こんにちは!ユアムーン株式会社 編集部です!
突然ですが、皆さんはアメデオ・モディリアーニというアーティストを知っていますか?
20世紀初頭のパリで画家・彫刻家として活躍した人物です。
▼この記事ではアメデオ・モディリアーニの『人生』と『作品』についてご紹介します!▼
アメデオ・モディリアーニとは?
アメデオ・モディリアーニ基本情報
本名 | アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ |
国籍/出身 | イタリア |
生年月日 | 1884年7月12日〜1920年1月24日(享年35歳) |
経歴と作品
パリでの出会い
アメデオ・モディリアーニは1884年にイタリアのルヴォルノでユダヤ人の両親の元に生まれました。比較的裕福な家庭でしたが、幼少期は胸膜炎やチフスに苦しみ、まともに教育を受けられなかったそうです。
絵を描き始めたのは1898年の14歳の頃で、1906年の冬にパリへ渡るまでフローレンスやヴェネチアを転々としながら絵画の勉強を続けました。初めはイタリアのルネサンス期のシエナ派と呼ばれる優美で装飾的な絵画に感銘を受けます。シエナ派の平面的な特徴と神秘的な雰囲気は、彼の作品に大きく影響を与えていることが見て取れます。
パリに到着すると、キュビズム運動に参加したフランス人の詩人アンドレ・サルモンやマックス・ジャコブ、画家のパブロ・ピカソと運命的な出会いを果たし、彼らの前衛的で型にはまらない作風や姿勢に共感します。
モディリアーニ(左)とピカソ(右)
ピカソは『エコール・ド・パリ』のリーダー的な存在でした。エコール・ド・パリというのは、1900年から1940年までパリに集まった外国人芸術家たちの総称です。彼らは19世紀後半に主流であった印象派の運動を覆すような新しい芸術運動を生み出しました。
キュビズムやフォービズムといった、前衛的で枠に囚われない作風は新たな時代を先導しました。モディリアーニも同じくエコール・ド・パリのメンバーとして、ピカソらと切磋琢磨しながら古い伝統を乗り越えた独創的な創作活動を行っていたのです。
アフリカ彫刻が与えた影響
モディリアーニは絵画だけではなく、彫刻にも精力的に取り組みます。1909年にイタリア人の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに出会い、彼の助言をきっかけに彫刻の制作に取り組むようになります。
女の頭(1910-1911年)
ブランクーシ指導を受け、主に石灰石の頭部やカリアティード(女人像柱)を制作しました。
アフリカ彫刻の洗練された力強さや美しさに感銘を受け、物質を限定したり囲ったりする輪郭に、人間の本質を露呈させる役割を見出しました。この期間に培った技術やセンスは絵画作品にも影響を与えます。
芸術家モディリアーニの集大成
1914年の第一次世界大戦の到来は、彼の人生にとって大きな障害となります。それまで彼の作品を買い上げていた友人たちが戦いの前線に立つこととなったため、収入が激減したのです。
加えて、元々優れていない体調が貧困によって更に悪化し、アルコール中毒や薬物中毒に苦しみました。当時は彫刻家のアシスタントをしていましたが、彫刻の制作活動は過酷で、彼の肺にも悪影響を及ぼしていたため再び絵画の制作に取り組むようになりました。
新郎と新婦(1915年)
彼は主に人物を描いていましたが、友人から隣人、見知らぬ人まで誰でもモデルにしていました。1915年には画家としての絵画制作に復帰しましたが、彫刻家としての経験が彼の絵画の基盤を形成したと言えるでしょう。
例えば、彼の彫刻の特徴であった細長い輪郭や鼻、アーモンド型の細い眼や長い首が完全に彼の絵画作品に受け継がれているからです。細長いフォルムに加えて特徴的なのは、明暗のコントラストがほぼ排除されている点です。太めの輪郭で囲われた面はほぼ同じ色で塗られており、それによって、のっぺりとした非現実的な雰囲気が生み出されています。
髪をほどいた横たわる裸婦(1917年)
1917年になると、モディリアーニ の作品として代表的な裸婦像を描き始めます。力強い眼差しやどっしりとした存在感に彫刻家としての経験が現れる一方で、柔らかな輪郭や暖かい色合いから女性の造形美や豊かさが感じられます。
1917年12月には彼の作品がギャラリーで展示される予定でしたが、警察の判断によって裸婦画は排除されてしまいます。世界大戦真っ只中の世の中では、前衛的な作品は受容され難い風潮があったと思われます。
ジャンヌ・エビュテルヌの肖像(1919年)
同月から同じく画家であるジャンヌ・エビュテルヌと交際を始め、翌年に長女が生まれます。人生における変化は作品にも影響を与えました。運命の女性であるジャンヌの肖像画は、亡くなるまでの3年間で20点以上も制作されたのですが、更に洗練された輪郭と優美で上品な色彩が特徴的で、全体的に明るい印象を受けます。
愛する人と子供に囲まれた幸せな日々が伺えますね。しかし、1919年になると状況が一変します。元々煩っていた結核が彼の身体を日に日に蝕み、翌年の1月に35歳でこの世を去ってしまいます。
更に10日後には妻のジャンヌがお腹の子供と共に自殺してしまいました。残された長女のことを考えると居た堪れません。エコール・ド・パリの一員でしたが、展示会にはあまり参加していなかったので、生前は彼の作品が日の目を見ることはありませんでした。
しかし、1922年に友人のアンドレ・サルモンによって個展が開催されたことで、急速に値段が高騰しました。更に1930年に開催されたヴェネツィアでの回顧展で、ようやく20世紀を代表する画家としての本来の評価を受けることになったのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回はアメデオ・モディリアーニについてご紹介しました!
どうしても貧しくて苦しい悲劇的な人生に注目されてしまいますが、彼の独創的で壮大な作品は、20世紀を代表するうちの一つだと言えるでしょう。2022年4月9日から7月18日まで、今年2月に開館したばかりの中之島美術館で『モディリアーニ ー愛と創作に捧げた35年ー』が開催されます。
国内外で所蔵されるモディリアーニ作品を中心に、モディリアーニの芸術が誕生する軌跡を辿る内容となっています。エコール・ド・パリと総称された他の芸術家の作品も共に展示される予定です。是非この機会にモディリアーニの作品に触れてみてはいかがでしょうか。