こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはエル・リシツキーという人物をご存知ですか?
「ロシア構成主義のウィリアム・モリス」とも称されるロシアを代表する芸術家で、建築と絵画を中心に写真や舞台芸術など幅広いジャンルで活躍しました。
政治プロパガンダを旨とする絵画やグラフィックを特徴とするロシア構成主義の中で、特に有名なイメージを形作ったまさに第一人者と言っても過言ではありません。
本記事ではそんなエル・リシツキーの人生と作品についてご紹介します。
エル・リシツキーとは?
基本情報
本名 | ラーザリ・マルコヴィッチ・リシツキー (Lazar’ Markovich Lisitskii) |
生年月日 | 1890年11月23日〜1941年12月30日(51歳没) |
国籍/出身 | ロシア/ロシア スモレンスク ポチノク |
学歴 | ダルムシュタット芸術学校、リガ工科大学 |
分野 | グラフィック・デザイン、建築、写真 |
傾向 | ロシア構成主義、ロシア・アヴァンギャルド |
師事した/影響を受けた人 | カジミール・マレーヴィチ等 |
人生と作品
生まれと環境
リシツキーは1890年、ロシアのスモレンスク郡のポチノクで生まれました。その後すぐに現在のベラルーシ、ヴィテプスクという町に過ごします。ヴィテプスクでは祖父母と共に10年ほど暮らし、スモレンスクの文法学校に通っていました。
同時にリシツキーは子供の頃から絵の才能がありました。イェフダ・ペンというユダヤ系の画家から絵画を習っており、15歳になる頃には教える立場にいたほどでした。
19歳になり、サンクトペテルブルクの美術学校を受験しますが、リシツキーは入学を拒否されてしまいます。当時のロシア皇帝であるニコライ2世による専制政治体制下(ツァーリズム)では、ユダヤ人の職業選択が制限されていたからです。
リシツキーは当時ロシアに住んでいたユダヤ人の多くがそうしたように、ドイツへ留学することにしました。ダルムシュタット芸術学校に入学したリシツキーは、学校で建築を学びながら、ヨーロッパのほうぼうへ旅をしながらスケッチをし、美術についても独学で技術を磨いていきました。
ダルムシュタットは研究施設と大学を多く設立している学術都市で、モダンデザインのメッカとして知られていました。工学を中心とした学問が発展し、やがてバウハウスに続くニューデザインが生まれた場所でもありました。
ヨーロッパを旅する間に、リシツキーはパリで活動していたロシア系ユダヤ人のコミュニティに出会い、古代ユダヤ文化に興味を抱きはじめます。
ロシア構成主義との合流と、本の言葉との向き合い
『Had gadya(1919)』
1912年、リシツキーはサンクトペテルブルク芸術連盟が行った展示に作品を発表します。
1914年に第一次世界大戦が始まり、リシツキーはロシアに強制帰国することになります。同じく戦争によって帰国を命じられた同胞として、モスクワ・インフクを主導した画家ワシリー・カンディンスキー(1866〜1944)や、初期前衛芸術運動で知られるマルク・シャガール(1887-1985)もいました。
帰国したリシツキーは徴兵を逃れるためにリガ工科大学へ入学して工学と建築の卒業証書を取得、建築事務所で働くことにします。また、ブックデザインの仕事も手掛けました。
イディッシュ語の児童文学の挿絵を手掛けたことは歴史的に高く評価される仕事に一つで、ユダヤ語とも呼ばれるユダヤ人文化のひとつであるイディッシュ語を広める活動の一端となりました。
リシツキーはそのほとんどの経験からユダヤ人文化についての関心をさらに高め、ユダヤ人文化の復興を活動に取り入れることにしました。反ユダヤ法の撤廃をきっかけに、リシツキーはユダヤ人文化の復興を目指して精力的に活動を始めました。
具体的にはユダヤ歌謡を視覚的に表現し、作中のメッセージと独特のデザイン性を共存させた高度なタイポグラフィが掲載された『Had gadya(1919)』などが挙げられます。
またブックデザイナーとしては、同じくロシア構成主義およびロシア・アヴァンギャルドのコミュニティで親交を結んだウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930)などの仕事も手掛けています。
シュプレマティズムからプロウンへ
『Proun 99(1922)』
1919年、ヴィテプスクの芸術学校で芸術総務長に任命されたシャガールが美術学校の教員としてリシツキーを誘います。それに応じたリシツキーはカジミール・マレーヴィチ(1879〜1935)と共に教職に従事しました。
そしてマレーヴィチのシュプレマティズムに影響を受け、リシツキーはとある表現手法を生み出します。
その前に、シュプレマティズムとは何なのかをご紹介します。
シュプレマティズムとはラテン語の「supremus」(至高)という言葉を起源とする「絶対主義」「至高主義」とも呼ばれる芸術運動です。「立体未来主義(クボ=フトゥリズム)」とも関連づけられ、その名の通り感性に訴えかける絶対的な芸術を目指したものでした。
特徴としては抽象性を徹底し、正方形や三角形などの平面的な幾何学図形のみで構成する様式で、抽象絵画の一つの到達点とも言われています。
抽象的で排他的な主張であったため、これを創始したマレーヴィチはウラジミール・タトリン(1885-1953)と対立することになってしまいますが、1920年前後に発達したロシア構成主義やバウハウスの理念に大きな影響を与えました。
そんなシュプレマティズムに影響を受けたリシツキーはこれまでのユダヤ人文化から離れ、「プロウン(ProunenまたはProun)」と呼ばれる作品群を作り出しました。
一説によるとプロウンという言葉はラテン語の「prounovis(我々のための)」、または、彼が所属していたグループ「proekt utverzhdenya novogo」の略語であり、ロシア語で「新しいものを肯定するプロジェクト」を意味するのではないかと示唆する人もいたようです。
後にリシツキーは、それらを「絵画から建築に変わる駅」と曖昧に定義しました。
古典的なヨーロッパ様式に頼りすぎていたロシアの建築にシュプレマティズムを適用することで、リシツキーは複雑な次元の空間を構築し、革命後のロシアに新しい芸術を生み出すという課題を達成しようと試みたようです。
プロウンは建築を学んだリシツキーならではの建築的な構成と、平面的でグラフィカルな幾何学形態が同居したようなデザインが特徴です。
後に大成するロシア・アヴァンギャルドにおいてもリシツキーは大きな柱となるほどの影響で、ロシア構成主義の中でもアレクサンドル・ロトチェンコ(1891-1956)に並び代表的な様式として知られています。
プロウンのさらなる進化
『赤い楔で白を穿て(1919)』
プロウンの作品は「事物を写すのではなく、構成し、つくってゆく」今までのヨーロッパ様式のように現実を映しとるような表現方法を一線を画したものでした。
また、リシツキーの作品は最も純粋に、子供の世界のように無邪気に空間を作っていくことが評価されています。単純な幾何学形態を芸術に昇華することに留まらず、高い共感性を呼んだことがリシツキーの作品の魅力の一つなのかもしれません。
共感性を呼ぶ手段の一つとして、リシツキーは「色」と「記号」を効果的に用いたことがその特徴として知られています。
抽象絵画として発表したいくつかの作品は、「色」と「記号」の二側面で政治的プロパガンダを示唆していることが語られます。
例として『赤い楔で白を穿て(1919)』は、ウラジーミル・レーニン率いる「ボリシェヴィキ」が1917年に革命を起こした直後にリシツキーが赤軍を支援するために制作した、プロパガンダ的要素を帯びた作品です。
赤いくさびは、反共産主義の白軍を貫く革命家を象徴しており、白い円は白軍、つまりこの作品は赤軍は白軍の防御を貫いた、ということを表しています。
一見抽象絵画にしか見えない作品も、あるイデオロギーを持つ人が見たときに特定の意味を持つという手法をプロウンの中で確立していったのです。
このような手法は時を遡ればヨーロッパの古典芸術に見られる宗教絵画に用いられる「シンボル(抽象的な概念をモチーフに置き換えること)」や「アトリビュート(特定の人物と物体を関連づけること)」に求めることができ、こんにちでは広告の基本的な技法にまで昇華されています。
これらの手法は文化や歴史に大きな影響を受ける部分はあるものの、芸術の分野で古くから用いられてきたものでした。
その歴史の中でリシツキーが成し遂げたのは「抽象的なもの」を「抽象的なもの」にジャンプさせるという点でこの技法を一歩前に進めたことは確かなように思えます。
芸術家は筆で新しい象徴を構築する。
この象徴は、すでに完成しているもの、すでに作られているもの、あるいは世界にすでに存在するものの認識可能な形ではなく、それは新しい世界の象徴であり、それは上に築かれようとしているものであり、人々の方法によって存在するものである。
芸術の探検は海を越えて
『黒の正方形(1915)』
1920年、リシツキーはマレーヴィチと共にシュプレマティストを束ねた「UNOVIS(新しい芸術の探検家)」というグループを結成します。
このグループはマレーヴィチが主な指導を行い、これまでの絵画芸術に留まらず舞台芸術などに幅を広げて活動をしました。グループでは誰が仕事を行っても責任を共有する意味を込めて個人的なクレジットやサインを排し、代わりに黒い四角をサインしました。
これはマレーヴィチの作品の一つである『黒の正方形(1915)』をオマージュしたもので、この活動と併せてマレーヴィチとリシツキーの名を世界的に広める原因になりました。
リシツキーはデザインスクールで教えるとともに、国外での経験を活かしてドイツやフランスとの文化交流で活躍しました。
UNOVISはわずか2年で解散することになりますが、この活動を経てリシツキーはシュプレマティズムの表現をさらに自身の中で熟成させる機会にもしていました。
バウハウスやダダのメンバーと知り合い、ロシアアヴァンギャルドと西欧のモダンデザインとの回路を拓いたことは、ロシアのデザイン史において大きな意味を持つものでした。
大きな視点で見ればロシア・アヴァンギャルドは国内で孤立し沈黙していく結末を迎えますが、リシツキーは国際的なネットワークを精力的に求め続けました。
晩年
『Davaite pobolshe tankov!(1941)』
1932年、順調に見えたリシツキーの活動に陰りが見えはじめます。
そのきっかけはスターリンの命によって芸術家組合が閉鎖されたことでした。
彼らの芸術は公的な手法として認められず、表現を改める危機に晒されていました。リシツキーもその例に漏れず、1930年以降は絵画やフォトグラフといった作品から離れて建築計画を主に手掛けました。
晩年のリシツキーは結核と長く闘病し、家族の支え無くしては生活が成り立たないほどに衰弱しましたが、最後の作品は1939年に起こった第二次世界大戦を受けて制作した『Davaite pobolshe tankov!(1941)』でした。
1941年12月30日にモスクワで亡くなります。
まとめ
いかがだったでしょうか。
ロシア構成主義において主要な人物だけあって、見たことのある作品も多かったのではないでしょうか。
シュプレマティズムをはじめとし、周囲の人物の影響を受けながらも自身のオリジナリティを模索し、その特色をさらに先に進める「洗練の人」という印象です。
リシツキーは「ロシア構成主義におけるウィリアム・モリス」と呼ばれ評価されることの多い人物ですが、グラフィックやブックデザインを主に手掛けたことや芸術運動を牽引したことのみならず、長いあいだ教鞭をとった(わずか15歳で絵を教えていたほどですから、その才能はもしかしたらモリス以上かもしれません)ことなども重なっており、運命的なものを感じます。
人種差別や戦争などに振り回された時期もあり苦労した人物ですが、むしろそれを糧としてユダヤ人文化を再興するため尽力し、挿絵や翻訳、舞台美術など幅広く作品を手がけたことはまさに真摯な職人魂を感じられます。
おすすめ書籍
エル・リシツキーをもっと知りたい方にはこちらの書籍がおすすめです!
エル・リシツキー 革命と建築
エル・リシツキーにフォーカスした本です。本記事ではグラフィックを中心にご紹介しましたが、この本ではその根幹になった建築への理念や仕事について詳しく書かれています。
エル・リシツキー ー構成者のヴィジョン
エル・リシツキーを中心に、ロシア構成主義の概要をなぞっていく本です。文量が多いですが掲載されることの少ない希少な作品を収録しているので、ロシア構成主義に興味のある方は一読をお勧めします。
ロシアアヴァンギャルドのデザイン 未来を夢見るアート
ロシア・アヴァンギャルドの詳しい歴史を辿りながら、アーティストごとの作品と詳しいコラムを読むことができる本。判型が大きいので勉強しながらも画集として活躍できるのでおすすめです。