こんにちは、ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはトマス・コールというアーティストをご存知でしょうか。
コールは、アメリカの画家であり初期の環境活動家で、ロマン主義と自然主義をテーマに作品を描いた作家です。19世紀半ばに盛んとなったアメリカの芸術運動ハドソン・リバー派を始めたことでも知られています。
この記事では、そんなアメリカを代表する画家とマス・コールの『人生』と『作品』を中心にご紹介します。
トマス・コールとは?
トマス・コール基本情報
本名 | トマス・コール(Thomas Cole) |
国籍/出身 | イギリス、ランカシャー |
生年月日 | 1801年2月1日-1848年2月11日 |
分野/芸術動向 | ロマン主義、自然主義、ハドソン・リバー派 |
学歴/出身大学など | – |
公式サイト/関連サイト | https://thomascole.org/ |
コールの人生とアート
イギリスからアメリカ移住
1801年、イギリスのランカシャー州で生まれたコールは、1818年にアメリカへ家族と移住します。フィラデルフィア、オハイオ、ピッツバーグに短期滞在、そしてスタインという名の旅する肖像画家に師事します。コールも肖像画家として活動するなか、ペンシルベニア・アカデミーに作品が展示されることもありました。
1825年、ニューヨーク州のキャッツキルの大自然に魅了されたコールは、その風景を絵画の主題とするようになります。キャッツキルの風景画は、ニューヨークのアートシーンでも注目を集めました。版画家であり、後の生涯の友となるアッシャー・ブラウン・デュランドを含む著名人の目に留まり、コールはその名を知られるようになります。20代にも関わらず、ナショナル・アカデミーの会員として活動します。
ふたたびヨーロッパへ
1829年から1831年にかけて、コールはイギリスに戻ります。ローマなどの風景画を描きました。この時期に、海外を旅するアメリカの富裕層に出会い、彼らから多くの依頼を受け、さらに名声を得ていきます。
1832年11月、コールはニューヨークに戻りました。ヨーロッパで制作した絵画の展覧会を開催し、再び世間の注目を集めます。その後まもなく、コールはキャッツキルに小さな別棟を借り、スタジオを構えました。夏の間には、スタジオからニューイングランドを頻繁に歩き回り、スケッチでその自然風景を描きました。冬の間は、スタジオにこもり、このスケッチをもとに絵画を制作しました。現在、コールのスタジオは、国の重要文化財として保存されています。
この時期、コールとコールのパトロンとなるルーマン・リードの関係が始まります。ニューヨーク州コクサッキー出身のリードは、地元の商人として成功し、ニューヨーク市に移り、ギャラリーのオーナーをつとめていました。
代表作
《オックス・ボウ(The Oxbow)》
コールの最も効果的な風景画のひとつ『オックス・ボウ』(1846年)は、マサチューセッツ州のホリヨーク山から俯瞰した景色を描いたスケッチが元となっている。眼下に見下ろすうねるように曲がった川は、コネチカット川で、「オックス・ボウ」とは、この湾曲部のことを指します。山上には不気味な黒い雲が残りますが、わずかに差し込む光と、晴れた麓が天気の変化を映し出します。このようにコールの作品は、北米の森の孤独と神秘を表現している。細部まで記録された事実に基づく直接的な風景を描くこともできる一方、大胆な光とキアロスクーロの効果を用いて、壮大で劇的な想像上の風景を作り出すこともできる人物であった。彼の作品に人物が登場する場合、それは常に周囲の風景の威厳に従属するものであった。またこの作品は、よく見ると、帽子を被りスケッチをしているコール自身が描かれている。
最人気シリーズ:《The Course of Empire》
最も人気を博したシリーズ《The Course of Empire》は、コールのパトロンであるリードのために制作された絵画群です。
絵画シリーズ:《The Voyage of Life》
このシリーズは、裕福な銀行家であり慈善活動にも力を入れていたサミュエル・ウォードのために制作されたものです。《The Voyage of Life》は、全4枚の絵画シリーズです。しかしながら、ウォードは、1842年のシリーズの完成を見届けることなく、この世を去yいてしまいました。
コールの功績
ハドソン・リバー派
コールが創始者のひとりであるハドソン・リバー派は、1825年から1870年にかけて活躍した世代の異なるアメリカ人風景画家の集団です。ロマン派から発展したハドソン・リバー派は、アメリカ初の絵画の流派です。歴史の古いヨーロッパの伝統絵画に劣らず、アメリカ美術を確立していこうとする強い意志を持った画家の集まりでした。伝統的な建造物や歴史を主題としたヨーロッパ絵画に対抗すべく、アメリカの手付かずの大自然を題材としていました。
トーマス・コールを含むトーマス・ドーティ、アッシャー・デュランドら3人が、ハドソンリバー派の初期の指導者たちとされています。いずれも開放的な環境で制作し、ハドソン川流域やニューイングランドの近隣地域の大自然をこと細かに、観察し絵画を描いています。
環境活動家ー自然と人の共存を目指す表現
1835年から1836年にかけての冬、キャッツキルで《The Course of Empire》を制作します。この時期に、コールは、作品のインスピレーションの源であるキャッツキルの原生の自然が、当時の活発だった産業開発の影響によって脅かされていることを感じ、反対意見を表明するようになります。特に、「銅の心を持った野蛮人」と呼ばれた鉄道開発の支持者たちによる自然破壊は懸念されました。同時代、アメリカ文学の重要作家であるヘンリー・デビッド・ソローやエミリー・ディキンスンも、自らの著作に鉄道建設が進められていくことの懸念を表しています。
コールの代表作《オックス・ボウ》は、前景の野生の丘陵と森と、その対角線上にある人が生み出した田園の対比から、人と自然との共存へのメッセージも読み取れます。
コールの私生活
短い生涯を終えるまで
父の死と結婚
1836年には、コールの父とパトロンのルーマン・リードがともに亡くなります。しかし、同年11月22日、トーマス・コールは、キャッツキルのスタジオ近くに住むバートウ家のマリア・バートウと、自宅で結婚式を挙げました。すでに人気画家となっていたコール宅に、当時の偉大な画家や文学者の多くが訪ねるようになりました。『モヒカン族の最後』の著者ジェームズ・フェニモア・クーパーもそのひとりでした。1838年1月1日には、コール家の第一子、セオドア・アレクサンダー・コールが誕生します。
1841年に、コールは再びヨーロッパに渡り、イギリスの親族を訪ね増田。フランスとイタリア、スイスも訪れます。画家としてコールは歓迎され、作品はヨーロッパでも人気を博します。イタリア滞在中に2作目の《Voyage of Life》を制作、そしてこのシリーズをニューヨークへ送りました。コールは1842年に、蒸気船「グレート・ウェスタン号」で2度目のヨーロッパ旅行から帰国します。
この頃に、コールは、エピスコパル教会で洗礼を受けることを決意し、キャッツキルの教会会員となります。その後、コールは、彼の友人で後に伝記作家となるルイス・L・ノーブル牧師のために、教会堂を設計する仕事を引き受けたこともありました。
画家としての不安
人気を博したコールですが、また、次第にコールは経済的な問題を抱えるようになります。1843年頃から数年間、コールは自分の絵が売れるかどうか心配し続けます。この間に、コールの手紙や詩は、ニューヨークの新聞や雑誌に数多く掲載されました。
翌年、コールはフレデリック・E・チャーチをアトリエの生徒として受け入れます。チャーチの父親は、息子の指導のために年間300ドルを支払うことに同意した。この契約は、1846年まで続きます。コールは、同じ条件で2人目の生徒であるベンジャミン・マッコンキーも受け入れます。
そして晩年へ
1846年、コールは「The Cross and the World」と呼ばれる別の絵画シリーズを描き始めます。この時期に、母屋から少し離れたところにあるコールの第二アトリエが建てられます。「ニュースタジオ」と呼ばれたこの第二アトリエは、コール自身が設計しました。
1848年2月6日、コールとその家族はキャッツキルの教会での朝の礼拝に出席しますが、昼食後、コールは倦怠感を訴え、真夜中には病状が悪化してしまいます。そして、1848年2月11日、トーマス・コールは自宅で亡くなりました。葬儀は同教会で行われました。しかし、極寒のため、この最後の儀式に参列できた友人はごくわずかだったと言います。現在コールは、トムソン・ストリート墓地に眠っています。
まとめ
いかかでしたでしょうか。
19世紀半ばまでに、アメリカの原生の大自然の威厳を絵画を通して表現し、産業化が進む社会を批判し、アメリカ美術を確立する運動を創始するなど、アメリカ文化史を形成する重要な作家のひとりです。日本ではあまり知られてはいませんが、ニューヨークのメトロポリタン美術館では、アメリカの重要絵画として、現在も常設展示が行われています。
皆さんも実際にコールの作品をご覧になってはいかがでしょうか。