

本名 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
(Joseph Mallord William Turner)
生年月日 1775年4月23日〜1851年12月19日(76歳没)
国籍/出身 イギリス ロンドン
学歴 ロイヤル・アカデミー附属美術学校
分野 画家
傾向 ロマン主義
師事した/影響を受けた人 クロード・ロラン

ロマン主義って?

ロマン主義とは、18世紀頃のヨーロッパで生まれた芸術運動です。

絵画だけでなく文学や哲学などの分野にも見られる運動で、古代ギリシャ芸術への回帰を求める新古典主義への反発から生まれました。

唯一の美の基準を持つ新古典主義から、個性的で多様性のある人物画が好まれるようになりました。

また、明暗の激しいドラマチックな色づかいと物語性のある構図が特徴的です。

テオドール・ジェリコー、ウジューヌ・ドラクロワなどがロマン主義の画家として知られています。

人生と作品

生まれと環境

1775年4月23日、イギリス ロンドンにターナーは生まれます。

ターナーの生まれたコヴェント・ガーデンはロンドンの中心的な繁華街で、多くの劇場が立ち並ぶ文化的な街でした。

理髪店を営む父と肉屋の娘のあいだに生まれたターナーは、街の文化に触れて恵まれて育ちました。

母親は生まれつき病に苦しんでおり、第二子の娘アンが4歳で亡くなる不幸に見舞われたことでターナーを積極的に育児することはありませんでした。

1785年にターナーは叔父の元に預けられることになり、ロンドン郊外の町ブレントフォードに移り住みました。

ターナーはこの町に来てスケッチに勤しむようになり、最初は建築画を、その後に風景画に興味を持ち始めます。

その出来栄えは父が感心して店に飾るほどで、幼い頃から芸術の才能を発揮していたようです。

父の応援を受けてアカデミーへ

家庭環境は裕福なものとは言えませんでしたが、父の助力もあってターナーは芸術の道に進むことを応援され、わずか14歳で建築家トマス・ハードウィック(1752-1829)のもとで働くことになります。

この時にターナーは、生涯の師となるトマス・モールトン(1751-1804)に師事します。

彼は風景画を専門とする画家で、当時のヨーロッパで風景画家はあまり人気がなく、珍しい存在でした。

しかし、17世紀末にオランダから風景画が持ち込まれた当時のイギリスでは風景画が大流行しており、その文化の中心にあったのが彼ら風景画家でした。

文化的な人々の風俗、建築物、動物などを記録する風習のあったイギリスにとって、オランダの風俗を後世に伝えるために高い価値を持っていた風景画を蒐集家が盛んに取引を行っていたと考えられています。

この歴史的背景が、ターナーが風景画家として大成するきっかけの一つだったと言えるでしょう。

ターナーはフランスの風景画家ジョン・フランシス・リゴー(1742-1810)の紹介で、古代美術品を複製するデッサンの試験を受け、1789年12月11日にロイヤル・アカデミーの生徒となります。

ターナーが水彩画家を選んだワケ

『ドルバダーン城(1799)』

Dolbadern Castle, 1799 - J.M.W. Turner

古代美術品や人物モデルを模写する授業を受けていたターナーは、1790年にロイヤル・アカデミー初代院長サー・ジョシュア・レノルズ(1723-1792)の講義を受け、芸術のアプローチについて重要な学びを得ました。

ターナーの彼への尊敬は、遺言にレノルズが眠るセント・ポール大聖堂の墓の横に埋葬してほしいと残したほどでした。

実際その遺言は叶えられ、セント・ポール大聖堂はターナーの父が構える理髪店のすぐそばにあったことも縁を感じるお話ですね。

ターナーはレノルズとの出会いを経て、ひたすらにたくさんのスケッチや写生を行いました。

その活動はときに出版業者の目に留まって風景画を発表してもらうこともあり、着実に習作とキャリアを積み上げていきました。

この後にターナーに訪れる成功の原因は、この時に水彩画という技法を選んだことにあると考えられています。

当時のイギリスでは、簡単に扱える水彩絵の具が商品化されたことで四半世紀ほど前から水彩画が流行しており、ターナーもこの流れに背中を押されて水彩絵の具を好んで用いました。

といっても、多くの画家は水彩画を練習のための手法として捉えており、最終的な作品のために用いることはなかったのです。

そんな中でターナーは、水彩画の手軽さや透明感といった特徴を理解しており、雷雨の空や夕日など移り変わる風景を素早く描写して作品にしていきました。

この手法はウィリアム・ギルピン(1724-1804)という画家から影響を受けており、彼は旅行へ出かけた際の風景を緻密に描いた絵入りの旅行記『ピクチャレスク・ツアー』を出版して大成功を収めています。

「ピクチャレスク」という言葉は彼をきっかけに流行し始め、イギリスでの風景画の盛り上がりにさらに一役買ったことでしょう。ターナーはギルピンの成功を受けて自身も旅行に出かけ、ギルピンの作品の模写も行いました。

油彩の海へ乗り出す

『海上の漁師(1796)』

Fishermen at Sea, c.1796 - J.M.W. Turner

こうした流行に上手く乗ることができたターナーは、アカデミーで風景画を展示するようになってすぐに売れ行きを伸ばし、初期の成功を早くも手にしました。

彼の成功を後押しするように、水彩画の流行を受けてより良い条件で展示会を行うため水彩画家協会が設立されるなどの環境の変化が訪れます。

この頃にはターナーの生活はずいぶんとゆとりを持っており、制作の傍らたびたび旅行へ出かけ、風景画の修練を積むとともに、油彩画へ踏み出す準備をしていました。

そして1796年に、最初の油彩画『海上の漁師(1796)』を発表しました。

ターナーが油彩画を始めるために手本としたのは、ローマで活躍したフランスの画家クロード・ロラン(-1682)です。

彼はイギリスでは通常ミケランジェロやラファエロと同じように「クロード」とファミリーネームだけで呼ばれ、クロード派という分野が組織されるほどで、実際にイギリス画家に大きな影響を与えました。

ターナーは有名なコレクター、アンガースタイン(1736-1823)のコレクションの中にクロードの作品を見つけ、『海港 シバの女王の船出(1637)』を見て涙したという逸話が残っています。

それを見たアンガースタインがなぜ泣いているか聞くと、ターナーは「この絵のような作品を描くことなど、とてもできそうにないからです」と答えたと言います。

また、レノルズに忠告された「外国語を学ぶために学校に行くように、画家は絵の技術を学ぶためにオランダ画家のものへ行かなければならない」という言葉に従ってオランダ、イタリアの風景画家も複数参考にしました。

美と恐怖は紙一重

『嵐の中のオランダ船(1801)』

Dutch Fishing Boats in a Storm, 1801 - J.M.W. Turner

ターナーは異国の風景画家を真似だけを練習としていたわけではありませんでした。

アカデミーと旅先を行き来していた修行期間を経て、ターナーは「崇高」という美学を見つけ出すことになります。

これは1757年にイギリスの政治哲学者エドマンド・バークが著した『崇高と美の概念の起源に関する哲学的研究』に登場する言葉で、発表後すぐに広まり、特にヨーロッパのロマン主義画家の美観の中核を担うことになりました。

「崇高」の中心的な定義は、自然の驚異やとてつもない風景に対する興味と畏敬の念とされ、ターナーが描いてきた風景も徐々に嵐や火山などの非日常的な、それでいてリアリティのあるありのままの自然を描いていくようになります。

その代表的な作品が『嵐の中のオランダ船(1801)』です。

これはターナーが、参考にもしているオランダの風景画家ウィレム・ファン・デ・フェルデ父子の作品『突風(1680)』と対をなす形で描かれたもので、ターナーは彼の作品を参考にしつつも強い対抗心を持っていたことが伺えます。

重厚な雲と激しく荒れ狂う波の中、見ていてひやひやするほど不安定に傾く船が航海していく様を、大胆なほど強いコントラストでこの作品はある意味でホラーと形容できるほど劇的な調子です。

この暗く劇的な調子は、「崇高」という言葉の浸透に自然を扱ったホラー小説の流行が一役買ったことが無関係ではないでしょう。

人が「美しい」と思うとき、心の片隅で「恐ろしい」と思っているものなのかもしれません。

何はともあれ、ターナーの「崇高」の出発点とも言えるこの作品をもってロイヤル・アカデミーで大評判を呼び、1802年にアカデミーの正式な会員に選ばれることになります。

その新鮮な手法に加えて、この絵がイングランド貴族のブリッジウォーター公の依頼であったこともターナーの地位を確固たるものにしました。

かくしてターナーは26歳という若さでアカデミー会員となり、芸術界においては最高の成功を収めたと言えます。実際26歳というのは史上最年少でした。

成功で得た自由

ターナーはアカデミー会員への昇格をうけて、これまで目的だった展覧会への熱を失い、コレクターと直接交渉して作品を売買するようになりました。

かつての功績で常連客を得ていたターナーは、あっという間に投資家と遜色ない財産を得ます。

ウォルター・ラムスデン・フォークスなどの美術愛好家と親しくし、資産代わりに作品を貸し出すこともありました。

現在でも節税対策に絵画を購入する会社が多くありますが、この頃からコレクションやトレーディング事業の延長としてこのようなビジネスモデルは存在していたのですね。

ターナーは自身の作品が展示される展覧会では、自分の作品が最も良い位置に飾られるように口を出し、希望通り飾られなかった1831年のロイヤル・アカデミー展でジョン・コンスタブル(1776-1837)と展示場所を争って口論することもありました。

失望のローマ、希望のヴェネツィア

『The Lake, Petworth, Sunset; Sample Study(1827-28)』

The Lake, Petworth, Sunset; Sample Study, c.1827 - c.1828 - J.M.W. Turner

これまでもターナーはたびたびヨーロッパ諸国を旅し、旅先の風景を作品にしてきました。

1830年頃はヴェネツィアやローマを旅することが多くなり、さまざまな地方で風景や人々の衣装などを詳細にスケッチし、何百という版画の原画を残しました。

1819年に初めて訪れたローマに強い理想を抱いており、もう一度訪れようと考えていたターナーは、1828年に2度目のローマ旅行を行います。

しかし30年近く膨らませたターナーのローマの理想像は、現実のローマと大きくかけ離れていました。

18世紀のイギリスでは、偉大な古代ローマのモラルや政治制度を受け継ぎ、正当な後継者となる考えがありました。ターナーもこの例に漏れず、過度に美化され、思い上がったイタリアのイメージを持っていました。

旅行で現実のローマを目にしたターナーは、風景や人々にはさほど興味がなく、過去の巨匠の作品を見る機会だと割り切って旅をしたようです。

またローマへの失望は風景や文化だけではなく、光にまで及びました。

自身の画風の基礎になった先人の風景画で知るような淡く幻想的な光ではなく、荒々しい日の光でものの影がくっきりと浮かび上がるような光景に、ターナーは心底失望したようです。

その一方で、ターナーはヴェネツィアでの旅で真のインスピレーションを得ました。

ヴェネツィアにある潟(ラグーナ)の風景に、ターナーは非常に感銘を受けたようです。

ターナーの心のうちにあるイタリアの風景を完全に再現したかのようなヴェネツィアの潟は、退廃と誇り、異郷と過去、自然の崇高さなどのテーマを無限に与えてくれました。

失望も大きいようでしたが、それ以上に得たものがあったイタリアへの旅を経て、ターナーは新たなテーマと手法を見つけ「燃え上がる風景」へと歩んでいきます。

燃え上がる風景

『国会議事堂の火災、1834年10月16日(1835)』

The Burning of the Houses of Parliament, 1835 - J.M.W. Turner

イタリアから帰ったターナーは、光と空気を捉えた幻想的な風景を主題にして新たに制作を始めました。

この時期にはロイヤル・アカデミー会員としての仕事も減らし、自主的な展示以外に作品の出品をすることも少なくなっていました。

その分、ターナーはヴェネツィアから持ち帰ったインスピレーションが損なわれないように制作に打ち込み、1840年ごろはターナーの人生の中で最も創造的な、黄金期だったと言われています。

海外旅行や、積極的に外出して風景を見に行くことで、よりスケールの大きな、「崇高」な自然を描くように努めたターナーは『国会議事堂の火災、1834年10月16日(1835)』をきっかけに新たな表現方法を見出しました。

この作品は1834年10月16日に起こった国会議事堂の火災を描いたもので、激しいコントラストと、かたちのない光と空気を劇的に描いたものですが、事実と異なる点があったり、おぼろげな記憶で描いたような絵のタッチに忌避感を抱いた人は少なくありませんでした。

しかし、このおぼろげなタッチによって見る人の想像力を掻き立て、風景の印象を強く与えることに成功しています。

この手法は後に、印象派の誕生に強く影響を与えています。

また、ターナーのヴァーニッシングデイ(展示前に手直しを行う時間)は一種のパフォーマンスとしての魅力を持つようになり、今で言うライブペインティングのように見物客に囲まれながら手直しを行っていたようです。

有名なものでは、赤い絵の具を『出港する「ユトレヒト市」64号(1832)』にべっとりと載せて部屋を出ていき、手直しができる最後の瞬間に、絵の具の塊にニスを塗り、見事なブイに仕上げてしまったというエピソードがあります。

『出港する「ユトレヒト市」64号(1832)』

Helvoetsluys Ships Going out to Sea, 1832 - J.M.W. Turner

自然の「崇高」と鉄道

『雨、蒸気、速度(1844)』

Rain Steam and Speed, The Great Western Railway, 1844 - J.M.W. Turner

また、ターナーの代表的な作品として知られる『雨、蒸気、速度(1844)』もこのようなインスピレーションの結果として制作されました。

この作品が飛び抜けて有名になった理由は、これまで鉄道を描いた作品があまりにも少なかったことにあります。

西洋美術史、特にバロック・ロココ美術以降の芸術家は時代の流れを敏感に察知し、流行りの文化や風俗を先取りして描くことで文化を盛り上げる広告業のような側面を持っていました。

その中で、産業革命によってもたらされた工場や鉄道といった文明の利器を中心に据えた芸術作品は当時ないに等しいものでした。

そんな歴史の中でターナーはまさにパイオニアで、それでいて具体的に描写するのではなく、むしろ列車が駆け抜けていく雨と空気、吐き出す蒸気を見たこともない淡い筆致で描いたという点でこの作品は有名なのです。

ソリッドな人工物の象徴である鉄道と手に取れない自然が交差するこの作品は、ターナーの「崇高」の新たな境地と言えるのではないでしょうか。

晩年

ターナーは1851年12月19日、数ヶ月前から病んでいた心臓の病に倒れ、亡くなります。

1933年以降はソフィーという未亡人に身の回りの世話をしてもらいながら、小さなキャンバスやスケッチブックにいくつも作品を残していました。

制作をしながらも、自身の命が長くないことを感じてかターナーは、遺言書に「私の絵画をおさめるためのギャラリーをつくる」ために財産を残したこと、「貧しい芸術家への慈善団体」を作ることを望む意思を書き残していました。

この遺言の多くは叶えられ、ターナーの作品は広く世の中の注目を浴びます。

ターナーの生前はリアリズムの台頭も相まって淡いタッチに非難が集まっていましたが、芸術家の間では明らかに影響を受けた作家が数多く現れました。

カミーユ・ピサロやクロード・モネといった、後に印象派として大成する芸術家が影響を受けており西洋美術史においてもその影響は計り知れません。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

ターナーは若くしてアカデミーに認められるなど、芸術家として華々しいスタートを切ったはいいものの、不遜な態度や旅行を経た新しい手法に非難が集まり、死後に他の芸術家へ大きな影響を与えた重要な人物です。

特に印象派への影響は計り知れず、ターナーの後年の作品は印象派の萌芽や、抽象絵画として見ることができるかもしれません。

直接的に印象派画家として語られることは滅多にありませんが、一見別の美術運動でも繋がりがあるのが西洋美術史の奥深いところですね。


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