【徹底解説】ヴュイヤールの人生と作品に迫る

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはヴュイヤールという人物をご存じですか?

フランスの近代芸術において、ヴュイヤールが所属していた『ナビ派』の存在はあまり脚光を浴びるものではありません。

その中でもヴュイヤールは有名な逸話やスキャンダルとはかけ離れた人物でした。しかしヴュイヤールが自ら名乗った『アンティミスト』というスタイルはナビ派の発展と確立には欠かせませんでした。

本記事ではそんなヴュイヤールの人生と作品についてご紹介します。

エドゥアール・ヴュイヤールって?

基本情報

本名 エドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard)
生年月日 1868年11月11日〜1940年6月21日
出身 フランス キュイゾー
学歴 コンドルセ高等学校
分野 油絵 装飾画 舞台美術
傾向 ナビ派 アンティミスム
師事した人 ディオジェーヌ・マイヤール等

ナビ派って?

19世紀末のフランスで活躍した、前衛的な芸術運動グループです。

ナビはヘブライ語で「預言者」を意味する言葉で、誕生のきっかけは画家セリュジエがポール・セザンヌに指導を受けたことですが、印象派・写実主義への反抗やジャポニズムの流入など発展には様々な要因がありました。

経歴と作品

ヴュイヤールの生まれと環境

ヴュイヤールは1868年11月11日にフランスのキュイゾーという町で裁縫工房を営むプルジョワ階級の家庭に生まれました。

15歳の時に父親を亡くしますが、画家になりたいというヴュイヤールの夢に理解のある母の支援を受けてリセ・コンドルセ(コンドルセ高等学校)に入学し、ここでヴュイヤールは後のナビ派の中心的メンバーであるモーリス・ドニピエール・ボナールに出会います。

リセ・コンドルセを卒業したヴュイヤールはディオジェーヌ・マイヤールブグローなどのアトリエを転々として絵画を学びますが、彼が本当の意味で絵画を学んだ場所はアトリエではありませんでした。

ナビ派への第一歩

ヴュイヤールは1885年から88年にかけてルーヴル美術館に足しげく通い、特に17世紀オランダの風俗画、18世紀のフランス画派などからインスピレーションを受けていました。

そんなヴュイヤールは1890年に、ナビ派のメンバーであった画家ポール・ランソンからアトリエに誘われます。

リセ・コンドルセへの入学がナビ派への序章だとすれば、この出会いがナビ派への第一歩だと言えるでしょう。

ゆらめくズワーヴのナビ

『自画像(1889)』

Self-Portrait, 1889 - Edouard Vuillard

ヴュイヤールはズワーヴ兵(アルジェリアの軽歩兵)のような髭から「ズワーヴのナビ」とあだ名されていました。

そんなズワーヴのナビが注目を集めたのは、特徴的な髭の形のためだけではありませんでした。

ほかの画家の多くが、当時支配的であった象徴主義の思想に強く影響を受け、厳格な構図と理想化されたモチーフを追求していましたが、その中でヴュイヤールは最も非宗教的で世俗的な人物でした。

と言っても、最初から世俗をモチーフとした絵を描いていたわけではありません。

初期の作品には、画家である自分自身の心理状態とモチーフの印象を描いた、印象派や象徴主義の影響を見ることができます。しかしその後の日記に書かれていることが画風の変化の心境を物語っています。

私は自分が描く線や色彩を想像しなければならない。

どんなものも、偶然によってつくってはいけないのだ。私は、今までそのような仕事をしすぎた。

そして、それはまちがいなく私の作品ではない。

偶然による結果だから、私を起源とする作品ではないのだ。

(略)主観的な表現は、瞑想家に任せておけばよい

点描技法の流行を受けて

『スープ鉢をもつ祖母(1892)』

My Grandmother, 1892 - Edouard Vuillard

1890年代の画家の多くが新印象派のジョルジュ・スーラの点技法に影響を受け、ヴュイヤールもその例外ではありませんでした。

色彩学に基づき、色を鮮やかに見せるための点描技法には注目しつつも、モチーフの輪郭線をぼかすように重ねられた色面は同時期のスーラやシニャックの作品と比べて荒々しく、流行や因習に囚われることのないヴュイヤールの大胆な性格が垣間見える相違点として挙げられます。

親密派ーアンティミスムー

『室内、画家の母と姉(1893)』

Interior with mother and sister of the artist, 1893 - Edouard Vuillard

ヴュイヤールの初期作品から晩年の作品にまで特徴として挙げられるものの一つに、理想化されず、神話や抽象にも侵されない素朴で世俗的なモチーフが挙げられます。

フランス語で親密を意味する言葉から、ヴュイヤールは自身で『親密派(アンティミスム)』を名乗り始めました。ギュスターヴ・クールべに代表される写実主義にも見られたスタイルですが、写実主義への反発から生まれたナビ派のヴュイヤールが、身近なモチーフを大切にしていたのは、不思議な巡り合わせを感じます。

ナビ派とアーツ・アンド・クラフツ運動

『求婚者(1893)』

Interior of the work-table, 1893 - Edouard Vuillard

ナビ派の主張の根幹は写実主義から脱し、絵画の神秘性を主張することでした。

そのためナビ派は度々、イーゼル上での制作から抜け出し壁面やパネルといった大掛かりな装飾画を好んで取り組んでいました。

加えてナビ派が好んで取り入れたモチーフやパターンは、ウィリアム・モリスの起こしたアーツ・アンド・クラフツ運動の影響が見られます。日常生活と芸術の統一を計ったアーツ・アンド・クラフツ運動の思想から、家具やタペストリー、壁面のデザインへ仕事場を拡張し、ヴュイヤールは特に壁面を新しいカンヴァスとして選び、『千花模様』と呼ばれる画面を小さな草花で埋め尽くす手法を積極的に採用しました。

ヴュイヤールとジャポニズム

『公園(1894)』

その後迎えた1890〜1892年、ヴュイヤールは更なる挑戦を始めます。ヴュイヤールは1890年にエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)で日本美術の展覧会が行われたことをきっかけにドニやボナールと共に浮世絵版画の収集に勤しみます。

そして浮世絵の様式『ジャポニズム』を自身の絵に取り入れ始めたのです。

ヴュイヤールの初期の作品に見られる平面の描き方や、同時に複数の視点から描かれた絵作りは日本美術の影響が見え、ボナールが掛け軸から着想を得て取り入れた縦長のパネルに絵を描き衝立などの装飾画に仕上げる方法も、ヴュイヤールは積極的に取り入れました。

舞台演劇への進出

『公園(1894)』

Public Gardens, 1894 - Edouard Vuillard

その後にヴュイヤールは演劇と関わりを持つことになります。

今ではアーティストが舞台演劇の衣装や美術道具を手がけることは珍しくありませんが、19世紀ではドラクロワ、ダヴィッドなどの一部の画家を除き画家が舞台演劇で仕事を受けることは滅多になかったようです。

1894年10月、制作座がノルウェーで公演した演劇でヴュイヤールは舞台美術を担当し好評を得ます。

遅れてきた印象派

『帽子の婦人(1901)』

Woman with a Hat, 1901 - Edouard Vuillard

1910年に差し掛かるとヴュイヤールは印象派の影響が作品に現れ始めます。

時代的に印象派の衰勢と前後するのは、1900年に開かれたベルネーム=ジュヌ画廊でのナビ派グループ展が関わっています。そこで知り合ったエセル夫妻と懇意になり、著名な演劇人と出会う機会を得ることで舞台演劇の仕事を惜しまなかったヴュイヤールは心強い支援を受けてパリの名士の立場へ押し上げます。

1922年にサシャ・ギトリの演劇作品『手品師』のために、泥絵の具を用い、荒々しくも印象派の繊細な雰囲気を残す筆致で一連のパネルを手掛けます。

晩年、画家としての成功と失敗

『窓』

The Window - Edouard Vuillard

晩年に差し掛かるとヴュイヤールは、かつてナビ派として流行の芸術運動に一定の反抗を示しつつも、ジャポニズムや象徴主義などの良いところを貪欲に取り入れていた頃に比べると既存のスタイルそのものからは距離を置き、独自の画風を確立させるための制作をしていました。

この頃になるとヴュイヤールは、エセル夫妻との付き合いで得た功績が広まり、パリで最も有名な画家の一人に数えることができるほどの地位に登り詰めていました。

政府から勲章を授与されることがあったほどですが、そのほとんどをヴュイヤールは断っていました。しかし一方でドニの誘いで1938年にヴュイヤールは、フランス学士院の会員になります。

画家としては安泰の道を辿ることになったヴュイヤールですが、前衛芸術運動として誕生したナビ派としては画家として政府に認められたことは落ちぶれたも同然の扱いとする批評家も少なくありません。

ドイツからの爆撃を恐れたヴュイヤールはエセル夫妻と共にパリから逃げ、フランスの西部にある町ラ・ボールで1940年6月21日にその生涯を閉じます。

まとめ

いかがだったでしょうか。

ナビ派という所属を持ちながらもその思想に捉われることなく柔軟に他のスタイルを取り入れ、自分だけの絵を追求しようとしたヴュイヤールですが、近代フランスの絵画にとって重要な要素を多く作り、発展させた人物でもあります。

近代芸術で活躍した画家の多くが画家として生活することへの苦労やサロンの評価への反抗を絵画という表現に落とし込むことで独自のスタイルや作品を確立していく中で、ヴュイヤールにはそのような強い反抗心や葛藤といった雰囲気はあまり見られないように感じます。

本記事ではあまり深掘りできませんでしたが、その理由はヴュイヤールがブルジョワの家庭に生まれたことだけに留まらず、ヴュイヤール自身の性格に起因するものではないでしょうか。

ヴュイヤールはフランスのブルジョワ家庭という生育環境を体現するように、謙虚で穏やかな性格の持ち主だったと言います。

同世代の画家は

根っからのフランス人だったヴュイヤールは、見た目も性格も聖フランシスコ・サレジオのようだった。思いやりがあって機転がきき、まちがっているかもしれないと考えて、決めつけるような言葉を口にすることはなかった。

と回想しています。

特に初期〜中期においてヴュイヤールの作品は、上品でありつつ穏やかで家庭的な雰囲気を持っています。

絵画をはじめとする様々な創作物は作家を映す鏡だとよく表現されますが、作品と作家の思想の繋がりが取り沙汰されることの多い中で、純粋な作家の人間的な性格が作品に表れている好例と言っても良いかもしれません。


出典

ギィ・コジュヴァル著 小泉順也監修 遠藤ゆかり訳『ヴュイヤール ーゆらめく装飾画』「知の再発見」双書、2017年。



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