【総集編】ルネサンス美術の三大巨匠を作品と共に一挙紹介!

こんにちは。ユアムーン 編集部です。

16世紀のヨーロッパで興った盛期ルネサンスは、西洋美術史の中でも大きな転機のひとつとして知られる時代です。

盛期ルネサンスはそれまでのルネサンス(初期ルネサンス)で培われた美術が頂点を極めたと評価されている時代で、この時代に活躍した中心的な三大巨匠の作品は世界中でも知らない人がいないほどの有名作品が数多く残されています。

その三大巨匠は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ラファエロ」「ミケランジェロ」の三人です。

この三人が西洋美術の頂点をどのように作り上げたのか。

本記事ではルネサンス美術の三大巨匠の人生と作品についてご紹介します!

ルネサンス美術って?

基本情報

改めて、ルネサンス美術について軽くご説明します。

ルネサンス(Renaissance)とは「復活」「再生」を意味するフランス語で、14世紀のイタリアで興った古典文化の復興運動のことを指す言葉です。

美術だけでなく建築や音楽、詩など幅広い分野で興った運動で、14世紀のイタリアで興った当初の運動を初期ルネサンス(イタリア・ルネサンス)といいます。

この頃にスフマート、空気遠近法などの画期的な技術の土壌や、過度に美化しない人間性をテーマにした自然主義などが生まれました。

これらの表現方法を生んだ著名な画家ドナテッロ、マサッチオ、ブルネレスキが初期ルネサンス三大巨匠と呼ばれています。

その後、16世紀に入ってイタリアを中心に美術の機運が頂点に高まり、盛期ルネサンスと呼ばれるようになりました。

この盛期ルネサンスに活躍したのがダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの三人の画家です。

彼らの活躍は、1527年のローマ略奪によってイタリアの文化の勢いがなくなりヴェネツィア派が文化の主導を握るようになった後期ルネサンスまで続きますが、本記事では盛期ルネサンスに活躍した三大巨匠について、この後期ルネサンスまでの活躍も含めてご紹介します。

ルネサンス美術の三大巨匠

レオナルド・ダ・ヴィンチ

基本情報

Leonardo da Vinci
本名 レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ
Leonardo di ser Piero da Vinci
生年月日 1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)
国籍/出身 イタリア(フィレンツェ共和国)
学歴
分野  絵画、彫刻、建築家など多数
傾向 ルネサンス絵画、アカデミック絵画
師事した/影響を受けた人 ヴェロッキオ、パブロ・ピカソ

ダ・ヴィンチの人生

ダ・ヴィンチは1452年4月15日、今のイタリアにあたるフィレンツェ共和国のヴィンチという町に生まれます。父は公証人(契約の証人となる公務員)で、裕福な家庭に生まれました。

経済的に裕福ではあったものの、ダ・ヴィンチは教育機関に通った経歴はなかったと言われています。その代わりに野山で自然や生き物をスケッチし、祖父母から語学の勉強を受けて知識を身につけていました。

1466年、14歳のダ・ヴィンチは絵画を学ぶためにフィレンツェで工房を構えていた画家アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435-1488)に弟子入りします。

その後にヴェロッキオの工房を去ったダ・ヴィンチは父の元からも独立して教会や宮殿の壁画などを主な仕事としており『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などの名画を発表しました。

1499年に第二次イタリア戦争が起こり、ダヴィンチはヴェネツィアで軍事技術者として従軍し、フィレンツェへ帰ってきたのは1500年でした。

1513年以降、ダ・ヴィンチはミラノ公国を占領下においていたフランソワ一世に招かれ、フランソワ一世の邸宅のあるフランスで過ごします。

友人や弟子たちに囲まれて穏やかな月日を送る中、1519年5月2日にフランソワ一世から与えられたクルー館で亡くなります。

幼くして才覚を発揮し、生前も注目を集めたダ・ヴィンチですが没後も(むしろ現代の伝説的なイメージは没後ついてきたような気がします)その評価が止むことはありませんでした。

代表作3選

『キリストの洗礼(1472-1475)』

The Baptism of Christ, c.1475 - Leonardo da Vinci

当時14歳ごろであったダ・ヴィンチが、ヴェロッキオの工房に弟子入りした時に手がけた作品です。

工房の主であったヴェロッキオとの共作であったこの作品の中で、ダ・ヴィンチが描いた部分は左下の天使、背景など主題と関係な部分でしたが、あまりに上手なためヴェロッキオが描いた主題がかすんでしまうほどに絶賛されます。

それがきっかけかは判然としませんが、ヴェロッキオはこの作品を発表した後に画家をやめてしまいます。

それほどに年齢に不釣り合いな実力を、ダヴィンチは就学経験もなしに独学で身につけていたのです。

『最後の晩餐(1495-1498)』

The Last Supper, 1495 - Leonardo da Vinci

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁に描かれた『最後の晩餐』。

新約聖書に登場するキリストが12使徒との最後の晩餐をする場面を描いたもので、420cm×910cmもの巨大な壁画ですが、実はすでにダ・ヴィンチが描いたオリジナルの部分はほとんどが失われていると言われています。

現在では修復された部分を洗浄して発見されたオリジナルの線を元にCGを用いた絵画復元がされており、その歴史的価値からユネスコ世界遺産に登録されています。

『モナ・リザ(1503-1519)』

Mona Lisa, c.1503 - c.1519 - Leonardo da Vinci

「世界一有名な女性」として呼び声高いジョコンド夫人を描いた『モナ・リザ』は、その異名通り世界で知らない人はいないほどの名画です。

この作品の著名度はご存知の通りですが、幼い頃から数々のオファーを受けて十分な名誉を得ていたダ・ヴィンチの生前にこの作品は売れなかったとされています。

この『モナ・リザ』をはじめとする多くの作品は、実際には依頼者に買い取られることはなくダ・ヴィンチ自身が引き取って加筆・修正しながら持ち歩いたと言われています。

そのことをダ・ヴィンチ自身も手稿の中で「一つとして作品を完成させることができなかった」と振り返っており、友人の少なさや作品の少なさについての弱気を吐露している箇所が見られるようです。

まとめ

「万能人」として知られているダ・ヴィンチは、絵画をはじめ建築、解剖学、占星術など様々な分野に秀でており、それらの知見を余すことなく作品に生かしています。

例えばダ・ヴィンチの描く人物が理想的に美化された人物を描く傾向にあった当時において現実的なプロポーションで描かれているのは、ダ・ヴィンチが解剖学を学び、実際に死体を解剖して得た経験と知識があってこそです。

ダ・ヴィンチの功績は絵画も含めてまだまだ紹介しきれないので、関連記事やおすすめ書籍も併せてご覧ください。

『モナ・リザ』はなぜ名画なのか の詳細は以下の記事で紹介しています!

【徹底解説】レオナルド・ダ・ヴィンチの人生と作品に迫る〜万能人ダ・ヴィンチの世界〜

ラファエロ

基本情報

本名 ラファエロ・サンティ(Raphael Santi)
生年月日 1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)
国籍/出身 イタリア(ウルビーノ)
学歴
分野  絵画、建築
傾向 盛期ルネサンス芸術
師事した/影響を受けた人 ペルジーノ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ

ラファエロの人生

1483年4月6日に、ラファエロはイタリアの小国家ウルビーノで生まれます。

当時のラファエロは父ジョヴァンニや、その仕事仲間であったウッチェロ(1397-1475)などの手仕事を目の前で見て、自身も画家になるために絵を描き始めました。

その才能は瞬く間に開花し、ラファエロは10歳にして父の絵を手伝うほどの腕前に成長しました。

幼い頃に両親を亡くしたラファエロは聖職者バルトロメオに引き取られ、わずか10歳のときに工房で働き始めます。

工房の師匠であったピエトロ・ペルジーノ(1448-1523)への弟子入りやフィレンツェでの修行を経て、独立してからは教会から仕事を引き受け、『アテナイの学堂』など有名な作品を多く残します。

独立後に自身で工房を持ってからは、多くの弟子と共作する形で作品を作る当時としては大規模な「工房システム」を駆使して驚異の作業スピードで作品を作り上げたことで知られています。

しかしその才能の代価か、37歳という当時でも異例の若さで亡くなってしまった夭折の天才としても有名な画家です。

代表作3選

『聖母の結婚(1504)』

The Marriage of the Virgin, 1504 - Raphael

新約聖書の一幕、聖母マリアと聖ヨセフの婚礼を描いた作品で、ラファエロ以前にも多くの画家が手がけたことのある普遍的なテーマです。

サン・フランチェスコ教会からの依頼で描かれたラファエロの『聖母の結婚』は、本来はペルジーノに依頼された仕事でしたが、不在であったペルジーノの代わりにラファエロが仕事を引き受けたかたちで制作されたと考えられています。

これを描くにあたり参考にしたと言われるのが、ペルジーノが同じく1504年に描いた『聖母の結婚(1504)』です。

『キリストの埋葬(1507)』

The Deposition, 1507 - Raphael

フィレンツェの修行時代に手がけられた作品がこの『キリストの埋葬』です。

ラファエロが賞賛を受けるきっかけになった作品であり、後述する『アテナイの学堂』に続くラファエロの代表作品です。

ダ・ヴィンチと同じように人体をリアルに描くために解剖学を学んでいたラファエロは、自らの知見に基づいたプロポーションにこだわり何度もスケッチを重ねています。

また、上記の『聖母の結婚』と同じようにリスペクト先とも言える参考作品があり、それがミケランジェロの『キリストの埋葬(1500-1501)』という作品です。

この『キリストの埋葬』以降、ラファエロはミケランジェロやダ・ヴィンチから受けた影響を自分のものにする機会と捉えていたようで、活動場所から「フィレンツェ時代」、または多く依頼を受けていた町の名前から「ペルージャ時代」とされます。

『アテナイの学堂(1509-1510)』

ローマに活動拠点を移したラファエロが、ヴァチカン宮殿に「ラファエロの間」をつくるべく受けた仕事で手掛けたのがこの『アテナイの学堂』です。

宮殿の「ラファエロの間」として設けられたフレスコ壁画に15あまりの作品が飾られることになり、『アテナイの学堂』はその壁画の中の一つになります。

その大きさは500cm×700cm。建物の壁画とはいえ、たった1作品でちょっとしたアパートのようなサイズ感です。

描き直しがきかないフレスコ技法で、これほど巨大な壁画をラファエロは「工房システム」を駆使することで約1年ほどで仕上げてしまいます。

まとめ

独立して20年にも満たない人生で多くの作品を残したラファエロは、37歳の若さで亡くなってしまいますが、それ以上に「作り上げたもの」「残したもの」も多く存在しています。

イタリアのあらゆるところに活動拠点を移し、変化を恐れず、師事した人へ最大限のリスペクトを捧げて新しいアプローチを模索したラファエロはまさに「職人」というべきでしょう。

若き天才職人ラファエロの原点 の詳細は以下の記事で紹介しています!

【徹底解説】ラファエロ・サンティの人生と作品に迫る〜ルネサンスに現れた若き職人〜

ミケランジェロ

基本情報

本名 ミケランジェロ・ディ・レオナルド・ブオナローティ・シモーニ
(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)
生年月日 1475年3月6日〜1564年2月18日(88歳没)
国籍/出身 フィレンツェ共和国 カプレーゼ
学歴
分野  彫刻、建築、絵画
傾向 盛期ルネサンス芸術
師事した/影響を受けた人 ベルトルド・ディ・ジョヴァンニ、マザッチョ

ミケランジェロの人生

1475年3月6日、ミケランジェロはイタリアの小さな村カプレーゼに生まれます。ミケランジェロの父は、家業として受け継いでいた銀行運営がうまくいかなかったためにフィレンツェで執務官として派遣に行っていました。

そのため家庭は裕福とはいえず、ミケランジェロは病弱な母の下を離れて乳母の家で育ちました。

14歳にしてメディチ家の庭園で彫刻作品をつくる仕事を持ち、フィレンツェで豊かな文化に触れながら実力を磨いていきました。

1494年にフランス軍がイタリアに侵攻し、活動場所だったフィレンツェから逃亡したミケランジェロはボローニャという町で仕事を再開します。

教会や聖堂から仕事を引き受けるなかでミケランジェロは『サン・ピエトロのピエタ』『ダビデ像』などの名作をつくり名を挙げました。

同性愛者疑惑のスキャンダルや、絵画へのコンプレックスに追われながらも、ミケランジェロは仕事を続け、晩年には建築など彫刻・絵画以外のジャンルにも挑戦。

1546年、71歳になるとミケランジェロは病にかかり、既に手がけていた作品を除けば数えるほどしか彫刻を手がけることはしませんでした。その他には素描を行ったり、詩集を出版するなどして創作には83歳まで向き合い続け、ローマの自宅で1564年2月18日にこの世を去ります。

代表作3選

『サン・ピエトロのピエタ(1499)』

Pieta, 1499 - Michelangelo

フランス軍侵攻による情勢が落ち着き、イタリアに戻ったミケランジェロの『眠れるクピド』という彫刻作品がローマの枢機卿ラファーレ・リアーリオの目に留まります。

そんな由縁でローマの枢機卿から依頼されたのがこの『サン・ピエトロのピエタ』です。

これをきっかけにローマの枢機卿にパイプが出来たミケランジェロはこれ以降も継続的に仕事を受けるようになり、ラファーレ・リアーリオ枢機卿は生涯最大のパトロンとも言える仲になりました。

『ダビデ像(1501-1504)』

David, 1501 - 1504 - Michelangelo

ミケランジェロが生まれる前からフィレンツェの大聖堂に預けられていた大理石を、由縁あって彫刻することになったミケランジェロが作ったのが、世界的に有名な彫刻作品『ダビデ像』です。

旧約聖書などに登場する英雄ダビデは、これまでに多くの芸術家がモチーフとしていることからミケランジェロは思案し、オリジナルのアプローチをするように努めました。

ミケランジェロが得意とする筋肉描写を最大限に活かした新時代のダビデ像は、イタリアが独立国同士の覇権争いに身を投じる情勢を英雄ダビデに重ねて国のシンボルとしてポジティブに迎え入れられました。

伝統を打ち破るという、”西洋美術史における伝統”とも言える仕草は、ルネサンス時代からすでに行われていたことがよくわかりますね。

『最後の審判(1535-1541)』

The Last Judgement, 1537 - 1541 - Michelangelo

システィーナ礼拝堂に描かれたこの作品は約6年の歳月をかけて完成しました。

キリスト教神話における”見せ場”とも言える、審判を下すキリストが死者の魂を天国と地獄により分けるワンシーンを描いたこの作品は「テリビリタ(凄まじさ)」が画面を支配しています。

そのためミケランジェロはダ・ヴィンチやラファエロなど同時期に活躍した画家を意識した解剖学的に正しいプロポーションというよりは、神話のキャラクターに相応しい誇張された肉体美を意識してあえて非現実的に描いた部分が多く見られます。

まとめ

ダ・ヴィンチと並び「万能人」の異名を持つミケランジェロですが、『最後の審判』のような超大作を手がけるほどなのに絵画には「自分の作品ではない」と言い切ってしまうほどのコンプレックスを持っていました。

仕事でもプライベートでもトラブルに見舞われることも多かったミケランジェロですが、晩年になっても筆を折ることはせず、やり方を少しずつ変えながら人生をかけて創作そのものに向き合い続けたことは、芸術家に限らず多くの人に勇気を与える生き様ではないでしょうか。

天才ミケランジェロが戦ったスキャンダル の詳細は以下の記事で紹介しています!

【徹底解説】ミケランジェロの人生と作品に迫る〜彫刻だけじゃないルネサンスの万能人〜

まとめ

いかがだったでしょうか。

ルネサンス時代の芸術は西洋美術史における転機であると共に、我々の「西洋美術」のイメージを作り上げたといっても過言ではないでしょう。

その大きな理由は『モナ・リザ』や『ダビデ像』など世界的に著名な作品が多く生まれたことにありますが、その背景には教会や聖堂から大規模な作品の依頼を受けることができたという業態、宗教絵画の最盛期にあり画面が派手でテーマがわかりやすいという命題など様々な要素があります。

現在これらの要素が下火になり、より表現方法や思想が多様化したことによって「複雑」で「難解」なアートにシフトしていきました。

しかし現在のアーティストあるいは作品は、どれくらい人口に膾炙しているでしょうか。

または、どれくらいの年月語り継がれているでしょうか。

「難解」なものはダメ、「わかりやすい」ものは良い、という意味ではなく、です。

今回は三大巨匠の人生と代表作品から、ルネサンス美術の簡単なご紹介をしました。

芸術の本質が「教養」であることを思うと、たまには原点回帰と題してこのような伝統的な芸術に触れてみると、好きなジャンルの芸術への理解も深まるのではないでしょうか。



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