こんにちは、ユアムーン編集部です!
皆さんは「ウィリアム・メリット・チェイス」という画家をご存知でしょうか?
チェイスはアメリカ印象派を代表する画家で、画業に加えて「エドワード・ホッパー」「ジョージア・オキーフ」などの偉大なアメリカ人画家を指導した美術教師としても有名です。
今回はそんなウィリアム・メリット・チェイスの人生と作品についてご紹介させていただきます!
ウィリアム・メリット・チェイスってどんな人?
本名 | ウィリアム・メリット・チェイス(William Merritt Chase) |
生年月日 | 1849年11月1日 |
出身 | アメリカ合衆国 インディアナ州 ジョンソン郡 ニネヴェー |
学歴 | ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(National Academy of Design) |
分野/芸術動向 | 肖像画・風景画/印象派 |
公式サイト | https://www.william-merritt-chase.org/ |
人生と作品
生まれと環境
ウィリアム・メリット・チェイスは1849年11月1日、6人兄弟の長男として生まれます。
幼少期からチェイスは芸術への関心を示し、好きな本のイラストを模写することで才能を発揮していました。
12歳の時に一家でインディアナポリスに移った際、チェイスはそこで演劇などの芸術活動に触れ地元の芝居では脇役を演じる経験もします。
チェイスの父親は厳格な性格の持ち主で、初めはチェイスを自分が経営する靴屋で働くことを強要します。しかしチェイスはほとんどの時間を包装紙に絵を描いて過ごしたり、店が一番混雑する時間帯に店から抜け出して隣の店に飾られた芸術作品を眺めていたりしたようです。
19歳の時気まぐれで船乗りになると決心し商船に徴用されたチェイスですが、3か月の航海を終えて自分には合わないと悟り、実家に戻って再び父親の靴屋を手伝います。
しかし変わらず芸術が好きだったチェイスを止めることができなかった父親は、地元の美術教師「ベンジャミン・ヘイズ」にチェイスを師事させることにします。
チェイスの才能に気づいたベンジャミンは両親を説得し、両親はチェイスをニューヨークに送ることを同意し、チェイスは本格的な勉強を始めることになります。
ニューヨークでの勉強とドイツ留学
20歳の時にニューヨークに到着したチェイスはナショナル・アカデミー・オブ・デザインに入学して作品作りを続けていました。その後1871年に家族と会うためにミズーリ州セントルイスに戻った時、セントルイスの実業家4人がチェイスにヨーロッパ旅行と研究の資金を提供し、その見返りに将来的に彼らの肖像画を描くという約束を交わします。
ヨーロッパへの留学というと、アメリカ人画家の多くはパリを選んでいたようですが、チェイスはドイツに赴き、ミュンヘン王立アカデミーに入学します。
ミュンヘンでは彫刻的なスタイルを身につけると同時に、古典的な巨匠の作品に感銘を受けました。
彼は特に「ヴィルヘルム・ライブル」の派手な明暗の表現に魅了されます。
動物への愛
ドイツでの学業を終えるとチェイスは一時的にイタリアのベニスに滞在します。
そこでチェイスは船員に虐待を受けていた猿のジョッコを保護し、ペットとして迎え入れます。その後に彼はもう一匹の猿であるジムを飼い、二匹の猿とアトリエで一緒に暮らしました。
やがてジョッコが亡くなり悲しみに暮れたチェイスは、ジムをイタリアの友人に引き取ってもらいアメリカに戻る決意をしました。
1870年代の作品
アメリカに帰国
すでにミュンヘンからニューヨークに絵画を送って展示していたチェイスは1878年に帰国する頃にはアメリカでの名声が高まりつつありました。
ニューヨークに到着するとチェイスは新しく開校したアート・スチューデント・リーグで初めての教職に就きます。
チェイスは自身にとって最高の環境で仕事をすることを重視し、ニューヨークで初めて芸術家向けに設計された建物である10番街スタジオ・ビルを借ります。
展覧会用だった大きなギャラリースペースを利用することができるようになったチェイスは、彼の絵画だけでなく、豪華な蒐集品や猟犬、2羽のインコの展示など魅力溢れるアトリエを作り上げ、芸術の神殿などとも呼ばれていたようです。
また彼のアトリエの魅力に裏打ちするオーラをチェイスは持っており、ダンディーでおしゃれな服装も彼の魅力の一つであり、芸術家の中で目立つ存在となっていたようです。
チェイスは芸術家だけでなく教師としても名声を得て、珍しい蒐集品の静物画や教室に犬を連れてきたりなどの指導方法はとても生徒に人気で「ジョージ・ベローズ」「マースデン・ハートリー」「エドワード・ホッパー」「ジョージア・オキーフ」など後の偉大な芸術家たちの家庭教師だったという点でも知られています。
Interior of the Artist’s Studio (1880)
この絵画はチェイスのアトリエが舞台となっています。
飾られた絵画、チェイスが集めた豪華な蒐集品等で埋め尽くされた絵の中央には白いドレスを着た女性が青い椅子に座っており、カーペットには犬が眠っています。
彼が集める蒐集品は古い巨匠の絵画から日本の日傘、ルネサンスの家具など様々です。
チェイスはこのアトリエからインスピレーションを得て1880年代に何度も絵を描いたようです。
アトリエを描いた他の作品
結婚とその後のキャリア
1887年、チェイスは石版印刷会社の経営者の娘であるアリス・ガーソンと結婚しました。彼女は芸術に熱心であり、夫のキャリアを支援しました。チェイスはブルックリンで定住し、幸せな結婚生活を送りながら妻と子供たちの肖像画を描くことで、家族と芸術を結びつけます。
その後、チェイスはロングアイランドのサウサンプトンにある家とスタジオで夏を過ごしました。彼は近隣のシンネコック・ヒルズ・サマー・スクール・オブ・アートを設立し、教育に情熱を注ぎました。チェイスはこの地域の自然に魅了され、印象派的な風景画を描きました。
チェイスは印象派や社交界の肖像画家として成功し、高額な報酬で人物を描きました。また、自身の生徒たちをモデルにして作品を制作し、美術機関に寄贈しています。
1896年、財政的な問題に直面したチェイスは家族と共にマドリードに旅行しましたが、後にシャインコックに戻り、夏の美術教室を開きました。さらに、パリのアカデミー・ジュリアンをモデルにした自身の美術学校「チェイス・スクール」を設立しましたが、ビジネスの才覚に欠けていたチェイスはわずか2年で学校を閉鎖し、後に別の経営者に引き継がれました。
チェイスはその後、ニューヨーク・スクール・オブ・アート(後のパーソンズ・スクール・オブ・デザイン)の校長として11年間教鞭を執ることになります。
晩年
チェイスは1916年に亡くなるまで絵を描き続け、展覧会も開催していましたが、晩年は教育活動に多くの時間を費やします。
1902年から1913年の間、彼は夏をヨーロッパで過ごし、ベルギー、イギリス、イタリア、オランダ、スペインなど様々な国で教えました。彼の最後のヨーロッパでの教室は1913年にベニスで開催されたものでした。
チェイスは自身のスタジオで個人教室を開き、1912年までニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグとの関係を維持します。また、1914年にはカリフォルニア州カーメルで夏の教室を開き、新しい教育環境を経験しました。
1916年、チェイスは体調を崩し、肝硬変と診断されました。彼は絵を描き続けましたが、アトランティック・シティへの訪問を断念し、ニューヨークに戻った後、わずか66歳で亡くなります。
まとめ
いかがでしたか?
今回は印象派、肖像画家という画業だけでなく、美術教師としても活躍したアメリカの画家、「ウィリアム・メリット・チェイス」についてご紹介させていただきました。
ウィリアム・メリット・チェイスについてもっと知りたい方は更に調べてみてはいかがでしょうか?