こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはカラヴァッジョという人物をご存知ですか?
ルネサンス期以後のイタリアで活躍した画家で、バロック美術に大きな影響を与えた巨匠です。
緻密で写実的な描写と強烈な明暗技法は、バロック期を破天荒過ぎても表現様式として受け継がれていくほど影響力のある人物でした。
本記事ではカラヴァッジョの人生と作品についてご紹介します。
目次
カラヴァッジョって?
基本情報
本名 | ミケランジェロ・メリージ(Michelangelo Merisi) |
生年月日 | 1571年9月29日〜1610年7月29日(36歳没?) |
国籍/出身 | スペイン帝国 ミラノ(当時スペイン領) |
学歴 | – |
分野 | 絵画 |
傾向 | バロック美術、テネブリズム、キアロスクーロ |
師事した人 | シモーネ・ペテルツィアーノ、アルチンボルド、ダ・ヴィンチ等 |
バロック美術って?
バロック美術とは、16世紀から18世紀にかけてイタリアやオランダを中心に起こった芸術運動です。
バロックとはポルトガル語で「歪んだ真珠」を語源とする言葉で、そこから転じて「規則から外れた」「馬鹿げた」などの侮蔑的な意味を持っていました。
その意味の通り、以前のルネサンス美術で規範とされてきた、均整のとれた肉体美や理想化された人物像やストーリーを持つ作品とは大きく異なる表現様式を特徴とします。
最も大きな特徴は、強烈な明暗とリアルな描き込みによって強調された肉体描写にあります。
神話や聖書に対し敬虔で静謐なテーマを好んだルネサンス期の作品と打って変わって、激しい明暗と写実的な人物によって劇的でダイナミックな作品が多く描かれました。
また、強烈な明暗法などいくつかの特徴はルネサンス後期に発展したマニエリスムの特徴を更に強調する形で受け継がれ、研究者によってはマニエリスムとバロックを区別してはいませんでした。
経歴と作品
カラヴァッジョの生まれと環境
カラヴァッジョの人生は、生まれから最期の時まで謎を纏ったものでした。
というのも、著作もなく、メモもなく、手紙も素描も残されていないカラヴァッジョがどのような人物であったかを知る手掛かりは、後年の伝記に頼るしかないためです。
情報源となるのは美術好事家の医者マンチーニのごく短い記録、ライバル画家バリオーネと美術評論家ベッローリの悪意と偏見に満ちた伝記のみで、現在も研究が続けられています。
カラヴァッジョは1571年のミラノで比較的裕福な家庭に生まれ育ちました。父フェルモは侯爵家に仕える建築家で、母ルチアは地主階級の娘でした。
父は(直接、侯爵家の仕事をしていた証拠はないものの)侯爵家に仕える建築家でした。
しかし、ベッローリの伝記には「石工(建築家)の子」としか書かれておらず、侯爵家に仕えていた由緒正しい家系とは知らされませんでした。
そのため、初期の伝聞や研究においては無教養で粗野で、それゆえにアカデミズムに対して無理解に反発する自然主義者というイメージがカラヴァッジョにつき纏っていた時期があります。
本名はミケランジェロ・メリージ。よく知られたカラヴァッジョは、彼が幼い頃に移り住んだ村の地名に由来します。
カラヴァッジョの誕生日とされる日は9月29日。大天使の祝日であったため、ミケランジェロという名前は大天使ミカエルが由来とされます。
しかし、大天使の中でもミカエルを選んだのは、建築家であった父がルネサンスの偉大な芸術家ミケランジェロ・ブオナローティにあやかって付けたのかもしれません。
カラヴァッジョは妹と弟がいる三兄弟の長男(正確には幼い頃に嫁いだ姉マルゲリータがいる)でした。
1576年にミラノはペストの蔓延によって荒廃し、一家は近郊のカラヴァッジョ村へ移住します。
しかし翌年1577年の同日に父と祖父を、同年のうちに弟を亡くし、1584年には母を失います。
ちなみに父フェルモは享年39歳という若さで亡くなりましたが、偶然にもカラヴァッジョも同じくらいの年齢でこの世を去ることになります。
ほとんどの肉親を失ったカラヴァッジョは母の実家アトラーリ家で暮らすことになります。母方の祖父ジョヴァン・ジャコモ・アラトーリは測量技師で、素描や遠近法の素養をカラヴァッジョに教えた可能性は高いでしょう。
実際カラヴァッジョの作品は人物の短縮法に優れ、『聖マタイの召命』や『洗礼者ヨハネの斬首』といった作品には既に定規とコンパスを用いて構図を考えていたことが明らかになっています。
カラヴァッジョは誰に影響を受けたのか
この後、ミラノの画家シモーネ・ペテルツィアーノの元に4年間修行に行っており、画家としての修行をするだけではなくヴェネツィアを訪れて過去の美術作品に触れた可能性があります。
シモーネ・ペテルツィアーノはガレニャーノのチェルトーザ聖堂やミラノのアンブロジアーナ絵画館の祭壇画などの仕事を手掛け、いくつかの作品をカラヴァッジョと共に制作した画家です。
彼は一部の文献ではティツィアーノ・ヴェッチェリオの弟子という記述が見られますが、現在でははっきりとしたことは言えないようです。
伝統的なマニエリスム画家で、カラヴァッジョは早い段階で彼の保守的な手法に反対しますが、彼の伝手で知り合ったジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォや、ジュゼッペ・アルチンボルドからは肯定的な影響を受けました。
カラヴァッジョは当時のローマを席巻していたマニエリスム絵画ではなく、盛期ルネサンスやドイツ表現主義などの様式を気に入り、特に、初期作品の静物描写はアルチンボルドやレオナルド・ダ・ヴィンチの影響が強く見られます。
才能あふれるデビュー作
『果物籠を持つ少年(1593-1954)』
『病めるバッカス(1593)』
シモーネとの徒弟契約を終えた後もミラノに残っていたカラヴァッジョですが、1592年にトラブル(おそらく喧嘩)を起こし、役人を負傷させてローマに逃げます。
行く宛のなかったカラヴァッジョはジュゼッペ・チェーザリの工房で助手をして生活を立てることになりました。
この頃に描いた『果物籠を持つ少年』や『病めるバッカス』を見る限り、既に画家として充分な技術を持っていることが伺えますが、ひどい病気を患ってしまったカラヴァッジョはたった2年で工房を解雇されてしまいます。
「ひどい病気」については諸説あり、馬丁と喧嘩をしている間に馬に足を蹴られたとも、殴り合いの喧嘩で足を怪我したとも言われていますが足を怪我したという説もあります。
共通しているのは足を怪我したという点で、これは『病めるバッカス』が足を庇って座るカラヴァッジョ自身を鏡で見て描いたと言われているからです。
『病めるバッカス』は現在でも肖像画の傑作とされる作品ですが、その最も大きな理由は当時存在していたジャンルがミックスされている点にあります。
バッカスはローマ神話の酒の神で、神話の人物を描いたこの絵は「宗教画」と言えます。
しかし、神話のシーンに基づかない自然体を描くという点で「肖像画」とも言えます。
花や果物などありふれた静物を描くという点では「静物画」の要素もあると言えるでしょう。
描かれているブドウと蔦はキリスト(それぞれ神の血であるワインと、受難と磔刑の象徴である)を想起させるモチーフであり「寓意画」「宗教画」の側面も持っています。
このように、たった一人の人物と持物を描いているだけなのに多面的な解釈ができるこの作品は、カラヴァッジョをはじめとするバロック美術からロマン主義まで長く受け継がれるドラマ性が顕著に表現されたものの一つと言えるでしょう。
画家としての独り立ち
『トランプ詐欺師(1594)』
1594年に工房を解雇されたカラヴァッジョは、独立した画家として活動を始めなければなりませんでした。
この時、ローマの街でプロスペロ・オルシ、オノーリオ・ロンギ、マリオ・ ミンニーティといった友人を作ります。中でもミンニーティはこの頃のカラヴァッジョの多くの作品でモデルを務めました。
とはいえ働き口もなくパトロンもいないカラヴァッジョの生活水準は高くなかったようです。
『トランプ詐欺師』は、カラヴァッジョの人生の中で最低とも言えるこの時期に描かれた傑作の一つです。
カードゲームでイカサマを仕掛けられる純朴な青年を描いた風俗画で、この以前に修作とも言える『女占い師(1594)』が描かれています。
この作品をきっかけに、当時のローマでもっとも優れた美術鑑定家の一人といわれていたフランチェスコ・マリア・デル・モンテに認められ、サポートを受けることに成功しました。
アカデミズム絵画を大衆化した
『悔悛するマグダラのマリア(1594-1595)』
画家としての生活が安定し始めたカラヴァッジョは、初めて描いた宗教画とされる『悔悛するマグダラのマリア』を描きます。
題材となっているマグダラのマリアは新約聖書に登場する聖人のひとりで、イエスの磔刑を見届け、復活を目撃した重要人物として描かれています。
イエスによって性的不品行の罪を赦された「罪の女」と同一視され、この作品ではこれまでの娼婦としての人生を悔い改める姿と虚飾を表す装飾品が散らばっている様子が描かれています。
これまでの宗教画は理想化された人物像やメッセージを伝えるためのシーンが選ばれていましたが、イエスに罪を赦されたマグダラのマリアが自身を悔い改めるという、人間的な弱みや欠点を表現したという点で斬新なものでした。
絵画技術の高さはもちろんのこと、このようなマニエリスムとは程遠い写実的な描写と、ダークな題材選びが話題を呼び、カラヴァッジョは大きな反響を呼びました。
バロック美術の誕生と賛否両論
『聖マタイの召命(1600)』
1599年、サポーターであったデル・モントの推薦ではサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会 コンタレッリ礼拝堂での仕事を受けます。
この仕事で描かれた『聖マタイの殉教』、『聖マタイの召命』は大きな話題を呼び、新しい表現様式の担い手だとする者と、間違った絵画技法だという者との間で賛否両論が繰り広げられます。
上述した通り、バロック美術の大きな特徴である劇的な明暗法やダイナミズム溢れる感情表現はこれまでのルネサンス期作品には見られないものでした。
結果としてカラヴァッジョは、この作品をきっかけに有力者から多く依頼を受けることになり、すでに困窮した生活とは無縁となっていました。
殺人犯 カラヴァッジョ
『ロザリオの聖母(1607)』
生活が好転したにも関わらず裏社会への出入りをしていたカラヴァッジョは、1606年にラヌッチオ・トマゾーニという人物を殺害してしまいます。
殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョは、ローマを去ることを余儀なくされます。
この殺人事件についても様々な研究がされており諸説ありますが、一つ有力な仮説をご紹介します。
殺されたトマッソーニとカラヴァッジョは、政治的な対立関係にあり度々激突していたとされます。
殺人事件が起こったとされる日は親スペイン派教皇の就任一周年を記念した祝祭が行われていました。親スペイン派のトマッソーニと、親フランス派のカラヴァッジョが武装衝突を起こした可能性はありえます。
その証拠のひとつとして、この日にカラヴァッジョがいた場所に居合わせたペトロニオという男性が(おそらく政治闘争による)治療を受けた記録が残されています。
ナポリへ逃れたカラヴァッジョはイタリアの有力貴族コロンナ家を頼り、ひっそりと制作を続けていました。
コロンナ家はカラヴァッジョが幼少期を過ごした村の領主で、カラヴァッジョの妹と叔母が共に乳母として働いていたことから両家は古くから付き合いがありました。
ナポリでも画家として成功を収めたカラヴァッジョは、数ヶ月後にマルタへ移り住むことを決めました。というのも、マルタ騎士団から公的画家になる誘いを受けたからです。
しかし1608年、カラヴァッジョは勧誘を受けたマルタ騎士団によって逮捕、投獄されてしまいます。
当然マルタ騎士団からは除名され、囚人となったカラヴァッジョですが同年のうちに脱獄。シチリアへ逃亡を遂げました。
この時の脱獄や、ナポリからシチリアまでの護衛にはコロンナ侯爵家の息子ファブリッツィオが協力してくれました。
旅で得たものと失ったもの
『キリストの鞭打ち(1607)』
コロンナ侯爵の力添えによって、シチリアに逃れたカラヴァッジョ。
行く宛のない逃亡犯の身でありながら、カラヴァッジョは行く先々で絵を売り、しかもそれがよく売れたため金に困ることはなかったといいます。
この時、ローマにやってきた時にできた友人ミンニーティがシチリアに住んでおり、一時的にカラヴァッジョを家に迎えています。
さらに、旅をしながら絵を描き続けたカラヴァッジョの技術はめきめきと上達しており、作品のうちの三分の一ほどは逃亡中に描かれたものであるにも関わらず、後年になるにつれ強い影響を残した傑作が多く残されています。
その一つにア・リスパルミオ(節約法)と呼ばれる技法が挙げられます。
元々カラヴァッジョは、強烈なコントラストのために下地塗りの質感が残るほど余った空間を効果的に作っていました。逃亡中の作品はさらに顕著になり、背景描写をおざなりにし、ともすれば描かれた人物が宙に浮いているように見えるほどに背景の塗りつぶしを多用しました。
『キリストの鞭打ち』にも、劇的を超えて神秘的というか、不思議な風景に見えるほど背景と登場人物のコントラストが激しく描かれています。
これはコントラストを強調するだけでなく、素早く作品を仕上げるのにも役立ちました。逃亡の身であったカラヴァッジョは描ける時間が限られていることを悟り、なるべく早く重要なものだけを描き残そうとしたのかもしれません。
激しいコントラストが生み出すドラマ性は明暗法を更に先に進め、テネブリズムと呼ばれるようになります。エル・グレコ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、レンブラント・ファン・レインなどが追随し、バロック美術を代表する特徴的な技法として高められていきます。
“首の皮一枚”の逃亡生活
『洗礼者ヨハネの首をもつサロメ(1609)』
『ゴリアテの首を持つダビデ(1609-1610)』
シチリアに約9ヶ月滞在したカラヴァッジョは、再びコロンナ家を頼ってナポリに戻ります。
しかしナポリに帰還したカラヴァッジョは何者かに襲撃され、顔に重傷を負います。死亡が報じられるほどのセンセーショナルな事態でしたが、実際は命に別状はありませんでした。
この頃描かれた『洗礼者ヨハネの首をもつサロメ』、『ゴリアテの首を持つダビデ』に描かれた生首は作者自身、それもこの時に負った顔の怪我を参考に描いたものだとされています。
さらに『洗礼者ヨハネの首をもつサロメ』はマルタ騎士団へ、『ゴリアテの首を持つダビデ』はローマ教皇の甥である枢機卿への贈答品として描かれたものでした。
ヨハネとゴリアテは共に、権威ある者(後に権威をもつ者)に首をとられる聖書の登場人物です。その生首と自身を重ねて描き、恩赦を求めたというこのエピソードは、これまでの放埒な態度とは打って変わってしおらしく、カラヴァッジョの逃亡生活にも限界が来ていたことが窺い知れます。
晩年
これ以降の年代において、カラヴァッジョについての記録は途絶え途絶えになり詳細が不明な部分も多くあります。
カラヴァッジョが最後に記録に姿を表すのは1610年、ローマ教皇パウルス5世の甥にして美術愛好家であった枢機卿シビオーネ・ボルゲーゼから恩赦を受けるためにローマに向かう船に乗った時です。
シピオーネへの返礼品を抱えて乗船したカラヴァッジョでしたが、1610年7月18日に熱病により死亡したとされています。
しかし、熱病によって死亡したという説は近年ナポリ大学のヴィンチェンツィオ・パッチェリ教授によって偽物であると提唱されています。
病死(自然死)であれば死亡者名簿に残っているはずがそのような記録はなく、病死の証拠である手書きの紙片が発見された町からカラヴァッジョが出発した港からは百数十キロメートルの距離があり、病人が船旅をするにはあまりにも遠いのです。
パッチェリ教授はこれについて、ローマのラツィアーレ港に到着した時点でカラヴァッジョは憲兵に殺されていたという説を主張しています。
ナポリからシチリアへの旅中はコロンナ家の護衛がありましたが、その後は独り身で旅をしていたと考えられ、実際ナポリに帰還した時に襲撃を受けています。
どれだけ画家として名を馳せ、枢機卿や侯爵家の庇護を受けていても、殺人犯という肩書きはカラヴァッジョに重くのしかかり、最後は憲兵による法の裁きを、あるいは私的な正義感や憎悪の元にこの世を去ったという見方がされています。
まとめ
いかがだったでしょうか?
カラヴァッジョの波乱万丈な人生と革新的な作品の一端をご紹介しました。
まるで映画の主人公のような生涯を送り、西洋絵画史に永遠に残るほど影響力のある作品を残したカラヴァッジョですが、同年代の作家に比べ、不思議と劇作や展覧会といった話題に欠ける人物です。
ですが、近年カラヴァッジョが大きな話題となるニュースが報じられました。
数年前からの調査で弟子のものとされていた作品がカラヴァッジョの真筆であると判明し、未発表作品『エッケ・ホモ』が2024年5月27日のマドリード、プラド美術館で初公開されることが決定しました。
イタリア各地を転々としていたカラヴァッジョには多くの弟子やフォロワーがおり、カラヴァッジョ自身の真筆作品と、後発の画家による模写とを見極めるのは研究者でも難しいようです。
もしかしたら、これから先もカラヴァッジョの“100年越しの新作”が発見されるかもしれません。
おすすめ書籍
カラヴァッジョについての知識を深めたい方はこちらの書籍もおすすめです!
もっと知りたい カラヴァッジョ 生涯と作品
画家の生涯と代表作を概観できる「もっと知りたい」シリーズです。100ページに満たない読みやすさと面白いコラムが魅力のシリーズで、アーティストの入門書にぴったりです。もっと詳しく知りたい方は宝島社新書『カラー版 1時間でわかるカラヴァッジョ』もおすすめです。
カラヴァッジョの秘密
カラヴァッジョの波瀾万丈な人生を資料と共に読み解く本です。実際の文献や地理と照らし合わせながら考察を深めていく本書は、まるでドキュメンタリーのような読書体験ができるはず。「こぼれ話」と称したコラムも魅力的です。「政治的対立から殺人事件を起こした」「ローマで憲兵により殺害された」という説は主にこの本から引用しています。
カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか
2022年に出版された最新の研究資料です。500ページ以上にわたり、カラヴァッジョ自身の生涯と題名のついたほぼ全ての作品についての研究がまとめられた本です。モチーフやテーマを縦軸とした他作品との比較や、X線分析、逮捕された時の取調べ調書に至るまで、本作でしか見ることができない貴重な資料がたくさん収録されています。