こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはヨーゼフ・ボイスという人物をご存知ですか?
ボイスはドイツで活躍した彫刻家で、独自の理論に基づいてパフォーマンスやインスタレーションといった現代的な手法を用いた空間演出や彫刻作品を世に生み出しました。
1960年の芸術運動であるフルクサスに参加し、特に自然に対する理念や素材に関する表現について20世紀のアート的価値観に大きな影響を与えた重要な人物のひとりです。
本記事ではヨーゼフ・ボイスの人生と作品についてご紹介します。
ヨーゼフ・ボイスって?
基本情報
本名 | ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys) |
生年月日 | 1921年5月12日〜1986年1月23日(64歳没) |
国籍/出身 | ドイツ |
学歴 | デュッセルドルフ美術アカデミー |
分野 | 絵画、彫刻、パフォーマンス、インスタレーション |
傾向 | 現代彫刻、インスタレーションアート |
師事した人 | – |
経歴と作品
生まれと環境
1921年、ボイスはドイツのクレーフェルトで生まれ、クレーヴェという町で育ちました。
田園の広がるクレーヴェには豊かな自然が身近にあり、ボイスは幼少期から動植物や土着の神話に触れて育ちます。
この頃のボイスは医学の道を歩むつもりでいましたが、とある出会いが彼を芸術の道に誘います。
ナチスが芸術への道を照らした
1936年頃、ボイスは当時のナチス党による青少年組織ヒトラー・ユーゲントに参加します。
ヒトラー・ユーゲントはナチス党が青少年を募集して政治教育やキャンプの訓練などを行う団体で、時には党員の活動の手伝いをすることもあったようです。
ボイスは活動中、焚書される書籍のなかに彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックの作品集を発見します。
レームブルックは18世紀に活躍した彫刻家です。アレクサンダー・アーキペンコなどの前衛的な芸術家と知り合い素材感を残したソリッドな作品を多く残しましたが、第一次世界大戦の従軍経験からうつ病を患い、自殺を遂げた悲劇的な作家でした。
レームブルックの作品に衝撃を受けたボイスは、彫刻家を目指し芸術への道を歩み始めます。
生涯を通してレームブルックを尊敬し、彫刻の可能性を信じるに至ったボイス。特に素材の存在感と彫刻の前衛的な表現にその影響を見ることができます。
戦争経験がもたらした脂肪とフェルト
1939年、サーカスでパートをしながらデッサンやドローイングをし、芸術家としての訓練をしていたボイス。その傍ら、神話学やルドルフ・シュタイナーの理論、自然科学などの学問にも取り組んでいました。
これらの興味は、彼の生まれ育ったドイツ・クレーヴェの豊かな自然と伝統的な逸話がもたらしたものと見て間違い無いでしょう。
1940年、第二次世界大戦の勃発する中でボイスは空軍兵に志願。爆撃機に搭乗して参戦しました。
ボイスは1944年、東部戦線でソ連軍に撃墜され負傷。その後にも空挺部隊として活躍し、さまざまな勲章を貰って終戦を見届けます。
1944年の負傷でボイスは、墜落したクリミア半島の遊牧民タタール人に保護されたというエピソードを語っています。
その際に患部に脂肪を塗られ、フェルトでくるんで体温を保つ手当てを受けたことが、後の作品において脂肪やフェルトが多く登場する理由だとされています。
戦争による従軍経験という経験を経て、ボイスの類稀な素材への価値観が目覚めたのです。
一方、このエピソードは後付けとする学説もあります。
ボイスがタタール人に保護してもらった日付と数日違いで、スターリンがタタール人に対して強制移住命令を出していたことなどが理由です。
いずれにせよボイスは第二次世界大戦を経て芸術への価値観を一層深め、後に作品へ繋がるようなデッサンやドローイングを残しています。
1947年、ドイツのデュッセルドルフに戻ったボイスはデュッセルドルフ芸術アカデミーに通って芸術の勉強を始めます。
アカデミーを卒業した後の1950年代、ボイスは戦争時のトラウマによってうつ状態に陥り、一時的にではあるものの生活が不安定になります。
その一方で哲学や自然科学といった学問の研究をはじめ、徐々に芸術への活力を取り戻していきます。
1958年に動物学者の娘で美術教師をしていたエーファと出会い、翌年に結婚しました。
開かれた教育を賭けてアカデミーと訴訟問題に
1961年から約10年間、ボイスはデュッセルドルフ芸術アカデミーの彫刻科教授に就任しました。
しかしある年、自分の講義は希望する人すべてに開かれるべきだと主張したボイスは、無断で学外の人物を講義に招いたことでアカデミーと衝突してしまいます。
その結果ボイスは解雇を言い渡され、アカデミーと訴訟を起こす事態に発展しました。
ボイスの解雇を惜しんだ学生を味方につけ、勝訴したボイスは結果的に教授職を辞することになりますが、教室はその後も自由に使うことができる取り付けで、後に自由国際大学のオフィスとして利用されることになります。
ボイスの10年にわたる教職時代は後世に大きな影響を与えており、デュッセルドルフ芸術アカデミーの学生や教授からは多くの芸術家が登場しています。
1971年にボイスと入れ替わるように教授に就任したゲルハルト・リヒター、同時期の学生として影響を受けたジグマー・ポルケ、アンゼルム・キーファーなどがその代表です。
フルクサスでパフォーマンス・アートを学ぶ
1962年、ボイスはデュッセルドルフ芸術アカデミーの彫刻科教授に就任した翌年、フルクサスのメンバーになります。
フルクサスとは、1960年から1970年ごろにドイツを中心に行われた前衛芸術運動です。
リトアニアの現代芸術家ジョージ・マチューナスが創始した運動で、ラテン語で「流れる、変化する、下剤をかける」という意味になります。
当初は現代音楽がきっかけでしたが、美術をはじめ、詩や建築など多岐にわたるジャンルの芸術家を巻き込んで急性的な運動に発展。ナム・ジュン・パイクやオノ・ヨーコなどの著名人もこの運動に参加していました。
その主な活動内容は反芸術主義や、多国籍主義に象徴されます。
しかし具体的なマニフェストを掲げようとしたマチューナスが政治思想にまで踏み込んだため、賛同するメンバーはほとんどおらず、反芸術的でグローバルという以外に明確な活動内容がないままコミュニティが拡大していきました。
その結果、フルクサスという名前を借りて自由に作品を発表する芸術家は増えたものの、マチューナスが成し遂げたかった「芸術共同体」というコミュニティは実現せず、10年ほどで活動は衰退していきました。
ボイスのフルクサスでの活動は短期間のことでしたが、パフォーマンスという表現方法に触れたのはボイスにとって大きな転換点でした。
フルクサスではパフォーマンス・アートを、計画的に行うイベントと無計画に行われるハプニングに区別していました。
特にボイスはハプニングの無秩序で可塑的なインスタレーション(作者と観客の相互作用)に着目し、以前から関心を持っていたシュタイナーの理論と脂肪という素材をヒントに作風を固めていきます。
脂肪とフェルト
ボイスは以前からシュタイナーによる蜜蝋(脂肪の一種)の分析に関心を示していました。
ミツバチが不定形の蜜蝋から幾何学的な巣を作り、それが熱という普遍的で目に見えないエネルギーによってまた不定形の混沌とした物体に戻るという神秘性を元にボイスは独自の「彫刻理論」を組み上げていきます。
また、フェルトも同様に熱エネルギーを溜め込む性質を持ち、繊維という幾何学的な素材でありながらマクロにはごわごわとした不定形であるという点に着目しています。
一般的な彫刻といえば、石材などから形を削り出したり、軸に粘土などを張り付けることで形を盛り上げることが一般的な手法です。
しかしボイスの登場によって、脂肪や繊維を熱というエネルギーを媒介に変化させることが彫刻の解釈に加わることになったのです。
彫刻という行為を再解釈し「(手や熱といった)媒介」とそれによって残る「形」にまで削ぎ落としたボイスの彫刻は、ミニマル・アートの文脈でも大きな影響を与えました。
このように、ボイスの彫刻理論は熱を媒介とした不定形と幾何学の交差を基盤としており、その最も顕著なモチーフとして脂肪とフェルトを選び取り、作品に多く使用しています。
『フェルト・スーツ(1970)』
ここからはボイスの代表的な作品をご紹介します。
ボイスの代表作品のひとつである『フェルト・スーツ』は、彼の生い立ちと彫刻理論を端的に表しています。
一見ふつうのフェルトで出来たスーツに見えるこの作品ですが、モチーフに用いられているフェルトは、前述したタタール人に保護された経験を象徴していると考えられます。
実際に着ることもできるこの作品は、身に纏うことでボイスの数奇な経験を追体験できます。
ただのプロダクトに見える作品がバックグラウンドによって価値や意味を持つという手法も現代アートの文脈ではよく用いられますが、年代を考えるとかなり前衛的だったと言えます。
『ファット・チェア(1964)』
『ファット・チェア』はごく普通の椅子に脂肪を塗りつけた作品で、こちらも現代彫刻の代表として知られる作品です。
『ファット・チェア』には、『フェルト・スーツ』よりも更に根源的なボイスの哲学が表れています。
ボイスの故郷は自然の動植物との距離が近く、ボイス自身も野生の動物や家畜の群れと触れ合って育った経験がありました。
脂肪の神秘性が、ミツバチが蜜蝋を幾何学的な巣に変えるというところに由来するように、ボイスにとって脂肪は自然の象徴であると考えられます。
ボイスが後年執心していた政治思想として、国家社会主義への疑心とアンチテーゼがあります。
現代社会は行き過ぎた合理主義であり、国家社会主義のような支配的な政治体制は、自然から逸脱した極端な合理主義が原因であるという考えです。
家畜の産物である脂肪やフェルトを作品の基盤とし、合理主義の産物であるプロダクトに載せることで人間と自然の向き合い方に一石を投じようという意図を汲み取ることができます。
フェルト・スーツは実用性があることで、戦争を追体験できる機能を持たせるというアプローチでしたが、こちらは逆に椅子に脂肪を乗せることで使用できなくしてしまい、人間と自然のディスコミュニケーションを表しているようです。
『カプリ・バッテリー(1985)』
これまで脂肪とフェルトを通して顕在する熱の存在を思想と絡めて作品にしてきたボイスですが、この『カプリ・バッテリー』は電気エネルギーに着目した作品です。
実物は黄色く塗られた白熱電球にレモンが接続されたオブジェで、レモンの酸性の果汁が電球を弱々しくも点灯させています。
理科の実験で見られるような単純な理論ですが、黄色に塗られてレモンに擬態したかのような電球と、主体性を失って電気エネルギーを送り続けるレモンには、やはり文明と自然の対比を感じ取ることができます。
レモンは皮のついたまま、電球は不透明に塗られることで、内部構造が秘密にされたまま灯りがつくという電気エネルギーの恩恵だけが観客の目に届きます。
人間が、世界に溢れる自然に対して、あるいは自ら作り出した文明の利器にすら不理解に過ごしていることを揶揄しているかのような印象を受けます。
このカプリ・バッテリーは1985年に制作されたものですが、文明とテクノロジーが発達するごとにその揶揄は威力を増しているかのようです。
ちなみにカプリとは、レモンの生産地として有名なイタリアの島のことです。
社会彫刻の提唱 すべてが彫刻である
『7000本の樫の木プロジェクト』よりドクメンタ会場前(1987)
1972年、デュッセルドルフ芸術アカデミーの教授職を退いだボイスは急進的に政治活動を活発に行いはじめます。
政治への反抗のみならず自然保護といった民間への抗議も行なっていたボイスは自身の活動を総括して「社会彫刻」という概念を提唱し、抗議活動やデモを含めたすべての活動が彫刻であるという主張を始めました。
1982年、ドイツで行われた大規模なグループ展・ドクメンタに参加し『7000本の樫の木プロジェクト』を開始しました。
文字通り、自然保護と開発への抗議のために樫の木を植えるというこのプロジェクト。
樫の木は生を、同時に置かれる玄武岩が死を表し、生と死のサイクルを自覚的に生きることを啓蒙するものでした。
残念ながらボイスは樫の木が成長し、生を表現するプロジェクトの達成を見ることなくこの世を去ってしまいます。
しかし、五年の月日を経て樫の木が成長してプロジェクトが達成され、ドクメンタ会場の前には立派に生を訴える樫の木が生える風景が表れました。
晩年
ボイスの社会活動は晩年になっても止まることを知りませんでした。
1983年、西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことをきっかけに起こった反核運動の音頭を取り、スキャンダルの渦中にいながら主張を続けました。
しかし1985年、肺病が突如見つかったボイスは静養に至りました。
翌年の1986年、デュイスブルク市からヴィルヘルム・レームブルック賞を受賞します。
かつて美術の世界にボイスを誘った、生涯尊敬した彫刻家の名前を冠した賞です。
そんなめでたい日から僅か23日後、ボイスは心不全でこの世を去りました。
まとめ
いかがだったでしょうか?
彫刻家という肩書からは想像もつかないほど、型破りな人物だったのではないかと思います。
「社会彫刻」は文字通りの意味とはかけ離れた理解の難しい概念でしたが、ボイスが抽出した彫刻の本質は「形」と「媒介」だったかと思います。
すると人間の活動を媒介に、社会の形を変えることもボイスにとっては彫刻だったという話も理解できるかもしれません。
日本では社会活動も彫刻も希薄な印象がありますが、これをきっかけに興味を持たれた方はぜひ博物館や書籍を頼りに理解を深めてみてくださいね。
おすすめ書籍
ヨーゼフ・ボイスについての知識を深めたい方はこちらの書籍もおすすめです!
評伝:ヨーゼフ・ボイス
ボイスに関する書籍は数少ないですが、この本は評伝形式でボイスの人生と作品について詳しく書かれています。もし更に詳しくボイスの理念を知りたい方は、ボイスが関心を寄せていた哲学や自然科学、社会的な背景に足を伸ばすのも良いでしょう。