【徹底解説】ハン・ファン・メーヘレンとは?フェルメールの贋作で専門家を欺いた画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】ハン・ファン・メーヘレンとは?フェルメールの贋作で専門家を欺いた画家の人生と作品を解説!

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはハン・ファン・メーヘレンという人物をご存知ですか?

ハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren)は、1889年にオランダのデーフェンテルで生まれた画家です。17世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメールの作品と偽った絵を描き、当時の第一級の専門家や美術館に本物と信じさせた、20世紀を代表する贋作者として知られています。

彼が描いた『The Supper at Emmaus』は、ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館が「フェルメールの発見」として迎え入れました。ところが、それはメーヘレン自身が1930年代に描いた絵でした。真相が明らかになったのは、第二次世界大戦が終わった1945年のことです。

メーヘレンとはどんな人物で、なぜ専門家たちは彼の絵を見抜けなかったのでしょうか。本記事ではそんなハン・ファン・メーヘレンの人生と作品についてご紹介します。なお、本記事で紹介するフェルメール風・ハルス風・テル・ボルフ風の作品は、いずれもメーヘレンが描いた贋作であり、フェルメールやハルスの真作ではありません。

ハン・ファン・メーヘレンって?

法廷の木製の席に座り、片手をあごに添えて前を見るハン・ファン・メーヘレン。後ろの壁には絵画が掛けられ、制服姿の男性たちが並んでいる白黒写真
アムステルダムの法廷に座るハン・ファン・メーヘレン(1947年10月29日、撮影:ブラム・ウィスマン/Anefo)オランダ国立公文書館/出典:Wikimedia Commons(CC0)

基本情報

本名ヘンリクス・アントニウス・ファン・メーヘレン(Henricus Antonius van Meegeren)。通称ハン(Han)
生年月日(没年月日)1889年10月10日〜1947年12月30日
国籍・出身オランダ/オーファーアイセル州デーフェンテル生まれ。アムステルダムで死去
学歴デーフェンテルの高等市民学校(HBS)で絵を学んだのち、デルフトの工科大学で建築を学ぶ
分野絵画、素描、贋作
傾向伝統的な具象画。自作のほか、フェルメール、フランス・ハルス、ヘラルト・テル・ボルフ、ピーテル・デ・ホーホらの作風をまねた贋作を描いた
師事した人物・影響を受けた人物HBSの図画教師バルト・コルテリング(1853〜1930)

メーヘレンが偽った画家や、同じ時代の美術については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

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経歴と作品

画家を志した少年時代(1889年〜1913年)

ハン・ファン・メーヘレンは1889年10月10日、オランダ東部の町デーフェンテルで生まれました。父は教師でした。オランダの研究機関ホイヘンス研究所が公開する『オランダ人名辞典(BWN)』は、メーヘレンが早くから素描と絵画に大きな才能を見せていたと書いています。

大きな影響を与えたのは、高等市民学校(HBS)の図画教師だったバルト・コルテリングでした。メーヘレンはその後、デルフトの工科大学で建築を学び始めます。BWNによれば、建築の道を選んだことにも、この素描の才能が関わっていた可能性があるといいます。

けれども建築の勉強は長く続きませんでした。コンクールに出した素描の一つが賞を受けたことに励まされ、1913年、メーヘレンは画家としてハーグに住むことを決めます。

ハーグで認められた画家(1913年〜1932年)

ハーグのアトリエで、スーツ姿のメーヘレンが立ち、その左に女性を描いた大きな縦長の絵が置かれている新聞掲載の白黒写真
ハーグのアトリエに立つハン・ファン・メーヘレン(1928年4月20日付『ハーグ新聞』掲載、撮影者不詳)オランダ王立図書館 Delpher/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

1917年、メーヘレンはハーグで初めての個展を開きました。BWNによれば、批評家たちはこの展示を好意的に迎えたものの、作風がハーグ派の印象主義にとても伝統的に沿っていることも指摘しました。1920年代の初めには聖書の場面を描いた連作を手がけ、象徴主義からも強い影響を受けていたことが分かります。

メーヘレンは1919年から、ハーグの芸術家の団体「ハーグ芸術サークル(Haagsche Kunstkring)」の会員でした。素描のいくつかは大量に複製されて版画集として売られ、広く親しまれます。なかでも、子鹿を描いた『Hertje(子鹿)』(1921年)や『Straatzangers(街の歌い手たち)』(1928年)は、1930年代から40年代にかけて、オランダの多くの家庭の居間に飾られていたとBWNは書いています。肖像画の注文も多く、ハーグの画家として、かなりの成功を収めていました。

その一方で、この時期にはすでに贋作の試みが始まっていました。BWNによると、1923年、メーヘレンは人気が高まっていたフランス・ハルスの肖像画をまねた絵を2点描き、古い署名をまねて本物らしく見せました。1点はある鑑定家の手に渡りましたが、もう1点は調べられた結果、現代の絵具や20世紀の釘が見つかり、本物ではないと分かります。このときメーヘレンの名前は表に出ませんでした。

1928年から1930年にかけて、メーヘレンは月刊誌『De Kemphaan』に美術評論を書きました。そこでは昔の伝統的な具象画を擁護し、「モダン」な美術を好む当時の批評家たちを激しく批判しています。1932年にはハーグ芸術サークルで伝統派と近代派の対立から争いが起こり、メーヘレンは会を退いて、妻とともに南フランスへ移りました。

南フランスでの「練習」(1932年〜1936年)

メーヘレンがオランダを離れたのと同じ1932年10月、フェルメールの作風で描かれた1枚の絵『Dame en heer aan spinet(スピネットの前の婦人と紳士)』が美術市場に現れました。BWNによれば、この絵は画商を通じて個人の手に渡り、贋作と判定されたのは1951年以降のことです。メーヘレンが描いた可能性はきわめて高いとされています。重要なのは、ハーグの鑑定家アブラハム・ブレディウスが、1932年にこの「フェルメール」の発見を熱烈に歓迎していたことでした。このブレディウスが、のちに『The Supper at Emmaus』の鑑定にも関わることになります。

BWNによれば、南フランスのアトリエで、メーヘレンはまず3人の古い巨匠の作風で練習を重ねました。描いたのはフェルメール風を2点、ハルス風を1点、テル・ボルフ風を1点です。これらは、模写のような出来が見え透いていると考えたためか、売らずに手元に置いていました。

現在、アムステルダム国立美術館(ライクスミュージアム)は、フェルメール風の2点、ハルス風の1点、テル・ボルフ風の1点を、メーヘレンの作品として所蔵しています。所蔵館の記録では、いずれも制作年は1930年代とされています。

ハン・ファン・メーヘレンの歩みを5段階で示した図。1913年にハーグで画家になり、1932年に南フランスへ移り、1937年に贋作『The Supper at Emmaus』を描き、1945年に贋作を告白し、1947年に判決を受けるまでを並べている。
図:ハン・ファン・メーヘレンの歩み

『Woman Reading Sheet Music』(1935〜1940年)

左の窓から光が差し込む室内で、青い上着の女性がテーブルに向かい、楽譜の紙を見つめている。背後の壁には大きな絵が掛かっている
ハン・ファン・メーヘレン『Woman Reading Sheet Music』(1935〜1940年)、フェルメールの作風をまねた贋作、油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(CC0)

青い上着の女性が、楽譜の書かれた紙をじっと見つめています。所蔵するアムステルダム国立美術館は、左の窓から差し込む光が紙の上に落ちる効果は、17世紀のフェルメールの絵によく見られるものだと解説しています。椅子や真珠、上着も、フェルメールがたびたび描いたモチーフです。

館はこの絵の解説を「フェルメールはこの『楽譜を読む女』も描いたのでしょうか?」という問いで結んでいます。答えは、描いていません。描いたのはメーヘレンです。フェルメールの絵によく出てくる要素を一つの画面に集めることで、「いかにもフェルメールらしい」絵に見せる。メーヘレンの贋作の基本的な考え方が、この練習作によく表れています。

『Cisterspelende vrouw』(1930〜1940年)

白い頭巾と青いスカートの女性が椅子に座り、弦楽器のシターンを弾いている。左に窓、右に果物の皿をのせた小さなテーブル、壁に鏡が掛かる
ハン・ファン・メーヘレン『Cisterspelende vrouw』(1930〜1940年)、フェルメールの作風をまねた贋作、油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(CC0)

題名は「シターン(リュートに似た弦楽器)を弾く女」という意味です。所蔵館の記録によれば、座ってシターンを弾く女性の姿が、後ろの壁の鏡に映り込んでいます。左には窓、右には果物の皿をのせた小さなテーブルがあり、「フェルメールの作風で描かれた」と記されています。

画像で見ると、画面の縁には絵具の割れや欠けが目立ちます。BWNは、メーヘレンがこうした練習作を、模写のような出来が見え透いていると考えたためか、手元に置いていたと書いています。

『Malle Babbe』(1930〜1940年)

白い頭巾と大きな襟の老女が、口を開けて笑いながら、片手に持った金属の取っ手つきの水差しを口元へ運んでいる
ハン・ファン・メーヘレン『Malle Babbe』(1930〜1940年)、フランス・ハルスの作風をまねた贋作、油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

こちらは、17世紀のハールレムで活躍した肖像画家フランス・ハルスの作風をまねた1点です。所蔵館の記録では、笑う老女が水差しを口元へ運ぶ姿を「フランス・ハルスの作風で描いた」と説明しています。ハルスの作品は1923年の贋作でもまねた対象で、メーヘレンが繰り返し取り組んだ画家の一人でした。

アムステルダム国立美術館は、この絵とあわせて、関連する書類や写真、断片を収めた資料の一式も所蔵しています。贋作は、それがどう作られ、どう見抜かれたかという記録とともに、美術史の資料として残されているのです。

『Portret van een man』(1930〜1940年)

暗い背景の前で、つばの広い黒い帽子と黒い服、白い襟の男性が、右を向いた胸像として描かれている小さな肖像画
ハン・ファン・メーヘレン『Portret van een man』(1930〜1940年)、ヘラルト・テル・ボルフの作風をまねた贋作、油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

題名は「男の肖像」という意味です。大きな黒い帽子をかぶった男性の胸像で、所蔵館の記録では、17世紀の画家ヘラルト・テル・ボルフの作風で描かれたとされています。縦28センチ、横23センチの小さな絵です。

フェルメール2点、ハルス1点、テル・ボルフ1点という組み合わせは、BWNが書く「南フランスでの練習」とそのまま重なります。メーヘレンは一人の画家だけでなく、17世紀オランダ絵画の複数の作風を研究していたことが分かります。

「天才贋作者」としての成功(1936年〜1943年)

練習を重ねたメーヘレンは、いよいよ「新しく見つかったフェルメール」を世に出します。それが『The Supper at Emmaus』です。

『The Supper at Emmaus』(1937年)

白い布をかけた食卓を4人が囲む場面。中央の青い衣の人物がパンを前に目を伏せ、左右の男性と後ろの女性がそれを見守っている
ハン・ファン・メーヘレン『The Supper at Emmaus』(1937年)、フェルメール作と偽って売られた贋作、油彩・カンヴァス、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

復活したキリストが、エマオの村で弟子たちと食卓を囲み、パンを裂く場面を描いた絵です。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館によれば、縦118センチ、横130.5センチの油彩で、メーヘレンは絵をフェルメールらしく見せるために17世紀のカンヴァスを使いました。画面の左上には、かすかに「IVMeer」という署名が入っています。

BWNは、この絵の作り方をくわしく記しています。メーヘレンは塗り重ねられる古いカンヴァスを買い、17世紀にすでに知られていた材料で絵具を一つひとつ調合しました。そして、当時の最新の知識にもとづいて合成樹脂を絵具の結合剤に使い、古い絵に特有のひび割れ(クラクリュール)を本物そっくりに再現したといいます。

題材の選び方にも狙いがありました。メーヘレンは、イタリアの画家カラヴァッジョの『エマオの晩餐』を下敷きに、フェルメールの作品としては知られていなかった主題をあえて選びます。BWNによれば、様式や構図、色彩はフェルメールの作品として知られていたわずかな聖書・古典の群像画(とくにエディンバラの『マルタとマリアの家のキリスト』)と重なり、1930年代に多くの専門家が17世紀オランダ絵画に抱いていたイメージにも合っていました。BWNはこれを、メーヘレンは当時の人々がいわば待ち望んでいた「フェルメール」を差し出したのだ、と表現しています。

絵は、ハーグの著名な鑑定家アブラハム・ブレディウスのもとに持ち込まれ、ブレディウスはこれをフェルメールの真作と認めました。「世紀の発見」とされたこの絵は、ロッテルダムの支援者たちの資金で、ボイマンス美術館(現在のボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館)が購入します。1938年には、この絵を中心に据えた大展覧会「四世紀の名品」が同館で開かれ、大きな注目を集めました。疑問の声を上げたのは、歴史家ヨハン・ホイジンガなど、ごくわずかだったといいます。

なお、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館は制作年を1937年としていますが、BWNは1936年に描かれたと書いています。本記事の見出しは所蔵館の記録に合わせました。

『De voetwassing』(1935〜1943年)

青い衣のキリストが右に座り、手前で女性がその足もとに身をかがめている。後ろには弟子たちが並び、食卓にはパンと水差しが置かれている
ハン・ファン・メーヘレン『De voetwassing』(1935〜1943年)、フェルメールの作風をまねた贋作、油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『The Supper at Emmaus』の成功に勢いを得て、メーヘレンはその後も贋作を描き続けました。BWNによれば、ニース(1938〜1939年)と、1939年の秋にオランダへ戻ってから住んだラーレンで、少なくとも6点の「フェルメール」と2点の「デ・ホーホ」を描き、美術商を通じて高値で売りました。BWNは、これらによってメーヘレンが600万ギルダー近くを得たとみています。

『De voetwassing』は、そのうちの1点です。アムステルダム国立美術館の記録では、マリアがキリストの足に香油を塗る場面を、フェルメールの作風で描いた絵とされ、左上には偽の署名「IVMeer」があります。来歴の記録によれば、この絵は1943年に美術商を経てオランダ国に買い上げられました。BWNは、オランダの古い文化財が国外へ流出するのを防ぐため、専門家の強い勧めで急いで購入されたと書いています。つまり、国そのものがメーヘレンの贋作を「守るべき名品」として買ったのです。

この時期、メーヘレンは自分自身の名前での発表も続けていました。1941年の末から1942年の初めにかけて、ラーレンとハーグで自作の素描展を開き、1942年には画集『Teekeningen I(素描集 第1巻)』を出版しています。1943年にはアムステルダムへ移り、運河沿いのケイゼルスグラハトに大きな邸宅を買いました。

同じ1943年には、別の「フェルメール」が仲介者を通じて、ナチス・ドイツの高官ヘルマン・ゲーリングに売られました。この売却が、のちにすべての真相を明るみに出すきっかけになります。

専門家はなぜ見抜けなかったのか

ここで、メーヘレンの贋作がなぜ長く本物として通用したのかを整理しておきます。BWNと所蔵館の説明からは、大きく分けて3つの理由が読み取れます。

メーヘレンの贋作が本物として通用した3つの理由を示した図。17世紀のカンヴァスと当時の材料を使ったこと、合成樹脂で古い絵のひび割れを再現したこと、フェルメールの知られていない主題を選んだことを番号つきで並べている。
図:贋作が見抜かれなかった3つの理由

1つ目は材料です。メーヘレンは17世紀のカンヴァスを使い、17世紀にすでに知られていた材料で絵具を調合しました。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館も、『The Supper at Emmaus』に17世紀のカンヴァスが使われていることを公式サイトで説明しています。

2つ目は、時間の経過の偽装です。BWNによれば、メーヘレンは合成樹脂を結合剤に使い、古い絵に特有のひび割れ(クラクリュール)を本物そっくりに再現しました。BWNは、1923年の失敗で学んだ経験が、こうしたほぼ技術的に完璧なやり方につながったとみています。

3つ目は主題の選び方です。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館は、公式サイトの質問への回答で、メーヘレンは既存のフェルメールを模写したのではなく、フェルメールの組み合わせ方や技法を自分なりに解釈して「自分のフェルメール」を想像したと説明しています。そして、フェルメールの初期と後期の作品のあいだの、あまり作品が残っていない部分を埋めるような絵を作ったといいます。BWNも、フェルメールの作品としては知られていなかった主題を選んだことを指摘しています。

さらにBWNは、最初の成功が次の成功を呼んだことも指摘しています。のちの「フェルメール」は、どれも『The Supper at Emmaus』ほどの出来ではありませんでした。それでも、題材や雰囲気が互いに似ていたため、1点が本物と認められると、ほかの作品の「本物らしさ」も互いに支え合う形になったのです。

真相の発覚と裁判(1945年〜1947年)

1945年5月29日、メーヘレンは逮捕されます。BWNによれば、容疑は、ゲーリングへの売却によってオランダの文化財を敵に渡したというものでした。取り調べが続くなか、1945年7月、メーヘレンは自分が大規模な贋作者であったことを告白します。ゲーリングに渡った絵だけでなく、『The Supper at Emmaus』をはじめとする「フェルメール」は、すべて自分が描いたものだというのです。

『Christus temidden van de schriftgeleerden』を描くメーヘレン(1945年)

アトリエで、白髪のメーヘレンがパレットを手に、本を開いた若いキリストと学者たちを描いた大きなカンヴァスに筆を入れている白黒写真
贋作の告白を裏づけるため、フェルメール風の『Christus temidden van de schriftgeleerden』を描くハン・ファン・メーヘレン(1945年10月、撮影:コース・ラウカンプに帰属/Anefo)アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(CC0)

告白を信じてもらうため、メーヘレンは自分の手で新しい「フェルメール風」の絵を描いてみせることを申し出ました。アムステルダム国立美術館が所蔵するこの報道写真の裏書きには、17世紀のカンヴァス、特別な筆、珍しい絵具が用意され、複数の証人の立ち会いのもとで制作が行われたと記されています。

描かれたのは、神殿で学者たちに囲まれて教える若いキリストの姿です。題名は「律法学者たちの中のキリスト」という意味です。BWNによれば、メーヘレンはこの絵を勾留中に自ら進んで描きました。かつて専門家たちを欺いた手が、今度は自分の罪を証明するために使われたのです。

メーヘレンは1945年の秋にいったん釈放され、裁判を待つことになりました。専門家による調査委員会がつくられ、贋作は科学的に調べられます。そして1947年10月29日、アムステルダムの裁判所で公判が開かれました。

アムステルダムの法廷を上から見た白黒写真。正面に裁判官席があり、両側の壁にはメーヘレンが描いた絵画が何点も掛けられ、多くの人が席についている
メーヘレンの裁判の法廷。壁には証拠となった絵が並ぶ(1947年10月29日、撮影:ハリー・サーヘルス/Anefo)オランダ国立公文書館/出典:Wikimedia Commons(CC0)

法廷の壁には、証拠となった絵画が掛けられました。BWNによれば、鑑定人として出廷したベルギーの研究者ポール・コレマンスが、化学分析とX線による調査の結果を説明し、メーヘレンの告白を裏づけました。ニースのアトリエからは、戦前の練習作や、絵の材料の残り(『The Supper at Emmaus』に使った古いカンヴァスの一部を含む)も見つかっていました。

コレマンスはその後、1949年に調査の結果を『Van Meegeren’s faked Vermeers and De Hooghs. A scientific examination』という本にまとめています。BWNの参考文献には、この本のほか、裁判での自然科学的な立証を扱った1949年の論文も挙げられています。

1947年11月12日、メーヘレンは贋作と詐欺の罪で禁錮1年の判決を受けました。そして同じ年の12月30日、アムステルダムで亡くなりました。58歳でした。

「ゲーリングを騙した男」という物語と、その後

告白のあと、メーヘレンは自分を「専門家の思い上がりと美術の流行を暴こうとした、認められない画家」として語りました。BWNによれば、この説明は多くの人に受け入れられ、ゲーリングへの売却さえ一種の英雄的な行いのように語られるようになります。1947年には、アメリカの新聞に「ゲーリングを騙した男」という見出しの記事が載りました。

けれどもBWNは、この物語では見過ごされていたことがあると指摘しています。メーヘレンが贋作によって莫大なお金を得ていたこと、そして、まだ「認められない画家」とは言えなかった1923年の時点で、すでに贋作に手を染めていたことです。メーヘレン自身が語った「美術界への挑戦」という物語は、こうした事実と並べて読む必要があります。

裁判のあとにも、騒動は続きました。BWNによると、「フェルメール」を買った一人であるロッテルダムのコレクター、D.G.ファン・ベーニンゲンは、自分の絵と『The Supper at Emmaus』を本物だとするベルギーの鑑定家の意見を得て、1951年にコレマンスを訴えます。しかし1955年、裁判はコレマンスの完全な名誉回復で決着しました。それ以降、『The Supper at Emmaus』を本物のフェルメールだと主張する人は、ほとんどいなくなったといいます。

BWNによれば、贋作の多くは収蔵庫にしまわれました。破産したメーヘレンの財産の整理では、残った資産の多くが、贋作の購入者であり、没収されたゲーリングの財産の管理者でもあったオランダ国のものになりました。また、1979年にまとめられたM.H.ファン・デン・ブランドホフの博士論文には、460点の記録のある作品の一覧が載っているといいます。贋作者として名を残したメーヘレンですが、自分の名前で描いた作品も数多く残しているのです。

現在、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館は『The Supper at Emmaus』を含むメーヘレンの絵画4点を所蔵しています。同館は公式サイトで、この絵は「贋作」として始まったものの、美術館の歴史にとって大切な物語をもつ作品であり、来館者に人気のある一点だと答えています。

年できごと
1889年10月10日、デーフェンテルに生まれる
1913年建築の勉強をやめ、画家としてハーグに住む
1917年ハーグで初めての個展
1921年素描『Hertje』。複製が広く親しまれる
1923年ハルス風の贋作2点(BWNによる)
1932年ハーグ芸術サークルを退き、南フランスへ移る
1937年『The Supper at Emmaus』(所蔵館の記録。BWNは1936年とする)
1938年ボイマンス美術館で展覧会「四世紀の名品」
1943年『De voetwassing』がオランダ国に買い上げられる。別の「フェルメール」がゲーリングに売られる
1945年5月29日に逮捕。7月に贋作を告白し、証人の前で新たな絵を描く
1947年10月29日に公判。11月12日に禁錮1年の判決。12月30日、アムステルダムで死去

まとめ

いかがだったでしょうか。ハン・ファン・メーヘレンの人生と作品について、ご紹介してきました。

メーヘレンは1889年にデーフェンテルで生まれ、ハーグで伝統的な具象画家として一定の成功を収めました。その一方で、1923年にはすでにハルス風の贋作を試み、南フランスではフェルメール、ハルス、テル・ボルフの作風で練習を重ねます。そして1930年代の『The Supper at Emmaus』で、第一級の鑑定家と美術館に「フェルメールの発見」を信じさせました。

彼の贋作が通用したのは、技術が巧みだったからだけではありません。17世紀のカンヴァスや古い材料を使い、合成樹脂で古い絵のひび割れを再現する一方で、当時の専門家たちが17世紀オランダ絵画に抱いていたイメージに合わせて絵を作ったからでした。1945年の告白と1947年の裁判で真相が明らかになると、贋作は科学的な調査の記録とともに、美術史の資料として美術館に残されることになります。

アムステルダム国立美術館やボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の記録を読むと、贋作が「何を本物らしいと感じるか」という見る側の目を映す鏡でもあることに気づかされます。機会があれば、ぜひ本物のフェルメールとあわせて、メーヘレンの絵の記録にも目を通してみてください。

Euphoric " " の視点

メーヘレンの贋作が第一級の専門家を欺いたのは、筆の巧みさだけによるものではありませんでした。17世紀のカンヴァスと古い材料に加え、当時の専門家たちが思い描いていたフェルメール像に合わせて絵をつくったことが、その本物らしさを支えていました。

いま贋作は、どう作られ、どう見抜かれたかという記録とともに、アムステルダム国立美術館やボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館に残されています。偽物の歴史をたどることは、私たちが何を本物と感じているのかを見つめ直す、確かな手がかりになります。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで所蔵されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の作品は、収蔵庫(デポ)で公開されることがありますが、常に見られるとは限らないと同館は案内しています。

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