こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはアルフレッド・シスレーという人物を知っていますか?
フランスの代表的な印象派画家で、生涯の作品のうちをフランスの風景画が占めています。ゴッホやモディリアーニに並び、生前は大きな成功を収める事ができなかったものの、没後に作品が注目を浴び、現代では高い評価を受けている画家の一人です。
本記事ではそんなシスレーの生涯と作品についてご紹介します。
目次
アルフレッド・シスレーとは?
基本情報
本名 | アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley) |
生年月日 | 1839年10月30日-1899年12月9日(59歳) |
出身 | フランス パリ |
分野 | 絵画(油彩画) |
傾向・運動 | 印象派 |
師事した人物 | シャルル・グレール |
シスレーの活動の中で最も特徴的なのは、フランスでアトリエに所属して以降、一貫して印象主義を貫いたことにあります。
同年代の画家がサロンの評価への反抗や芸術運動の影響を強く受けている中、シスレーは成功のために表現方法を曲げたり、不安から画風を変えようとした様子は見られないのです。
ひとつの表現に注力した、まさに人生を捧げた作品という点が、時代を超えて評価される理由かもしれません。
印象派って何?
印象派とは、19世紀のフランスで発祥した芸術運動です。
戸外で描かれた風景画のうち、ぼんやりとした筆致で光と時間の変化をとらえたものを指すことが多く、クロード・モネの『印象・日の出』を批評家ルイ・ルロワが皮肉って用いた言葉が由来と言われています。
当時のサロンでは古代ローマ美術を手本とした歴史的なモチーフが高く評価されており、それ以外の日常的なモチーフは低俗なものとされていました。
そんなサロンの評価基準に反抗して、モネの『印象・日の出』を皮切りに次々と風景画を制作する画家が続出し、今ではフランスの風景画を代表する技法として評価されています。
経歴と作品
シスレーの生まれと環境
アルフレッド・シスレーは1839年10月30日、パリで造花の輸出販売を営む裕福な家庭に生まれました。
当時のヨーロッパは、古典派とロマン派の対立や、ギュスターヴ・クールべの写実主義が物議を醸すなど芸術界において大きな芸術運動が見られた時期でもあり、シスレーはその影響もあってか、18歳になる頃には芸術に強い関心を抱いていたようです。
イギリス生まれであった両親は語学と経営の勉強のために、18歳のシスレーにロンドンへの滞在を勧めます。
1857年、4年に渡るロンドン滞在をスタートさせたシスレーは、勉強のあいまに美術館にたびたび赴き、ウィリアム・ターナー、ジョン・カンスタブル、リチャード・パークス・ボニントンなどの作品を特に気に入っていたようです。
経営勉強のためのはずが、むしろ芸術への関心を強める結果となったロンドン滞在。1862年にフランスに帰ったシスレーに、経営をする気がないことを認めた両親は、絵の講習を受けることを勧めます。再びフランスに渡り、グレールのアトリエで絵の勉強をはじめたシスレーは、この場所でオーギュスト・ルノワール、クロード・モネ、フレデリック・バジールらと知り合うことになります。
画家としてのスタート
アトリエの指導者シャルル・グレールは新古典主義の歴史画家で、つまりは当時の絵画において最も高尚なジャンルで成功した人物と言えます。
当然アトリエでも、学問的で秩序を重んじる指導をしており、衝動的・直感的な制作は厳しい制限をもうけていました。
シスレーたちは彼のアトリエで学びつつも、そのような規律に気詰まりを感じていたようで、たびたび戸外制作に出かけ、パリ近郊の風景をモチーフにスケッチや絵画を描いていました。
自然への愛
『ラ・セル=サン・クルーの栗の並木道(1867)』
出典:Avenue of Chestnut Trees near La Celle Saint Cloud,wikiart,https://www.wikiart.org/
シスレーが生涯に残した900以上の作品のうち、ほとんどを風景画が占めるほど風景画に熱中していました。
それ以外の静物画や人物画などは、全て合わせても20点にも満たないと言われています。
青年期に魅了されたターナーやコンスタブルの影響か、アトリエの仲間と共に行った戸外制作の影響か、一貫して自然の中に身を置き、制作をしていました。
印象派をはじめとする風景をモチーフとした作品の制作は、かつては難しいものでした。
というのも、昔は画材も重くかさばり、ロケーション探しに出かけるのにも一苦労だったのです。
しかし、写真の発明と、金属製チューブ入りの絵の具が開発されたことで、風景画の制作が簡単になったのです。それまではアトリエで、人物や神話をモチーフに描く事が当たり前でした。
身近な自然をモチーフにした作品の人気が下火だったのには、このような技術的な側面もあるのです。
印象派を支えた化学
また、光の変化を追いかける印象派の技法の進歩は、光学や色彩の研究の進歩と共にありました。
とりわけフランスの化学者シュブルールによる色彩調和の研究は、近代色彩学の基盤にもなった革新的なもので、多くの画家が制作に取り入れました。
他にもドイツの物理学者ヘルムホルツによる色覚の三原色説、アメリカの自然学者ルードによる色彩調和など、これまで画家たちが直感的に感じていた色彩感覚が体系的に示されたことは、特にアトリエなどで絵を教える立場のものにとって大きな助けとなりました。
実際にこの頃から、画材の扱い方や戸外制作にあたっての指南書を出版する画家が多くいました。
一時の成功と、出会い
『マルロットの村の道、森へ行く女たち(1866)』
出典:Street of Marlotte (also known as Women Going to the Woods),wikiart,https://www.wikiart.org/
1866年、シスレーの制作した2枚の風景画『マルロットの村の道』がサロンに入選。
同じ年にパリの女性と結婚し、後に2人の子どもをもうけています。この頃のシスレーはアトリエで知り合ったルノワールらに加えて、カミーユ・ピサロと交流を深めます。
風景画の革新
『サン=マルタン運河の平底船(1870)』
出典:Barges on the Canal Saint Martin in Paris,wikiart,https://www.wikiart.org/
こうした、様々な人との交流が実を結んだのか1870年になるとシスレーの制作は軌道に乗り始めます。
サン・マルタン運河を描いた2枚の風景画がサロンに入選するのですが、この作品は当時の風景画としては革新的な技法がいくつか見られ、後年発展する印象派の息吹きを見る事ができます。
例えば運河というモチーフの選定は当時は斬新なもので、画面の大部分を水が占める大胆な構図でありながら、水面が反射する光に細かな変化を描くことでバランスを取っています。
また、このような光の変化を繊細に描く事ができるのは戸外制作の強みで、印象派の特徴とまさしく一致するのです。
最も純粋な印象派
『モレの眺め(1880)』
出典:View of Moret,wikiart,https://www.wikiart.org/
一方で、アトリエで知り合った友人たちは、印象派を起点としながらも独自の技法を追求していきました。
ルノワールは1880年以降、新古典主義や写実主義に影響されあっさりと印象派の技法を抜けており、ルノワールはポスト印象派と位置付ける意見も多く見られます。
戸外政策を共にしたポール・セザンヌもルノワールと同年にグループを抜け、印象派展にも第四回からは参加していません。
モネとピサロだけが印象派としての活動を続けていましたが、ピサロはイタリアで興った分割主義を取り入れることで印象派の発展を推し進める実験を試み、モネは色彩のこだわりから印象派の特徴である日常的なモチーフから離れ、一種の抽象芸術の域に踏み込んでいました。
このことから、シスレーだけが最も純粋な印象主義に忠実にあり続けたと言えます。
衰退のとき
『夕日に映えるモレの橋(1892)』
出典:The Bridge at Moret at Sunset,wikiart,https://www.wikiart.org/
1871年、普仏戦争で敗北したフランスの情勢は非常に不安定なものになります。
その煽りを受けてか、シスレーの父が営んでいた造花の輸送販売が立ち行かなくなり店を畳むことになります。さらに程なくして亡くなり、シスレーは父を失ったばかりでなく財政的な援助も受けられなくなるのです。
妻子をもつシスレーはより一層制作活動に精を出し、サロンへの入選が途絶えていたこともあり1874年から印象派グループに所属し協力することになります。
1871年以降、貧困との戦いに疲弊したシスレーは、すっかり気難しい性格へ変わってしまいました。
目立った評価が得られない中でも、デュラン=リュエルに絵を購入してもらったり、ジョルジュ・シャルパンティエによって開催されたコレクション展に展示されることもありました。
しかしそれらの功績は財政的に困窮したシスレーの生活を一変させるに至らず、時に借金をすることもあったようです。
それでもシスレーは制作と美術展への出品を止めることはありませんでした。
1890年には新国民美術協会の準会員になりますが、ほぼ毎年の出品にも関わらず目立った評価を受けることも、購入者がつくこともありませんでした。1867年には全146点の油絵とパステル画を集めて非常に大掛かりな回顧展を開きますが、ほとんど話題になることはありませんでした。
晩年
シスレーの妻が1898年に亡くなり、シスレー自身も喉頭癌との闘病に苦しんでいました。
晩年は医師に「私にはもはや戦う気力がありません、親しい友よ、自分の持てる力を使い果たしました・・・」と手紙を送るほどに意気消沈していたシスレーは、妻が亡くなった翌年、1899年1月29日に喉頭癌のため亡くなりました。
遅すぎた成功
『ポール=マルリーの洪水(1876)』
出典:Flood at Port Marly,wikiart,https://www.wikiart.org/
1899年2月、ベルナン・ジュヌ画廊で、シスレーの未発表の新作14点が展示されます。
3月にはパトロンであるデュラン=リュエルが28点の作品をニューヨークで展示、民衆に徐々にシスレーの名前が知られていくことになります。
そして5月1日。遺児となったシスレーの子ども2人のために、パリの美術品競売場オテル・ドルオにて27点の作品が競売にかけられた結果、総額11万2320フランの値がつく結果になりました。
最後に、1900年3月6日、1876年の作品『ポール=マルリーの洪水』が当時としては破格の4万3000フランの値段で買い取られました。
生涯、シスレーが得る事ができなかった名声的・経済的成功は、皮肉にも死後のたった1ヶ月後にやってきたのです。
この遅すぎた成功は、あまりに脚光を浴びる機会に恵まれなかったシスレーの人生で最も輝かしいハイライトとなりました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
裕福な家庭で生まれ育ち、芸術家という夢に打って出たシスレー。
アトリエで知り合ったルノワールやセザンヌたちが印象派を離れる中、愚直に印象主義に向き合ったシスレーは数回のサロン入選を含めても生前高く評価を受けたり、誰かに影響を与えたりすることはありませんでした。
しかしアンリ・マティスがピサロに「典型的な印象派の画家は誰か?」と聞くと、「シスレーだ」と答えた通り、現在では最も原理的で、純粋な印象主義を追求した画家として高く評価されています。
出典
レイモン・コニア著、作田清訳・解説『シスレー イール=ド=フランスの抒情詩人』作品社、2007年。