【徹底解説】フランソワ・ブーシェとは?人生と作品を追う

こんにちは、ユアムーン編集部です!

皆さんは「フランソワ・ブーシェ」という画家をご存知でしょうか?

ブーシェはロココを代表するフランスの画家で、亡くなる5年前には国王の第一画家にも任命されています。

今回はそんなブーシェの人生と作品をご紹介させていただきます!

フランソワ・ブーシェってどんな人?

Portrait of François Boucher – Gustaf Lundberg
本名 フランソワ・ブーシェ(François Boucher)
生年月日 1703年9月29日
出身 フランス パリ
学歴 王立絵画彫刻アカデミー
分野/芸術動向 ロココ

人生と作品

生まれと環境

フランソワ・ブーシェは1703年9月29日、フランスのパリにて刺繡デザイナーである二コラ・ブーシェの子として誕生します。

ブーシェは幼少期から16歳まで、1391年に設立し1776年に解散することになる画家と彫刻家のギルド「アカデミア・ディ・サン・ルカ(聖ルカアカデミー)」の会員であった父二コラから絵画の初歩を学んでいました。

17歳の時、当時を代表する歴史画家で後の国王の第一画家に任命されることになる「フランソワ・ルモワーヌ」がブーシェの絵を賞賛し、ブーシェは父親からの後押しもあってルモワーヌに弟子入りすることになります。

しかしブーシェによるとルモワーヌからは学ぶことはなく、ルモワーヌは弟子の面倒を殆ど見ることがなかったと語っており、短期間でルモワーヌの下を離れることになります。

フランソワ・ルモワーヌ

フランソワ・ルモワーヌ

フランソワ・ルモワーヌは、フランスのロココ様式の画家である。ローマ賞を受賞し、王立美術・彫刻アカデミーの教授を務め、ルイ15世に仕えた王立画家である。シャルル=ジョセフ・ナトワールやフランソワ・ブーシェの家庭教師を務めた。

ルモワーヌは、そのキャリアを通じて、シャルル・ル・ブランの後継者であり、ライバルであったジャン=フランソワ・ド・トロワ(1679-1752)とも争う、同世代を代表する画家と見なされることを目指した。特にヴェルサイユで発揮した仕事と才能によって、彼は同時代の人々から尊敬され「新しいルブラン」と呼ばれることになった。ノノッテ、ジル・デュティユール、シャルル・ド・ラ・フォッセ、コワペルなど、同時代の他の芸術家たちと協力したり、一緒に仕事をしたりもした。1737年、絶頂期に自死した。彼の死により、大きな寓意画の天井の流行は消滅した。

引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Fran%C3%A7ois_Lemoyne

出典:Wikicommons, https://commons.wikimedia.org/

彫刻家の下で働く

ブーシェはルモワーヌに弟子入りした3か月後に生活費を稼ぐため、彫刻家の「ジャン=フランソワ・カーズ」の下で働くようになります。

カーズの下では論文の挿絵を描いたり、王政の起源からアンリ4世の治世までを扱ったダニエル神父の著書『フランス史』の帯や本文中の小さな版画などを担当したりしました。

これらの実績により、パトロンでありコレクターであるジュリアンから「アントワーヌ・ヴァトー」の原画に基づいて彫版した作品を集めた版画集『様々な風景の人物像と研究(Figures de différents caractères de paysages et d’études)』のエッチングの仕事を任せられます。

フランソワ・ブーシェ、アトリエでの自画像(1720年)

ブーシェは1723年に「ローマ賞(Prix de Rome)」という画家や彫刻家を対象とした美術学生のための奨学金制度に受賞しており、ローマに3年から5年留学できるはずでしたが経済的な問題があったためにこの奨学金制度で留学することはしませんでした。

ローマに旅立つ

1727年、ブーシェは同じく画家のシャルル=アンドレ・ヴァン・ローとルイ=ミシェル・ヴァン・ローと共に、自費でローマに旅立ちます。

1727年から1731年の間「在ローマ・フランス・アカデミー」に滞在していたブーシェは、バロック最後期の巨匠「ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ」と出会い、その装飾的な構図に感動します。

ブーシェのローマでの活動の詳細はあまり知られていないようですが、歴史家たちはブーシェがローマで大いに働き、大いに成長したのは間違いないだろうという意見で一致しているようです。

王立絵画彫刻アカデミーに入会

『リナルドとアルミーダ(Rinaldo and Armida)』

1731年末、パリに戻ったブーシェは歴史画家として王立絵画彫刻アカデミーに準会員として入会し、3年後に提出した作品『リナルドとアルミーダ』で正会員になります。

この絵画のテーマは、16世紀に書かれたトルカート・タッソの叙事詩「GerusalemmeLiberata(届けられるエルサレム)」から着想を得たもので、この詩は1099年にエルサレムを占領し、キリスト教の王国を築いた第一次十字軍を理想化したものです。

王立絵画彫刻アカデミーに入会した後は、フランス王室や貴族からの依頼を次々と受けていき、ルイ15世のための宮殿の装飾や貴族の邸宅の装飾にも携わるなど、順調なキャリアを歩んでいきます。

ポンパドゥール夫人との関係

ブーシェはルイ15世の公妾であるポンパドゥール夫人のためにも複数の作品を制作しており、弟のヴァンディエール侯爵に宛てた手紙の内容からポンパドゥール夫人は、ブーシェの描く肖像画を気に入っていたことがわかるようです。

また、ブーシェはポンパドゥール夫人にデッサンやエッチングを教えたり、相談役を引き受けたりなど深い親交があったようです。

晩年

1750年代ごろから、色鮮やかで牧歌的なブーシェの画風を軽薄だと見なした反ロココの批評家からを受け始めるブーシェですが、ブーシェはその批判には怯まず自分のスタイルを貫き続け、2年に1度サロンにて作品を展示し続けていました。

1765年には国王の第一画家に任命されますが、1770年にブーシェはパリで亡くなります。

まとめ

いかがでしたか?

今回はロココを代表するフランスの画家、「フランソワ・ブーシェ」についてご紹介させていただきました!

彼は生涯で千枚以上の絵画を制作しており、版画なども含めると更に多くの作品を残しています。

フランソワ・ブーシェについてもっと知りたい方は、ぜひ調べてみてはいかがでしょうか?



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