こんにちは!ユアムーン株式会社 編集部です!
突然ですが、皆さんはマリウス・プティパという振付家を知っていますか?
歴代の数々の名作バレエを生み出した功績を持ち、『クラシックバレエの父』とも称される人物です。
この記事ではマリウス・プティパの『人生』と『作品』についてご紹介します!
目次
マリウス・プティパとは?
マリウス・プティパ基本情報
本名 | Marius Petipa (マリウス・プティパ) |
国籍/出身 | フランス マルセイユ地方 |
生年月日 | 1818/03/11~ 1910/07/14 (享年92) |
分野/芸術動向 | バレエダンサー・振付家 |
経歴と作品
マリウス・プティパは1819年にフランスのマルセイユで生まれ、7歳の時に、フランス人のバレエダンサー兼講師であった父ジャン・プティパのもとでバレエを習い始めました。
マリウスはブリュッセルの学校で教育を受け、更に音楽学校にも通ったそうです。
幼い頃は踊ることが好きではなかったそうですが、徐々に才能を開花させ、1831年に父の『ラ・ダンソマニ』という作品でデビューを飾りました。
1834年にはフランス・ナントにあるオペラ座でプリンシパルダンサーに就任し、更に多くの作品を生み出しました。
1840年にはコメディ・フランセーズというパリの国立劇団にてイタリア人女性ダンサーのカルロッタ・グリジとパートナーを組み、鍛錬を重ねました。1845年にはスペインでも活躍し、そこでスパニッシュダンスを学んだそうです。
マリウス・プティパの名作『ドン・キホーテ』はスペインを舞台にした作品で、その当時の経験からインスピレーションを受けたと思われます。
1847年にロシア・サンクトペテルブルクに到着すると、2ヶ月後にマリインスキーバレエ団の『パキータ』の公演にて、プリンシパルダンサーとして、さらに舞踊監督としてデビューをしました。
彼の振付家としての躍進は、1862年に『ファラオの娘』を完成させたことで始まります。更に1869年に『ドン・キホーテ』、1877年に『ラ・バヤデール』を新たに生み出しただけでなく、『ジゼル』や『コッペリア』の再演も行い、レフ・イワノフと共に1890年には『眠れる森の美女』、1892年に『くるみ割り人形』、1903年に彼が引退する前の最後の作品として1898年に『ライモンダ』を完成させました。
彼の振る舞いや演技は、今日まであらゆる時代のバレエダンサーから手本として称えられています。彼はロシアンバレエの地位を世界最高レベルに高め、20世紀のバレエの基礎を築き上げたのです。
彼の作品をいくつか取り上げ、特徴や魅力を解説していきたいと思います。
振付師としての出世作
『ファラオの娘』(1862年)
あらすじ
遺跡発掘のためにエジプトに訪れたイギリス人のウィルソン卿は、ピラミッドの中で突然ファラオの時代にタイムスリップ。エジプト貴族のタオールに変身した彼を魅惑的な王女アスピシアとの恋と冒険の数々が待ち受ける!
19世紀は古代エジプトへの憧れが高まっていた時代でした。フランスの作家テオフィル・ゴーティエの『ミイラ物語』を元にしたエキゾティックな題材を壮大な美術と多数の出演者で飾り、大衆の関心を最大限に掻き立てたこの作品は、1862年に初めて公演されると絶大な人気を誇りました。
民族舞踊を取り入れつつもクラシックバレエの基本を重視した正確でテクニカルな振り付けは彼の特徴であると言えます。また、彼の作品に不可欠なコール・ド・バレエ(群舞)は控えめな動作で主役を引き立てつつも存在感があり、舞台全体に華やかさをもたらします。
この作品は結果として、およそ50年間にも渡る最高位の振付家としてのキャリアをスタートさせるきっかけとなりました。
しかし20世紀の間は、ソビエト連邦によって強いられた歴史的具体性を重視する社会主義リアリズムにおける表現方法の指針には合わず、忘れ去られていました。
そして2000年にボリショイ・バレエ団によって再演されたものが先ほどの映像です。この公演をきっかけに、再び『ファラオの娘』は知名度を上げ、あらゆるコンクールなどでも使用されるようになりました。
社会主義リアリズムとは?
「社会主義リアリズム」の最も人口に膾炙した定義は、旧ソ連圏における極めて政治色の強い作品群というものであろう。すなわち、社会主義を賛美するという明確な目的のために量産された、写実的な形態の作品群というものだ。概して「社会主義リアリズム」は、「ロシア・アヴァンギャルド」の実験を断ち切り、また“誰でもわかる”安直な形態の作品を量産したものとして低評価に甘んじており、確かに見るべきものは少ない。しかし、この傾向の抑圧が「ソッツ・アート」を生んだことも事実であるし、1930年代アメリカの公共事業促進局(WPA)からもわかるとおり、国家丸抱えのプロパガンダ芸術の系譜は必ずしも旧ソ連圏に限定されているわけではない。旧ソ連の崩壊後も、そうした作品は共産圏をはじめとする世界各地で多く作り続けられているが、現在ではそれらをより包括的に括る用語としては「ソーシャル・リアリズム」が用いられることが多く、「社会主義リアリズム」を誤った用語として退けている文献もある。
プティパの手によって息を吹き返した作品
彼は新たな作品を生み出しただけでなく、一度上演されたものの人気を失って忘れ去られていた作品を改訂して再び世に出しました。
彼によって生まれ変わった数々の作品は成功を収め、現在も多くの人々に愛されています。
『ジゼル』(初演:1841年、プティパ版:1884年)
こちらは世界中のバレエダンサーが憧れを持つ『ジゼル』という作品です。
あらすじ
踊り好きな村娘のジゼルは村の青年ヒラリオンに好意を抱かれている。しかしジゼルは、ロイスという偽名で身分を隠した貴族のアルブレヒトと恋に落ちる。一方アルブレヒトには貴族の婚約者バティルドの存在があった。ヒラリオンによってこのことがジゼルの耳に入り、彼女は混乱、更にアルブレヒトがバティルドの手にキスをしたことに更にショックを受け、死んでしまう。 ジゼルは精霊ウィリたちと共に墓場にいた。ヒラリオンは許しを乞うために墓場を訪れるがウィリたちによって死に追いやられる。アルブレヒトも墓を訪れ、再びウィリたちに捕まるがジゼルの慈悲によって助けられる。
1841年に作曲アダルフ・アダン、振付ジュール・ペローによってパリオペラ座で上演されました。18年間フランスで人気を保っていましたが、それ以来人々に忘れ去られていました。
しかし1884年、ロシアのマリインスキー劇場にてプティパによって振りが付け加えられた作品が上演されると、再び人気を取り戻しました。
こちらの作品の魅力は声が聞こえてくるような表現豊かなマイムと、精霊ウィリたちの狂気をも感じるぴたりと揃ったコールド・バレエ、第二幕の霊となった悲しみや慈しみを表現するジゼルの繊細な足捌きではないでしょうか。
不朽の名作
1869年にプティパはロシア帝国劇場のバレエマスターに就任しました。
彼の功績は計り知れないもので、長編は60以上、短編となると数えきれない程の作品を遺しています。また、それらの作品によってロシアのバレエ学校の基礎が作られたとも言われています。
彼は1903年84歳で帝国劇場を引退するまでにも多くの傑作を制作しているので、いくつか紹介します!
『ドン・キホーテ』(1869年)
あらすじ
騎士道物語を読みふけるドン・キホーテは次第に現実と空想の区別がつかなくなり、遂に物語上のドルシネア姫に会うために旅に出ることになる。スペインのある町の床屋の息子バジルと宿屋の娘キトリは恋人同士です。しかし金持ちの息子ガマーシュと結婚させたいキトリの父は二人の結婚を許してくれない。そこにキトリのことをドルシネア姫だと勘違いしたドン・キホーテがやってきて、、
スペインとスパニッシュダンスが好きだったプティパは、1869年にスペイン文学『ドン・キホーテ』を元に作品を作りました。
やはりこの作品においても表現豊かなマイムと民族舞踊的な要素が特徴的です。また、こちらの作品はコメディの側面も持ち、どの世代の人でも楽しんで鑑賞することができます。
特にスパニッシュダンスの華やかさやエネルギッシュなキャラクター、ダイナミックな振付とドラマチックで明るい音楽は見ている人を飽きさせません。
二人の結婚式の場面でのパ・ド・ドゥでは高いテクニックと体力が求められ、この作品の見所と言っても良いでしょう。
例えば、女性の32回のグランフェッテ(片脚で踏み切って回転し続けること)は『ドン・キホーテ』を始め、『白鳥の湖』や『海賊』など彼の作品に多く見られますが、プティパが世界で初めて考案したものです。
後に様々な振付家にも取り入れられ、観客と一体になって舞台を盛り上げるアクセントになっています。
※パ・ド・ドゥとは、男性と女性がパートナーを組んで踊る曲目です
『眠れる森の美女』(1890年)
こちらは代表作とも言える『眠れる森の美女』です。ディズニー映画にもなっていることもあり、知名度は非常に高いと思われます。
あらすじ
醜い妖精のカラボスはオーロラ姫の誕生パーティーに招待されなかったことに憤っていた。オーロラ姫は彼女に16歳の誕生日に針で指を刺して死ぬという予言を与えられる。しかしリラの精は「オーロラ姫は死ぬのではなく、深い眠りに落ちるのです。王子のキスによってのみ、目を覚ますでしょう。」という予言を上書きをしたことで宮殿ごと100年もの眠りに落ちる。
作曲はチャイコフスキーが担当し、『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』に並んで彼の3大バレエ音楽とも呼ばれています。
こちらの作品は1890年にサンクトペテルブルクにて初演が行われましたが、全3幕で3時間にも及ぶ長編であることに加え、豪華絢爛な宮殿を表現するための高額なセットが必要であったため、公演をするために破綻したバレエ団もあったほどだそうです。
それでも多くのバレエ団によって上演されたのは、舞台が中世の宮殿を模したセットや衣装で華やかに飾られたことに加えて、
常に大人数が舞台上に存在し、どの幕にも見所があって飽きを感じさせない舞台構成が多くの観客の心を掴んだからではないでしょうか。
彼は舞台芸術関係者や作曲者とも密に接して作品を制作していたため、どの作品も色彩豊かで細部までこだわりが見て取れます。
プティパは1910年にサンクトペテルブルクで亡くなりましたが、その7年前の84歳まで唯一無二の振付家として活躍していたということですから、驚きですよね。
まとめ
いかがでしたでしょうか!
バレエの巨匠マリウス・プティパの人生と作品を紹介しました。
200年近くに渡り、彼の華麗で優雅な舞台は多くの人々を魅了してきました。
現在もその人気は衰えることがなく、あらゆるバレエ団から町のバレエ教室まででも好んで上演されています。
今後も世界中のダンサーとバレエを愛する人々によって引き継がれていくのではないでしょうか。