こんにちは!ユアムーン株式会社編集部です。
みなさんはダヴィッドという画家をご存じでしょうか?
ダヴィッドの名前を聞いたことはないけれど、上の絵画(「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」)は見たことがあるという方はいらっしゃるかもしれませんね。
そう、ダヴィッドはあのナポレオン・ボナパルトなどのフランス史を語る上で欠かせない著名人たちに重用された、新古典主義を代表するフランス人画家です。
それではフランス革命やナポレオン帝政期を生き抜いた画家ダヴィッドが具体的にどのような人生を送ったのか、そしてどのような作品を手がけたのか見ていきましょう。
ダヴィッドとは?
ダヴィッド 基本情報
本名 | ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David) |
国籍/出身 | フランス/パリ |
生年月日 | 1748年8月30日 |
分野/芸術動向 | 画家/新古典主義 |
学歴/出身大学など | ジョゼフ=マリー・ヴィアンに師事 |
新古典主義とは?
ダヴィッドの解説に入る前に、「新古典主義」とは一体何なのかおさえておきましょう!
新古典主義は18世紀半ばから19世紀初めにかけてヨーロッパで興った芸術運動です。その名のとおり古代に確立された理想的な美、特にギリシア美術を規範とした理想至上主義的な側面があり、それまでのバロック美術やロココ美術といった華やかな宮廷美術とは相反する特徴を持っています。
また当時イタリアではヘラクレネウムの発見やローマ帝国時代の古代都市ポンペイの遺跡発掘が相次いでおり、それも過去の美術様式に目を向けるきっかけになったと考えられています。
さらに、フランス革命も新古典主義には欠かせない存在です。それまで権力を誇っていた貴族や聖職者たちによる支配への反発がある中で、美術界でも前時代のバロック美術やロココ美術の様式に反発する傾向が高まっていったのです。
これらの動きはヨハン=ヨアヒム・ヴィンケルマンの『ギリシャ芸術模倣論』や『古代美術史』からも読み取ることができます。
ダヴィッドの他にも、新古典主義を代表する画家にはフランソワ・ジェラールやアントワーヌ=ジャン・グロ、そしてダヴィッドのアトリエに入門したドミニク・アングルが挙げられます。
経歴と作品
若手画家としてデビュー
1748年、フランスはパリの商人の家に生まれたダヴィッドですが、幼くして両親を亡くしてしまいます。裕福な叔父に引き取られたダヴィッドはやがて絵画に興味を持ち才能を発揮し始めます。そこで叔父はダヴィッドの母の従兄弟でありロココ絵画の巨匠フランソワ・ブーシェのもとでダヴィッドに絵を学ばせようとしますが、すでに50歳を過ぎていたブーシェは弟子をとっておらず、ダヴィッドは代わりに知人のジョゼフ=マリー・ヴィアンに師事することになりました。
1774年、ダヴィッドは『アンティオコスとストラトニケ』でローマ賞を受賞します。ローマ賞は当時の若手画家にとっての登竜門で、ローマ賞受賞者は国費でイタリアへ留学することができました。ダヴィッドも翌年1775年から1780年までをイタリアで過ごし、プッサンやカラヴァッジョなどの17世紀の画家について研究しながらルネサンス芸術を学びました。このような経験を経て、ダヴィッドの絵は力強い描写が特徴になっていきます。帰国後は王立アカデミーの画家として活躍しました。
『ホラティウス兄弟の誓い』(1784年)メトロポリタン美術館蔵
『ホラティウス兄弟の誓い』はルイ16世によって王室から依頼を受けて制作された最初の作品です。絵画のジャンルは当時アンドレ・フェリビアンによって最高位に位置づけられた歴史画です。18世紀のロココ美術の浸透とともに大様式の重厚な歴史画は後退し、神々の恋愛模様を描いた神話画が増えていくにつれて絵の表現も軽やかなものになっていきました。しかし、ルイ16世の治世下にダンジヴィレ伯爵が王室建造物局総監に就任するとその動向に変化が起こります。ルーブル美術館創設計画に尽力したダンジヴィレは、その準備として無私無欲、勇気、勤勉、愛国心などの道徳的主題を扱った歴史画の制作を奨励しました。『ホラティウス兄弟の誓い』も、この奨励制作のなかの1点だったのです。
この絵を見てみると、描かれた人物が限定されており、わかりやすい輪郭線や明暗の対比によってより人物が際立っていることがわかります。画面の向かって左では男性たちが今にも動き出しそうなポーズをしているのに対し、右では女性たちが静かな様子で描かれています。感情がわかりやすく描写された表情もポイントです。
また絵全体の構図はフリーズ状で人物同士が重ならないように配置されており、柱や敷石が並行かつ垂直に描かれた背景からは厳格な雰囲気が感じられます。
絵のストーリーに注目!
ここで描かれているのは建国当時のローマとアルバの町の敵対関係です。
争いに決着をつけるために、ローマからはホラティウス兄弟が、アルバからはクリアティウス兄弟が運ばれ決闘を行うことになりました。その結果、ホラティウス兄弟のうち1人だけが生還して、ローマは見事戦いに勝利します。しかしホラティウス兄弟の1人はクリアティウス兄弟の姉妹であるサビナを妻としており、ホラティウス兄弟の姉妹であるカミルラは敵方の兄弟の1人と婚約していました。婚約者を殺された悲しみにくれるカミルラを見て激怒した兄は妹を殺してしまいます。しかし兄は父の弁護によって死刑を免れたのでした。
フランス革命とダヴィッド
1789年にフランス革命が勃発したとき、ダヴィッドはジャコバン党員として政治にも関わっていました。フランス革命の始まりの日とされるバスティーユ牢獄襲撃事件に参加したり、1792年には国民議会の議員になったりと、積極的に活動していたことがわかります。1794年になると左翼のジャコバン派および山岳派の指導者ロベスピエールに協力するようになります。
ロベスピエールの失脚に伴ってダヴィッドもその立場を脅かされ、一時はリュクサンブール宮殿に拘留されました。1795年の恩赦のあとは革命や政治から退き、若手画家の指導に労力をつぎ込むようになります。
『球戯場の誓い』(1791年)カルナヴァレ博物館蔵
こちらは国民議会の後援を受けたダヴィッドが、1789年6月20日の「球戯場の誓い」の様子を描いたものです。
1789年5月、ルイ16世によって召集された三部会が開催されますが、議決方法を巡って第一身分、第二身分、第三身分が対立。最終的に第三身分代表のシェイエスの提案で、第三身分だけで国民議会とすることに決まりました。しかし、ルイ16世が国民議会が使用することを認めないまま議場を閉鎖してしまいます。これを受け、1789年6月20日、第三身分の議員たちは球戯場に集まると憲法が制定されるまで国民議会を解散しないことを誓いました。
絵の中には実際に存在した人物が描かれています。中央で右手を挙げて宣誓文を読み上げているのが議長のバイイ、その右下で椅子に座っているのがシェイエス、そしてシェイエスから右に二人目で左手を胸にあてているのがロベスピエールです。
上半分の空間に対して下半分に描かれた人々の密度が高く、球戯場内の熱狂がうかがえます。左上から風が吹き込んでカーテンが大きく翻っているのは、これから迎える国民議会の新たな在り方を表しているのでしょうか。
ナポレオン帝政期とダヴィッド
フランス革命後のフランス第一帝政時代、ブリュメール18日のクーデターにて総裁政府を打ち倒したナポレオン・ボナパルトたちクーデター派は統領政府を樹立します。第一コンスルとなったナポレオンからその実力を認められたダヴィッドは、フランスの勝利の歴史を絵に残すように依頼されました。その後もダヴィッドはナポレオンの庇護下に置かれ、1804年には首席画家に任命されます。
1815年にナポレオンが失脚するとともにダヴィッドはまたも失脚し、翌年1816年にベルギーのブリュッセルへ亡命します。それから9年後の1825年2月29日、77年の生涯に幕を閉じました。
『皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠』(1807年)ルーブル美術館蔵
作品中の戴冠式は1804年12月にノートル・ダム大聖堂で行われました。ナポレオンは市民からの支持によって皇帝になったことを示すためにローマ教皇による戴冠を拒み自分で冠を頭にのせたとされています。しかしそれでは絵画のワンシーンとして成立しづらかったため、この絵では皇帝から皇妃へ戴冠する場面を切り取ったのでした。
またナポレオンの後方に座るローマ教皇庁の人々の表情にも注目です。彼らがナポレオンに向けた冷めた視線には、彼への祝福とは相反する感情が浮かんでいます。華やかな場面が描かれているにもかかわらず、水面下ではそれぞれの権威がぶつかり軋轢が生じていた関係性が表れているのも革命後の不安定な時代ならではといえます。
全長が約10メートルあるこの作品は数多くの美術品の所蔵を誇るルーブル美術館のなかでも最も大きな絵画のひとつです。その大きさに劣らない絵そのものの迫力は当時の人々にもナポレオンの権力がいかに偉大なものであったかを伝えたことでしょう。
その他の作品
『ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち』(1789年)ルーブル美術館蔵
『ホラティウス兄弟の誓い』でも見られたフリーズ状の配置、左右の対比がこちらの絵からもおわかりいただけるのではないでしょうか。まずそのはっきりとした明暗に目がいきます。この明暗の差によって絵の中の人物の姿が際立っており、また左側に描かれた男性陣と右側に描かれた女性や子供たちの対比も明らかになっています。そしてさらに対比を強調しているのがそれぞれのポーズや表情です。左側に座った男性ブルートゥスの表情は読み取りづらく動きもほとんどないのに対し、女性と子供たちの表情は悲痛に歪み動きもダイナミックに表現されています。
『マラーの死』(1793年)ベルギー王立美術館蔵
『球戯場の誓い』と同じく、フランス革命の頃に描かれた本作はジャコバン派の主要人物であったジャン・ポール・マラーの亡くなった姿を描きだしています。
皮膚病を患っていたマラーは自宅で入浴していた際に、対立していたジロンド派の女性党員シャルロット・コルデーによってナイフで暗殺されました。手元にペンと手紙があることから、彼が仕事中であったことがわかります。マラーの表情はいたって穏やかで、また皮膚病の痕も描かれていません。ミケランジェロの『ピエタ』などの過去の英雄的な作品の要素を取り込むことで、あくまで理想化された肉体や彼の英雄としての姿の永遠性を表現しているといえます。
おすすめの書籍
フランス近世美術叢書Ⅱ 絵画と受容 ―クーザンからダヴィッドへ
16世紀から19世紀初頭にかけて、フランスのパリを中心に活動した画家たちについて知ることができます。
まとめ
いかだだったでしょうか?
ルイ16世の治世から始まり、フランス革命、ナポレオン帝政期と目まぐるしい時代の潮流に翻弄された画家ダヴィッド。それぞれの時代で彼が手がけた作品の主題からは当時のフランスの息づかいまでもが感じられます。
ルイ16世の処刑に賛成票を投じたダヴィッドは生涯を閉じた後も本国への帰還を許されませんでしたが、その心臓は現在フランス東部の墓地ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されています。フランスの美術史、そして政治史において欠かせない存在彼は、今も母国の様子を見守っているのかもしれませんね。