【徹底解説】純粋なシュルレアリストと呼ばれたイヴ・タンギーとは?人生と作品を追う

【徹底解説】純粋なシュルレアリストと呼ばれたイヴ・タンギーとは?人生と作品を追う

こんにちは、ユアムーン編集部です。

皆さんは「イヴ・タンギー」という人物をご存知でしょうか?

タンギーは独学の芸術家で20世紀のシュルレアリスム運動の主要メンバーです。その起源はデ・キリコの作品を見たことから始まり、アンドレ・ブルトンやマックス・エルンストなどとも関わりがあった人物で、その作品には幼少期の印象的な情景や夢のような雰囲気が潜在意識により表現されています。

今回はそんなイヴ・タンギーの人生と作品についてご紹介します!

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イヴ・タンギーってどんな人?

Yves Tanguy (by Denise Bellon),
wikipedia,
https://en.wikipedia.org/
本名 レイモン・ジョルジュ・イヴ・タンギー(Raymond Georges Yves Tanguy)
生年月日 1900年1月5日
出身 フランス パリ
学歴
分野/芸術動向 絵画 / シュルレアリスム

人生と作品

生まれと環境

イヴ・タンギーは1900年1月5日にフランス、パリのコンコルド広場にある海軍省でブルターニュ人の両親の元に生まれます。

フィニステールの海岸
Unsplash Photo by Muriel GARGRE

1908年に退役海軍大佐であった父親が亡くなると、母親は故郷であったブルターニュのフィニステール県へ戻り、タンギーは教育を受けるべくパリに残ります。

タンギーは小さい頃、母親の故郷であるフィニステールの海岸へ訪れたことがあるようでそこで目にした海、空、石などは彼の印象に強く残っており、後の作品にしばしば登場することになります。

ピエール・マティスに出会う〜フランス軍に徴兵

パリにある公立中等学校「リセ・モンテーニュ」に通っていたタンギーは、フォーヴィスムの先駆者「アンリ・マティス」の息子であり後に画商となる「ピエール・マティス」に出会います。この出会いは二人にとって運命的なものとなり、ピエールとの関係は生涯続いていくことになります。

そして1918年、タンギーは南米とアフリカを往来する商船で働き、1920年にフランス軍に徴兵されます。

徴兵先のリュネヴィルでは詩人の「ジャック・プレヴェール」と出会い親しい関係になり、兵役を終えるとタンギーとジャック、そして編集者の「マルセル・デュアメル」と共に、シャトー通りの54番地に3人で一緒に住み始めます。

そこはかつてウサギの皮の商人が経営していた小屋で、後にシュルレアリストの芸術家や作家の溜まり場となります。

画家になることを決意

<Le Cerveau de L’enfant> Giorgio de Chirico, 1917

1923年、デ・キリコの作品「Le Cerveau de L’enfant」を偶然目にしたタンギーは、その絵に衝撃を受け、今まで芸術に関する勉強をしてきていないながらも画家となることを決意します。

独学で絵画を学び始めたタンギーは1924年頃、プレヴェールに紹介され「シュルレアリスム宣言」の著作者、「アンドレ・ブルトン」を中心としたシュルレアリストが集うサークルに参加し、シュルレアリスム運動の主要メンバーとなりました。

そのうち、タンギーが住んでいた家はシュルレアリスト達が集まる場となり、シュルレアリスムにおける制作手法の「優美な死骸」が生まれたのもこの家になります。

優美な死骸とは

1人が紙に絵を描き、描いた部分を隠して紙を次の人に渡し、次の人も描いた部分を隠しまた次の人に渡す。それを繰り返すことで1つの絵を作るという手法で、描いた誰もが予想できないような作品が出来上がるというもの。

ゲーム感覚で行えるこの手法は絵画の他にも詩や名称などにも用いることができ、「優美な死骸」という名称はシュルレアリスト達がこのゲームをプレイした際に生まれた“Le cadavre – exquis – boira – le vin – nouveau”(優美な,死骸は,ワインの,新酒を,飲むだろう)というフレーズが由来となっている。

また作曲にも使われており、数少ないシュルレアリスム音楽を作った作曲家「ジョン・ケージ」らが優美な死骸を使い、「Party Pieces」という曲を発表している。

Mama, Papa is Wonded! (1927)

©︎Yves Tanguy
<Mama, Papa is Wounded!> 1927
出典: Wikiart, https://www.wikiart.org/

陰鬱な空か海底のような場所で宙に浮かび地面に暗い影を落とす物体が描かれたこの絵画は、一目見てそうだとわかるようなシュルレアリスム絵画です。

タイトルはブルトンと共に精神医学の症例研究を行なっていた際に「ママ、パパが怪我をした!」という患者の発言を元にしています。

絵画の解釈はいくつかあり、その中には第一次世界大戦の暴力による恐怖と不安の雰囲気を醸し出していて、父親は黄色の像、母親はサボテン、子供は不定形の塊で表されているとされています。

しかしこの作品は結局謎めいたままで、シュルレアリスムの意図的な曖昧さを反映しています。

純粋なシュルレアリスト

ブルトンを尊敬していたタンギーは1927年に個展を開催し、究極のシュルレアリスム表現であり、最も純粋なシュルレアリストであるとブルトンから賞賛を受けます。

この年代は謎の物体や生き物が散りばめられている別世界のような形態の抽象的な作品が多く、タンギーが独自の特徴的なスタイルを確立していることが窺えます。

絵が切り裂かれる

1970年代に再公開された「L’Age d’Or」ポスター
出典:Wikipedia, https://en.wikipedia.org/

シュルレアリスムに対する大衆の初期の反応は暴力的でした。

サルバドール・ダリとルイス・ブニュエルが制作したブルジョア社会とキリスト教の道徳を風刺するシュルレアリスム映画「L’Age d’Or」(黄金時代)が1930年に公開され大成功を収めると、この映画の表現に憤慨した右翼の愛国者同盟からの攻撃が始まります。

彼らは映画館のスクリーンにインクを投げつけたり、鑑賞している観客に暴行を加えるなどの暴動を起こし、さらにはタンギー、マン・レイ、ダリ、ジョアン・ミロなどのシュルレアリストたちの美術作品を破壊しました。

最終的にこの映画はパリ市警が検閲委員会に再審査を促し、今後の公開を禁止するように手配されてしまいます。

このような事態があったにも関わらず、タンギーはこの映画を愛し続け、動きを捉えるという映画の特徴に感化していました。

回顧展の開催とタンギーの恋愛事情

1938年に自身の英国初の回顧展を開催し、結果は大成功を収めタンギーの名声は高まりますが、彼は富も名声も好ましくないものだと考えていたようです。

またタンギーは1927年に最初の妻であるジャネット・デュクロックと結婚をしていますが、1938年に回顧展を開催するため妻と共にペギー・グッゲンハイムの画廊に赴いた際、グッゲンハイムとの不倫関係を築いてしまいます。

ケイ・セージ

しかし、グッゲンハイムとの関係はシュルレアリスム画家の「ケイ・セージ」と出会うことにより終わりを迎えます。

1938年にセージの作品を見たタンギーはセージとの交流を始め、第二次世界大戦が勃発するとセージはニューヨークに戻り、タンギーも後を追います。

そしてアメリカに渡った2人は1940年に結婚します。

タンギーは酔うと暴力的になる傾向があり、パーティーでセージに暴言・暴力をしたり、時にはナイフで脅迫するなどあったようですが、決まってセージは家に帰るよう説得するのみだったようです。

友人達によるとタンギーはセージの絵に嫉妬していたようです。

2人の関係は側から見ると不健全的なものに窺えますが、1955年にタンギーが脳卒中で亡くなった時にはセージは彼の死に打ちのめされ、「イヴは全てを理解してくれた私の唯一の友人でした」という手紙を友人に向けて書いていたようです。

アメリカでの活動

アメリカの風景に触発されたタンギーは、作品中に鮮やかな黄色や赤を加え始めます。

タンギーによるとアメリカの光と空間の広がりが「より広い空間」を感じさせたと述べています。

Indefined Divisibility (1942)

©︎Yves Tanguy
<Indefined Divisibility> 1942
出典:Wikiart, https://www.wikiart.org/

無限に続くような砂浜にランダムに配置された物体が描かれた絵画です。絵画のアイデアを潜在意識に託しており、クランプなどで組み上がった人のような立体物は安定性が無く、今にも倒れそうになっておりタンギー自身を表現しているのかもしれません。

ブルトンとの決別

タンギーはセージと共に住み、毎日絵を描き、互いの作品を批評し合っていました。

彼の制作手段には変化があり、純粋なオートマティスム(自動筆記)から構図をスケッチするようになり、ブルトンとの関係には不穏な空気が流れ始めます。

ブルトンは不仲のシュルレアリストを破門にする傾向があり、タンギーの名声と制作方法に不満を持っていたブルトンは最終的にタンギーを「ブルジョワ」と糾弾しピエール・マティスに対して、タンぎーとの関係を断つよう要求しました。

これに対しタンギーは激怒し、ブルトンと決別することになります。

晩年

アメリカ市民となったタンギーは同じくアメリカに移ったシュルレアリスム画家である「マックス・エルンスト」らの家を定期的に訪れ互いにインスピレーションを与え合っていました。

1954年にタンギーとセージの共同展を開催するも2人は互いに独立を望み、別々のギャラリーで展示することを主張します。

タンギーは1955年1月15日に脳卒中により亡くなりますが、亡くなるまでの数ヶ月は多作であったといいます。

亡くなった8ヶ月後には大規模な回顧展がニューヨーク近代美術館で開催されました。

まとめ

いかがでしたか?

今回はデ・キリコの作品に惚れ込み、その熱意で独学で芸術家となり、シュルレアリスム画家として活躍したイヴ・タンギーについてご紹介させていただきました。

シュルレアリスムの旗手として活動したタンギーは夢と現実が入り混じるような作品を作り続け、観る者に深い思索をもたらしています。

タンギーについて気になった方は、さらに深掘りしてみてはいかがでしょうか?



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