皆さんは倉橋一成(issei)というアーティストをご存知でしょうか。
倉橋一成はAIとデータを用いた領域で起業した話題の起業家でありながら、既にフランスでの個展開催や英国王立美術家教会 名誉会員といったアート分野での実績を持ち、今後国内外での活躍が期待されている注目のアーティストです。
今回はそんな誰もが気になるであろう新進気鋭のアーティスト倉橋一成について、幼少期から現在に至るまで倉橋一成がどのような人生を過ごし、作品に影響を与えてきたのかを詳しくご紹介できればと思います。
倉橋一成(くらはしいっせい)について
基本情報
本名 | 倉橋一成(くらはしいっせい) |
生年月日 | 1983年2月24日 |
学歴・経歴 | 2001年 私立修道高校卒業
2006年 東京大学医学部健康科学科卒業 2011年 東京大学医学系研究科保健学博士号取得 iAnalysis合同会社 代表(現任) 東京大学医学部附属病院情報システム部 特任助教(〜2012年) 2015年 『ビジネス統計の教科書』出版 マイナビ出版 2018年 Atelier-issei アーティスト活動開始 2021年 英国王立美術家教会 名誉会員(〜2022年) 株式会社クレディセゾン CDO(Data、〜2023年) 高砂熱学工業株式会社 顧問(CDXO補佐)(現任) 2023年 FastManage株式会社 代表取締役(現任) |
分野 | 絵画 |
人生と作品
幼少期
広島県広島市の山奥で産まれました。
毎日幼稚園から返ってくるとすぐに外に遊びに出て、山の中や小川など自然の中でのびのびと遊んでいました。この時の体験が自然と抽象画にも反映されているような気がしています。
4歳頃から親の意向でピアノと空手を習うようになりましたが、どちらもやりたいことではなく、早く辞めたかったのですが、なかなか辞めさせてもらえず、結局、小学6年生まで続けました。
学校のテストはいつも100点をとっていました。常々親からは「一成は東大に行くんよねー」と言われていました。その頃から無意識に勉学に励み東大へ行く事を決めていたのかもしれません。
そんな勉学に励む中、母方の祖父が退職後の趣味で油絵を描いていて、遊びに行くときに絵を見かけていました。その当時は一緒に絵を描いたりはしなかったですが、家にも祖父が描いた絵が飾られていて、常にアートは身近なものでした。
小学3年生のときには、マッキントシュで「タワー」という、高層複合ビルを作るゲームを買ってもらい、それに熱中していましたね。1億円の元手からビルを建て、テナントやホテルを作って収益を増やし、100階建て1万人を目指す。”お金を稼ぐ” “事業を大きくする” “経営する”といった基礎になったように思います。この頃から何か一つに熱中すると徹底的に極めたいという気質があるのかもしれません。アート作品を作る際も描き始めた際には、なかなか途中で止めることはなく、一気に作品を完成させることがほとんどです。
小学校4年生頃から学習塾に行きだし、成績が伸びたこともあり中学受験を決意しました。その後私立修道学園に入学。年の離れた従兄弟から漫画のジョジョを勧められてジョジョを集め、受験勉強の傍ら読んでいました。ジョジョは、あの唯一無二の世界観をはじめ、僕に多くのインスピレーションをくれた青春の一コマですね(笑)
中学~高校生時代
修道学園は地元・広島では進学校として知られていますが、その名声に反して、驚くほど自由な校風を持っていました。ほとんど校則がなく、生徒たちは自分のペースで学校生活を送っていました。中学1年生の時、私は卓球部に入部しましたが、1年で辞めてしまいました。そして、中学2年生からは天文部に入部しました。天文部では月に1回、学校に泊まり込みで天体観測をするイベントがあり、それが楽しみでした。友達と遊べるのも、その選択の大きな理由でした。
当時はちょうどプレイステーションが登場した時期で、ゲームが私の主な趣味でした。中学1年生の時に美術の授業でアニメ映画「アキラ」を鑑賞し、アニメ文化に触れる機会がありました。中学3年生になると、ケーブルテレビでメタルバンドのメタリカを見て、洋楽に興味を持つようになりました。TSUTAYAで様々な洋楽CDを借りて聴き、特にレッド・ホット・チリ・ペッパーズやニルヴァーナを気に入りました。友人たちとも洋楽の話で盛り上がっていました。漫画も好きで、友達との間で色々な漫画を貸し借りしていました。学校帰りには毎日ブックオフに立ち寄り、多くの漫画を読んだり集めたりしていました。中学3年生の時、文化祭で「エヴァンゲリオン」を見たり、友人から「ガンダム」を勧められたりして、アニメにも興味を持ち始めました。美術の授業では初めて油絵に挑戦しましたが、当時の評価はそれほど高くありませんでした。
修道学園では、高校生になるとさらに自由な雰囲気が増し、私服で登校することができました。私は髪を茶髪や金髪に染め、洋楽の影響でドラムを少し習いました。そうやって自己表現、自分探しをしていたように感じます。
中学1年生の時はテストで学年11位という成績でしたが、高校になると成績は下がり、100位以下に落ちてしまいました。志望校は東京大学でしたが、高校3年生の時の担任から「この成績では東大は無理だ」と言われ、それをきっかけに勉強に真剣に取り組むようになりました。参考書を多数購入し、睡眠時間を削って受験勉強に専念しました。その結果、夏休み明けの模試では学内4位になり、東京大学合格の可能性が見えてきました。しかし、その後はまた勉強から離れ、近くに住む友人の家に入り浸り、ゲームや麻雀で時間を過ごしました。今考えると、東大に合格すること自体よりも、東京での新しい生活に興味があったんだと思います。東京には何か大きなことを成し遂げられるかもしれない、という期待が当時の僕にはありました。その期待が自分のモチベーションとなり、東京大学に合格することができました。
東京大学時代
高校時代に勉強を頑張って、東京大学に入学したものの、正直な話、授業はあまり楽しめませんでした。友人との関係もそれほど深まらず、孤立気味でしたね。(苦笑)
そんな中でも、哲学や宗教に興味を持ち、特に仏教の浄土真宗について学びました。
一人暮らしを始めると、すぐにバンド活動も始めました。バンドのメンバーやバイトで知り合った友人がしばしば我が家に居候していました。大学については、5月頃から退学を考え、実際にはほとんど通っていませんでした。自分はもともと怠惰な性格で、退学届を出すこともありませんでした。しかし、1年目の秋から冬にかけて居候していた友人に「東大は簡単に行けるものではないから、卒業しておいた方がいい」と助言され、大学を再スタートしようと決心しました。
この時期から高校時代の美術部の友人と遊ぶことが多くなり、油絵の描き方を教わりました。最初に描いた作品は「光の起源」でした。この作品を見た友人は、「個展の絵もこんな感じだ」と評価してくれました。彼は原宿で個展を開催していました。その時はそれほど深く考えず、暇な時や気分転換したい時に絵を描いていました。
大学生活は特に楽しいものではありませんでしたし、ギリギリで単位を取得していました。学部2年生の時、進振りという学部学科選択の際に、自分の条件で医学部健康科学科に進むことができると分かりました。医療や健康分野は常に役立つと思い、その学科を選びました。この学科の学生は自由な性格や雰囲気の人が多く、友人として楽しく過ごせました。スロットやパチンコにもよく行き、学校に行く前にパチンコ屋をのぞいていました。その時期、医療統計学の授業に出会い、麻雀やスロットでの確率計算が好きだったこともあり、学問としての面白さを感じるようになりましたね。
学部3年生時には就職活動についての情報を全く知らなかったので、消去法として大学院に進学することにしました。修士論文では遺伝子データの分析をテーマにし、健康科学コースで最高の評価を得ることができました。その後、博士課程に進学しましたが、修士・博士時代も学校にはほとんど行かず、データ分析を行う会社で働き、収入と実務経験を積んでいました。厚生労働省の研究班にも参加し、医師への統計解析アドバイスやコンサルティングの基礎を築きました。
その成果とも言えるのか、博士号では、機械学習・AIに関するテーマで高い評価を受けました。病院のデータ分析プロジェクトに携わり、分析官として活動していました。プロジェクトが独立するタイミングで、自身も独立し、iAnalysis合同会社(アイアナ)を設立しました。同時に、東京大学医学部附属病院(東大病院)の面接に合格し、特任助教として務めることになりました。
社会人時代
博士号を取得した後の主な活動は、東京大学医学部附属病院(東大病院)での勤務でした。私の役目は、病院の電子カルテ情報を分析し、興味深い研究テーマを探求することでした。この時期にデータベースやウェブアプリケーション開発に関するプログラミングやサーバー管理のスキルを学びました。東大病院で働きながらも、私が創業したアイアナに関する引き合いが多く、データ分析やコンサルティングの仕事も手掛けていました。この時代は、ビッグデータが注目され始め、データサイエンティストという職業が台頭してきた時期でもありました。私はデータサイエンティストの先駆者として、セミナーや各種メディアに登場し、データサイエンティスト協会の発起人として業界の成長に貢献した自負があります。アイアナの業務が増えるにつれ、最終的には東大病院を辞職しました。
私は多岐にわたる業種や業界でデータ活用のコンサルティングを行い、『ビジネス統計の教科書』という本も出版しました。この時期からNTTドコモからの依頼が増え、他の案件を縮小してドコモの案件に集中するようになりました。ドコモの契約者のLTV(ライフタイムバリュー)計算式を開発し、全契約者のLTVを計算して全社員が確認できるシステムを構築しました。ドコモに4〜5年集中した後、資金的に余裕が生まれたため、コンサルティング業務を縮小し、休息期間を設けました。その時、何をしようかと考えていたところ、アイアナの共同経営者であった役員から「絵が上手だから油絵を描いてはどうか」と勧められたことがアートをより私の人生の一部とするきっかけとなりました。その役員は幼い頃から有名画家ミズテツオに師事し、特にヨーロッパの油絵に詳しかったのです。中学時代に描いた私の絵も、その役員は上手だと思ってくれていたようです。
アーティスト時代
参考画像
インタビューを終えて
日本の最高学府である東京大学医学部博士課程を修了し、その後、有名企業での顧問、データ×AI事業での起業という”アカデミック”と”ビジネス” と両方のエリート街道を突き進んでこられた倉橋さん。
そんな多忙な中でも、続けてこられたアート活動ですが、今回のインタビュー中の会話で、ボソっとおっしゃった
「アートで得る喜びは、他とは全く違ったんですよね。何にも変え難いですね。きっとこの先もアート活動は生涯続けるんでしょうね。」
というお言葉がすごく印象的でした。
“アカデミック”と”ビジネス”で評価を得てきた倉橋さんの”アート”の挑戦から目が離せません。