こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは甲冑を見たことがありますか?
大河ドラマやアニメで見たことはあっても、実物を鑑賞したことがあるという人は少ないのでは無いかと思います。
歴史の教科書にも必ず掲載されているはずの甲冑ですが、昔使われていた、化石のようなものとしてだけ知っている方が多いのでは無いのでしょうか。
甲冑は現在、その本来の役目を終えて芸術的な価値を認められ、昔の人の工芸的な美しさや工夫の巧みさ、文化の違いを楽しむ芸術作品になっています。
本記事ではそんな甲冑の歴史と魅力についてご紹介します。
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古美術品って?
まずは古美術というジャンルが生まれた歴史からご紹介します。
古美術という言葉が生まれたのは、第二次世界大戦が終了し欧米との貿易や文化交換が盛んになった頃のことです。
海外のアンティークが日本で人気になり、同時に日本の古い美術品や工芸品が海外で価値を帯び始めました。
これまでは古い美術品や工芸品を作者の知名度やジャンル問わず「骨董品」としていましたが、美術品として高い価値を持つものを「古美術品」と呼ぶようになりました。
骨董品も古美術品も定義は曖昧ですが、経過年数や作者を手がかりに判断することができます。日本の骨董品は比較的若い作品も骨董品(及び古美術品)に含めますが、西洋アンティークは100年以上経過しているものをそう呼ぶことが多いようです。
余談ですが似た言葉に「伝統工芸品」というものがあります。
定義が曖昧な古美術品に対して、伝統工芸は「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」で定められた定義があります。
1:主として日常用に供されるものであること
2:製造過程の主要部分が手工業的であること
3:伝統的な技術または技法により製造されること
4:伝統的に使用されてきた原材料を主素材とすること
5:一定の地域において継続的に生産が行われていること
この五つの条件すべてを満たすものが経済産業大臣指定伝統的工芸品として認められ2024年10月時点で243点を超える品目が登録されています。
古美術品との違いは主に1に表れています。
つまり伝統工芸品は食器や織物など日常的に実用するもので、古美術品は掛け軸や刀など鑑賞における価値が認められているものと言えます。
これは伝統工芸に受け継がれてきた「用の美」という精神性が象徴しています。
一方でこけしや版画など、鑑賞を日常的な実用として伝統工芸品に登録されている例もあります。
伝統工芸について詳しく知りたい人は以下の記事をご覧ください!
甲冑の定義
まずは甲冑の定義について確認していきましょう。
甲冑と聞くと二種類のイメージが沸くかと思います。
一つは日本の戦国時代に用いられた、頭を守るための兜と、胴を守るための鎧からなるもの。
もう一つは西洋で用いられた、金属の板を繋ぎ合わせてできたもの。
前者は鎧兜(よろいかぶと)や戦国甲冑と呼び、後者は西洋甲冑やプレートアーマーと呼ぶこともあります。
本記事では前者を甲冑と呼び、ご紹介します。
甲冑の歴史
古代の甲冑
甲冑は戦うためのもの、すなわち甲冑の歴史は戦いの歴史と言い換えることができます。
そして時代によって戦いは変化し、甲冑もまた変化していきました。
甲冑鑑賞の魅力の一つは、戦いの歴史を体験することにあると言えます。
日本の戦争の始まりは、弥生時代と言われます。
狩猟採集社会から農耕社会に移り変わり、コミュニティ同士で資源を奪い合う戦争が生まれました。
吉野ヶ里遺跡などに見られる堀や柵も、外からの襲撃から村を守るために作られた構造物も戦争に備えて開発されたものと考えられます。
この頃には木や革といった有機物で作られた防具が作られました。しかし、風化によって現存するものはほとんどありません。
数少ない資料から、木の板を曲げて革紐や鋲で留めた作りであることがわかっています。鎧の側面には蝶番が備え付けられ、脱ぎ着しやすいような構造になっているのが特徴です。
この時代の形式を「短甲」といいます。
当時の名称は『古事記』や『日本書紀』に記されており、「カワラ」と呼ばれていました。
カワラという名称は、江戸時代学者の新井白石によると外側を覆う固い部分ということで皮から来ていると考察されています。
甲冑の名称は時代と共に「モノノグ」、「キセナガ」と変化し、平安時代頃に私たちにも馴染み深い「ヨロヒ」という名称が誕生しました。
ヨロヒという名称は、着るという意味の「具う(よろう)」から来ており、中国語が流入した南北朝時代に「具足」という言葉に置き換えられました。
古墳時代になると当時の兵士を模した埴輪によって、具体的な装備を知ることができます。頭から頬にかけてを守る兜と、胴から腰を覆う鎧という基本的な構成はこの時すでに完成していることが伺えます。
奈良時代になると甲冑に金属が使われ始めたと考えられますが、実物の発掘が少なく、謎に包まれている部分が大きい時代です。
この時代までの戦は、刀や槍を手に持って攻め入る「徒歩(かち)戦」が主流でした。そのため最低限の間接部を除いて木や鉄の板を繋ぎ合わせ、物理的な衝撃から身を守るための防御力を重視した作りでした。
私市円山古墳から出土した奈良時代の甲冑。
中世の甲冑
平安時代に現れた武士制度は、政治的影響力と共に勢力を増し、江戸時代にかけて日本の支配者となりました。
実に700年、長く続いた武士の時代は、甲冑の歴史の大部分を占めながら多様な文化を生み出しました。
日本が島国であることも相まって文化が醸成され、日本独特の甲冑が誕生した時代です。
中世の甲冑の基礎となるのは、始めに開発されてから長く使用されてきた「大鎧(おおよろい)」、「胴丸」、「腹巻(はらまき)」という形式です。
私たちが鎧と聞いて思い浮かべるイメージは、中世の甲冑から来ていると言って良いでしょう。
大鎧は胸から背中を左回りに覆う鎧を肩紐で提げ、脇楯(わいだて)という別パーツで右を塞ぎます。
腹巻になると右側に「引合(ひきあわせ)」という紐のついたパーツが付き、ひとつの鎧をのり巻きのように巻きつけるようになります。
もともと平安時代には身分の高い武士が大鎧、身分の低い平民が腹巻を着ていました。
この時代の形式は「挂甲」といい、札(さね)と呼ばれる板状の鉄板をいくつも繋ぎ合わせた作りが特徴的です。
これによって、短甲よりも肩を柔軟に動かすことができました。一方で足を包んでしまうので走りにくいという欠点があります。そのため走って戦うのではなく、馬に乗って弓や槍を構える戦いに適した工夫だと考えられています。
白糸褄取威大鎧および黒韋腰白威筋兜(伝・足利尊氏所用)
南北朝〜室町時代の甲冑
南北朝〜室町時代になり身分を問わず腹巻が着られるようになると、腹巻に加えて兜、袖、脛当といった具足(ぐそく)を加えて着用しました。
特に兜、胴、袖の三つが揃った装備を「三物完備(みつものかんび)」と言いました。
甲冑に装飾的な価値が重視されるのは安土桃山時代から江戸時代にかけてですが、この頃から革に絵が描かれたり、兜に「立物(たてもの)」と呼ばれる装飾があしらわれたりします。
立物は戦場で敵味方を区別するための標識として機能し、また権力者や身分の高い武士が権威を示すために個人のオーダーメイドで装飾されたりしました。
南北朝時代には山城が多く築かれ、騎馬戦が廃れていきました。それによって局地戦や城攻めに向いた徒歩戦が復活し、歩きやすい「胴丸」や「腹巻」が好まれ、「大鎧」の出番は限られていきました。それに伴って装飾が減り、実用的な意匠が残されたのがこの時代の特徴です。
肩脱二枚胴具足(伝加藤清正所用)
安土桃山時代、戦国の名に相応しく甲冑は最盛期を迎えました。
腹巻が改良され、袖や脛当てを基本に備えた「当世具足(とうせいぐそく)」が誕生します。
防御範囲を確保しながらシンプルな当世具足は、大量生産に向いた作りで、生産と活躍を繰り返して多様なデザインが考案されました。
典型的な当世具足のデザインが完成したのは、関ヶ原の戦い以降、大坂の陣の頃と考えられています。
興味深いのは、引合ではなく蝶番によって一つの鎧を合わせたり、前後の鎧を繋ぐ構造が主流だったということです。
古代の甲冑に用いられていた蝶番が、脱ぎ着のしやすさが重視されることによって復活したのです。
また、大名や武将は個性を表すためにユニークな兜を着用するようになりました。甲冑のデザインを語る上で欠かせない兜の意匠「立物」が多様化したのもこの時代です。
黒糸威二枚胴具足(榊原康政所用)
江戸時代の甲冑
江戸時代に幕府が成立し、武士による武力支配が廃れていきます。甲冑や刀といった装備は実用ではなく、権威を主張するための装飾品へと徐々に役目を変えていきました。
江戸時代初期には合戦があり、甲冑も実用の機会がありましたが、それでも大量生産を重視した安土桃山時代の甲冑に比べると、家紋が派手にあしらわれたり、旗を挿すためのホルダーが背中に設けられるなど装飾や識別のための役割を持つパーツが増えました。
また、鉄砲の普及が甲冑の様式を大きく変えました。その破壊力に耐えるために甲冑の改良が施され、甲冑の試し撃ちが流行しました。
これはかつて行われていた刀の試し切りに倣ったもので、弾痕のある甲冑は試し撃ち済みを証明する「様(ためし)具足」と呼ばれました。
現在保存されている甲冑の中にも弾痕が残る「様具足」が現存しており、当時の息遣いを感じることができます。
江戸時代末期になると西洋式の戦法が採用され、それに従って甲冑の重さが銃撃戦で脚を引っ張ることになります。機敏な動きを可能にするため、鉄ではなく牛の生革をなめして漆で仕上げることで軽量ながら強度を上げた「煉具足」へと改良されていきました。
金小札紺糸褸紅縅二枚胴具足蟷螂立物(紀州徳川家伝来)
クリスティーズのオークションで日本の甲冑としては当時最高額の5000万円で落札された。
甲冑の魅力と鑑賞ポイント
甲冑の見どころ1:超個性的!日本甲冑を芸術たらしめる「立物」
日本甲冑の最も目を引く場所といえば、やはり兜ではないでしょうか。
端午の節句に飾られる「兜飾り」や、カブトムシやクワガタムシなど身近な生き物の名前にも入っていて馴染み深いパーツです。
有名なものには垂直な二本の角のような「鍬形」(クワガタムシの名前はこの立物から来ています)、伊達政宗が身につけていたとされる「三日月」などの意匠があります。
兜も時代や着る人によってデザインは様々ですが、中でも印象に残るのは戦国時代から江戸時代に大名や武将が身につけた「変わり兜」ではないでしょうか。
希少でユニークなデザインの兜を「変わり兜」と言います。そのユニークさの中心は兜に備え付けられた「立物(たてもの)」という装飾です。
立物は建物、験金(しるしがね)とも呼び、位置によって「前立」「後ろ立」「脇立」「頭立」と呼び分けられます。
鯱形兜

変わり兜には動物を模したものが多くあります。身近な強い動物への畏怖、戦に有利に見える特徴、家紋や信仰など様々な理由でモチーフに選ばれてきました。
この鯱(しゃちほこ)は虎の頭と魚の体を持つ想像上の生き物で、火伏せの力を持つことから名古屋城を始めとする歴史的建造物に模られてきました。この兜には転じて災難除けのモチーフとして用いられています。
三宝荒神形張懸兜(伝・上杉謙信所用)

兜の上に荒神を模した仮面が載った、おどろおどろしい兜です。荒神とは三面六臂の気性の荒い仏で、三面それぞれが朱、黒、青の漆塗りで表現されています。
仮面の部分は「張懸(はりかけ)」といい、取り外しが可能です。
銀箔押一の谷形兜(黒田長政所用)
一見して何を象ったものか分かりますか?
これは源平合戦が行われた「一の谷」を表したもので、昔の戦にあやかって戦勝を願うものだと考えられています。
この兜を所有していた黒田長政は、もともと福島正則が愛用していたものを自分の兜と交換してもらい入手したというエピソードが知られています。
甲冑の見どころ2:甲冑を彩る「小具足」メンバー
具足といえば中世以降の日本甲冑の呼び方ですが、一言で具足と言っても実際には色々なパーツが組み合わさって一つの甲冑になっています。
甲冑の大部分を占める兜、鎧、袖以外のパーツを小具足(こぐそく)と言います。
小具足の中には身を守るために着用するものから、刀や軍配のように持ち歩くものまで様々です。
完成品としての甲冑を分解して、構成するパーツひとつひとつに注目してみると全体像からは見えなかった魅力に気づくことができるかもしれません。
面頬
顔を守るために身につけるマスクの様なパーツを「面頬(めんぽお)」といいます。
古くはなんと涎懸(よだれかけ)と呼ばれていた様です。
よだれではありませんが、実際の面頬の先端には汗を抜くための孔が開いていました。
鼻から下を覆う「頬当(ほおあて)」という形式と、額を守る「額当(ひたいあて)」という二種類があり、下の部分は喉を守るために身につける「咽喉輪(のどわ)」に繋がる垂れが備え付けられています。
旗指物
実際の合戦では、誰が味方で誰が敵か見分けることが難しい場面がほとんどでした。そのために当時の人は味方を敵と区別するために様々な工夫をしてきました。
そのひとつが「旗指物(はたさしもの)」です。
甲冑の背中に、所属を表す紋や飾りを施した旗を指して目印としたのです。
安土桃山時代に主流だった集団戦では、より装飾性を増して「変わり指物」と呼ばれるものも用いられました。
また、同じ時期に「母衣(ほろ)」と呼ばれる装備も見られました。母衣とは竹で出来た骨組みに布を被せた、風を受けて膨らむパラシュートのような装備です。母衣を身につけた兵士は伝令を務める者が多く、敵に背を向けて自陣に戻る必要がありました。そこで、色で味方であることを示すだけではなく、死角となる後方からの石礫や矢を防ぐ役割も持っていたと考えられています。
知名度に大して実は母衣の歴史は古く、平安時代から存在し「武士の七つ道具」に数えられるほど重要な装備とされていました。
甲冑の見どころ3:「絵画」と見比べる
現代において武器としての役目を終えた甲冑は、芸術的価値を認められ芸術品として鑑賞されています。
しかし、作られてから今に至るまで芸術作品であった甲冑が存在します。
それが「絵画に描かれた甲冑」です。
将軍の肖像画や合戦絵には、当時の装いを写したり、後世になって再現して描かれた甲冑が描かれています。
少なくとも、実物に次ぐ貴重な資料であることには変わりありません。
「着られた甲冑」と「描かれた甲冑」を見比べることで、甲冑のリアルな姿から作者の意図までが分かります。
『本多忠勝肖像』

徳川四天王の一人、本多忠勝の姿を描いた肖像画。黒一色の甲冑と、立派な鹿角の兜が目を惹きます。
当時の当世具足には本来、大袖は付きませんが威厳を持たせるためか描き加えられています。
まとめ
いかがだったでしょうか。
現代を生きる私たちには縁遠いもののはずであった甲冑が、身近な芸術作品に変わって見えたのではないでしょうか。
甲冑は武器としての役割を果たすための「用の美」と、威厳や美しさを求める造形や絵柄の美しさを兼ね備えた稀有なジャンルといえます。
あなたが次に目にする甲冑が、今までと違って見えたら幸いです。
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