こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんは ザハ・ハディドという人物をご存知ですか?
ザハ・ハディドは現代建築の代表的な建築家で、特に脱構築主義の動向を示した人物です。
近年の日本では、2020東京オリンピックで使用される国立競技場のデザイン監修を務めたことでも知られているのではないでしょうか。
流麗で近未来的なデザインは、美しいながらも実現が難しく、長らく「アンビルト(建たず)の女王」と揶揄されていました。
そんな彼女の作品はごく近年になって技術の発展により実現され、実用とアートを兼ね備えた唯一無二の作品として知られています。
本記事ではそんなザハ・ハディドの人生と作品についてご紹介します。
ザハ・ハディドについて
基本情報
本名 | ザハ・ハディド(ZAHA HADID) |
生年月日 | 1950年10月30日〜2016年3月31日(65歳) |
出身/国籍 | イラク/イギリス |
学歴 | 英国建築協会附属建築専門大学 |
分野 | 建築 |
傾向 | 近代建築、脱構築主義 |
師事した/影響を受けた人物 | レム・コールハースに師事、ロシア・アヴァンギャルドに影響 |
脱構築主義とは?
建築における脱構築主義とは1980年以降のポストモダン動向の一種で、フランスの哲学者ジャック・デリダの「脱構築」という思想に由来します。
これまでの型にはまった構造を常に破壊し、新たな構造を作り続けることで思想が現在進行形的なダイナミズムを生むという思想で、しばしばアートシーンでは前衛芸術(アヴァンギャルド)と関連づけられます。
特に建築においてはロシア構成主義や、その元になったキュビズム、シュプレマティズムに遡ることもできます。
モダニズム建築の規範的な思想を批判して、新しい建築のあり方を模索する動向といえるでしょう。
ロシア構成主義について知りたい方は以下の記事をどうぞ!
経歴と作品
生い立ち
ザハ・ハディドは1950年10月30日、イラクの首都バグダッドに生まれました。
幼い頃、彼女はイラク南部に残されたシュメール文明の遺跡を訪れたことがきっかけと語っています。
その風景の美しさ-砂、水、葦、鳥たち、家々、そして人々が一緒くたになって流れてゆく-忘れたことはありません。
私は現代的なやり方で同じ事をしようと、設計と都市設計の形態を発見-発明することだと思っていますが-しようとしています
また、ペルシャ絨毯にも興味を惹かれたといいます。
無限のパターンを持つ織物と、緻密な手仕事の努力を手に取って感じられるペルシャ絨毯は、直接的な分野への影響ではなくとも彼女の仕事観に影響を与えているといえそうです。
その後、1972年に渡英しロンドンの英国建築協会付属建築専門学校(AAスクール)に通います。
当時のAAスクールが建築の実験的機関としての役割を担っていたこともあり、ピーター・クック、レム・コールハース、ベルナール・チュミ、ナイジェル・コーツといった学生や教師たちは激動の70年代にあって近代建築とは何かを模索して再びモダニストになろうとしていたようでもありました。
建築設計とシュプレマティズム
『マレーヴィチのテクトニク(1976-77)』
そんなモダニズム・ルネサンスともいうべき時代と環境で育ったザハ・ハディドは『マレーヴィチのテクトニク(1976-77)』といった卒業設計およびその発展を経て、レム・コールハースの事務所に所属しながら『アイルランド首相官邸(1979-80)』や『トラファルガー広場計画(1985)』といった初期作品を世に発表します。
AAスクールの卒業設計である『マレーヴィチのテクトニク』はテムズ川にかかる橋の中腹にホテルを建てるという大胆な計画でした。
タイトルのマレーヴィチという単語からわかる通り、ザハ・ハディドはロシア構成主義、特にカジミール・マレーヴィチ(1879-1935)の唱えたシュプレマティズムに大きな影響を受けているようです。
テクトニクとは「構築機構」という意味で、マレーヴィチの『アーキテクトン・アルファ(1920)』をこの作品に利用しており、水平方向への解放的なドローイングが橋に跨るホテルというビッグスケールな設定を強調しています。
『イートン・プレイス59番地(1981-82)』
ザハ・ハディドが卒業後に行ったプロジェクトのひとつ。
自分の兄弟のために制作したアパートメントの設計で、高級住宅街であるベルグレービアの1住戸をまるごとリノベーションするというこれまた大規模な計画です。
イートン・プレイス38番地のイタリア領事館で起こったガス爆発にインスピレーションを受け、このプロジェクトを興したといいます。
建物を上下三層に分割し、シルクや石などの異素材を取り入れたり、ロビーとダイニングのエリアに階段を新設したり、パブリックスペースを中間階にまで広げるなど既存の建築設計に囚われない新しい試みを行いました。
建物の外のザハ・ハディド
1980年、ザハ・ハディドは独立し、事務所「ザハ・ハディド・アーキテクツ」を立ち上げます。
以降はコンペディションや設計依頼を中心に活動を始めることになりますが、すぐに仕事や作品が評価されたわけではありませんでした。
1988年にはニューヨーク近代美術館が主催した『脱構成主義者建築展』に参加、大学で教鞭を取ったり、『ブリタニカ百科事典』の編集委員になるなど建築以外の活動も行っていました。
また、建物の設計・デザインだけではなくインテリアデザインやプロダクトデザインも多く手がけており、建物と同じように有機的でアーティスティックながらも製品の機能を捉えたミニマルなデザインは非常に洗練されていて、素材や加工にもこだわりを感じられます。
重なる不運と嵩張る予算
『ザ・ピーク(1982-83)』
1983年に開催された香港のリゾート地、ビクトリア・ピークに建てられる予定のレジャークラブのコンペディション。
ザハ・ハディドのこの案が一度落選したあと、審査官であった磯崎新の目に留まり、一等入賞となりました。
鋭く聳え建ち、過密都市を見下す本案は、これまでの設計と同じように建物を階層化してそれぞれに役割を持たせています。
周りを囲む山々と正面に臨む海に対して過度に調和するわけでも破壊するわけでもない配慮がなされており、施設内に集合住宅も想定していつつ訪れるための道程までが設計されています。
まさに自然と文化の断層ともいうべきザハ・ハディドの代表作ですが、残念ながら実現には至りませんでした。
この後、しばらくドローイングや建設設計が評価されるもののザハ・ハディドは実際に建築に至る案に恵まれませんでした。
依頼者やスポンサーの倒産といった不運の場合もありますが、多くは奇抜なデザインから採用を逃したり、資金がかさんで竣工を見送られたりすることが多いかったのだと言われています。
このような側面は、2020東京オリンピック新国立競技場のザハ案でも見られ、記憶に新しい方もいるかもしれません。
この長い不採用時期を指して「アンビルト(建たず)の女王」と呼ばれています。
一方『ザ・ピーク』を経て大都市のランドスケープに関心を持ったザハ・ハディドは、『イートン・プレイス59番地』を発展させた『ハルキン・プレイス(1985)』、ロンドンの展覧会のための設計『メトロポリス(1988)』など多くの魅力的な設計を残しています。
日本の設計
『富ヶ谷(1986)』
この時期のザハ・ハディドの設計で注目したいのは、いくつか、というよりもかなり意欲的に日本の設計を行なっていることです。
『京都のインスタレーション(1985)』、『麻布十番(1986)』、『東京フォーラム(1989)』など日本の都市様式と文化をよく観察した設計が多く残っています。
単純な立方形に収まらない、自由で複雑な設計が当時、どれくらい日本に影響を与えていたかは定かではありませんが、現在の日本の建築を見てみると、ようやくこのようなデザインの建物も珍しく無くなってきたという頃ではないでしょうか。
そうするとザハ・ハディドがいかに近未来的な、そしてグローバルな設計をしていたかがよくわかりますね。
アンビルトの女王、花開く
『ヴィトラ社消防署(1990-94)』
世界有数の家具メーカーであるヴィトラ社の消防署の設計依頼を受けたザハ・ハディドは、この依頼でようやく設計から建築への開花を迎えます。
建築コンセプトを「直線的な壁の重なりの連続」と定めたザハ・ハディドは、鉄筋コンクリート打ちっ放しの壁を場所の目的によって切り欠き、その中に消防署が収まっているというミニマルなアプローチをとりました。
プリズム状の流動的なデザインは、まるで大きな生き物が丸ごと凍っているかのような緊張感と存在感を持ち、有事の際にいつでも駆けつける消防の責任を象徴しているかのようです。
また、この作品以降に波や螺旋といった流動的なデザインが顕著に見られるようになり、自由で突飛なドローイングと実用的で現実的な建設の間に折り合いがついたかのような印象も受けます。
『イタリア国立21世紀美術館(1998-2009)』
イタリアのローマにある美術館で、1999年のコンペディションによって選ばれたザハ・ハディドの案でプロジェクトが進行した作品です。
ニュートラルで静謐な外観と、なめらかな通路が多層に組み重なった構造が特徴的です。
建物の内部は作品やサービスのある方向に誘導していく構造ではなく、機能を持った空間が繋ぎ合わさった「都市」のような構造になるよう作られています。
作品だけを追いかけるのではなく、人流に従ったり、あるいは逆らったり、まるで海を漂流するように予測不可能な動きを起こすという狙いがあります。
ある意味で、展示作品を楽しむ美術館というよりも、美術館を楽しむための美術館と言えるかもしれません。
『フェーノ科学センター(2000-05)』
フォルクスワーゲン本社敷地内にあるテーマパーク、フォルクスワーゲン・アウトシュタットに連なる建物で、他企業との共同プロジェクトで進められた大規模なものでした。
逆円錐状の脚が方形のドームを支えている構造は未知の領域と融合が狙われたもので、テーマパークに連なる科学センターという施設にぴったりのコンセプトですね。
特徴的な窓は、床に光と影を落として視覚的に来館者を誘導するように計算されており、建物そのものだけではなく周辺環境や自然現象まで考えられた、まさに大規模なプロジェクトでした。
ちなみにこの頃、2002年に大英帝国勲章コマンダーを受賞、2004年には建築界で最も名誉と言われるプリツカー賞を女性で初めて受賞しています。
『ヘイダル・アリエフ・センター(2007-12)』
アゼルバイジャン共和国にあるカルチャー・センターであるこの建物は、首都バクーの新しいランドスケープのひとつとして設計されました。
無機質な白と有機的な曲線が美しい、ザハ・ハディドの代表作品の一つです。
外から見たときの曲線とドレープは内壁にそのまま活かされており、まるで大きな生き物の体の中に入ったかのような気分になりそうです。
周りの芝生や池も施設のアプローチというよりは憩いの場としてデザインされており、ベンチやオブジェが置かれていることもある公園のような空間になっています。
『東大門デザインプラザ(2007-14)』
韓国のソウルに位置する文化の中心的施設として構想された『東大門デザインプラザ』。ミュージアム、図書館、教育施設、公園を含むカルチャーセンターです。
イベントやメディアが席巻しワイワイと盛り上がる場というよりは、あらゆる年代の人がやってきて研究や知見を深めるための場所として作られており、発掘調査で発見された古代都市の城壁が施設の中心に据えられていたり、公園は韓国の伝統的な庭園デザインを踏襲したりしつつ、一つの要素が全体を支配しないように気を配ったといいます。
この施設そのものの電飾だけでなく、近くの大通りを通る車のライトやビルの照明がこの建物の装飾となっており、夜に訪れることができれば、星空が落ちてきたように見えるかもしれません。
『ジョッキークラブ・イノベーションタワー(2007-14)』
中国の香港理工大学設計学院およびジョッキークラブ社会刷新設計院の拠点として設計されたこの建物は、
大学キャンパスの敷地と高速道路を隔てる狭く不規則な土地に建てられたため、上から見るとカニのハサミのようになっています。
中庭などの交流の場を設ける一方で、内部にはガラス張りとヴォイドが用いられ、組織の透明性と連結性を高めるという狙いがあります。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
残念ながらザハ・ハディド氏は2016年3月31日に心臓発作で亡くなられてしまい、近代建築の文化を急成長させてきた彼女を惜しむ声が今もたくさんあります。
奇しくも王立英国建築協会(RIBA)からRIBAゴールドメダルを女性で初受賞した年でした。
彼女の独創的な設計思想やデザインについてもっと知りたい方は以下の書籍がおすすめです。
おすすめ書籍
ザハ・ハディドをもっと知りたい方にはこちらの書籍がおすすめです!
ザハ・ハディド 全仕事
ザハ・ハディドの手がけた作品のすべてが解説付きで読める本です。初期のドローイングやインテリアデザインなど、この本でしか見れない作品が多く掲載されています。
ザハ・ハディド 最新プロジェクト
ザハ・ハディドの比較的近年の作品を中心に紹介されている本です。『ザハ・ハディド 全仕事』より読みやすく、近年の特徴的な作品を多く掲載しているのでザハ・ハディド入門におすすめです。