【徹底解説】「真珠の耳飾りの少女」で知られる光の魔術師フェルメールの作品と生涯

みなさんこんにちは!

ユアムーン編集部です。

突然ですが、みなさんは『真珠の耳飾りの少女』を見たことがあるでしょうか?もしかしたらテレビや新聞、なかには実物を見たことがあるという方もいらっしゃるかもしれませんね。吸い込まれそうな瞳やその題名にもなっている耳飾りが印象的な作品で、フェルメールブルー等で知られています。

この絵を描いたフェルメールとはどのような人物だったのか、他にはどのような作品を描いていたのかを探っていきましょう!

フェルメールとは?

The Girl with a Pearl Earring, c.1665 - Johannes Vermeer

フェルメール 基本情報

本名 ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)
国籍/出身 ネーデルラント連邦共和国、デルフト
(現在のオランダおよびベルギー)
生誕 1632年10月31日
死没 1675年12月15日(43歳)
分野/芸術動向 オランダ黄金時代/バロック絵画
関連・公式サイト Een ontdekkingstocht door het leven van Johannes Vermeer (vermeerdelft.nl)

Een ontdekkingstocht door het leven van Johannes Vermeer (vermeerdelft.nl)

オランダ黄金時代とは

1588年、ネーデルラント北部の地域、現在のオランダに該当する部分は共和国としてスペイン・ハプスブルク家に支配下から実質上の独立を果たしました。その背景には宗教的な反目があり、新生オランダ共和国は教会内を宗教画で飾ることを良しとしないプロテスタント(新教)を献じることになります。また、独立時に指揮を執ったのはオラニエ公でしたが、独立後のオランダ社会の中核は王侯貴族ではなく、富裕な市民層によって担われてきました。

したがって、17世紀オランダの画家たちは教会と王侯貴族という当時主要であった依頼主からの依頼を期待できない状態で、自ら買い手を開拓していかなければならなかったのです。

さらに、この時期に画家を志す者はたいてい6年の修行期間を必要としていました。修行内容としては、顔料の準備やキャンヴァスの張り方を始め、デッサン、構図、彩色などの制作工程があります。多くの画家のたまごたちは、基本を会得すると最後の1~2年は違う師のもとでさらなる研鑽を積んだり、助手として制作に加わったりしていました。自分の作品に署名を入れ、注文を受けて絵を販売できるようになるのは、聖ルカ組合という画家組合に登録してからのことでした。

フェルメールの師を特定できる史料は存在しておらず、過去には「デルフト市誌」でその跡を継ぐと書かれたカーレル・ファブリツィウスや、史料からフェルメールの家との行き来が確認できる同郷の画家レオナールト・ブラーメルが候補として挙げられることもありました。

17世紀オランダの画家たち

フェルメール以外にも、17世紀オランダが生み出した画家は少なくありません。そんな彼らについても少し触れていきましょう。

  • フランス・ハルス(1581~1666)
    オランダ市民の肖像画を描いていたことで知られています。大胆な筆触も特徴的です。
  • レンブラント・ファン・レイン(1606~1669)
    主に物語画や肖像画の制作に取り組みました。人物のわずかな感情の変化を描き出すことを得意としており、その評判は国外にも広まっていきました。後進の画家たちの育成にも尽力しました。
  • ヤーコプ・ファン・ライスダール(1628~1682)
    オランダの風景を劇的に表現し、風景画に多くの優作を残しました。

経歴と作品

物語画家を目指し模索する日々

フェルメールは、15歳頃にデルフトを出て絵画の修行を始めたと考えられています。1652年に父親が亡くなったのを機にデルフトに戻ると、翌年1653年の12月29日にデルフトの聖ルカ組合に加入し、一人前の画家として1歩を踏み出しました。まずフェルメールが目指したのが、物語画の専門画家になることです。イタリアの人文主義の伝統によると、優れた画家は豊かな構想力をもって神話や聖書、歴史、もしくは何かしらの寓意を表す作品を制作するべきとされてきたようで、この考え方はオランダにも浸透していました。ちなみに、レンブラントもこの美術理論にしたがって物語画家となった画家の1人です。

王侯貴族のいないオランダでは物語画の注文はあまり多くありませんでした。しかしフェルメールが画家として修行を重ねていた頃、ちょうどアムステルダムの新市庁舎が建てられたりハーグに総督の別邸ハイス・テン・ボイスが新築されたりしたため、物語画の需要がにわかに高まっていました。

『マリアとマルタの家のキリスト』(1654~1655年)ナショナル・ギャラリー蔵

フェルメールが初めに取り扱ったのは宗教画でした。世俗的な主題が人気を呼んでいたオランダでも、野心的かつ才能のある画家は伝統的な物語画で権威となりたいと思う傾向がありました。よってフェルメールの才能も自他ともに認められていたことがわかります。

『マリアとマルタの家のキリスト』は、16世紀以来流行してきた厨房図との関連で、フランドルでは特に好まれたテーマでした。キリストやマリアなど、各人物の姿勢きはエラスムス・クウェリヌスの作品の影響が感じられますが、フェルメールはクウェリヌスとは異なり、全体的に大胆で波のような筆触で描いています。この筆触はファン・カウエンベルフの作品にも見ることができます。一方でフェルメールの作品は光を利用しながら画面いっぱいに人物を描いている特徴もあります。

初期のフェルメールが様々な画家の作風を参考にしながら独自の画風を探っていました。しかし赤・青・黄の三原色と白を主に使い、限定されたモチーフを用いるという特徴がすでに現れていることにも注目したいところ。

『ダイアナとニンフたち』(1655~1656年)マウリッツハイス美術館蔵

先ほどの『マリアとマルタの家のキリスト』と同時期に描かれたにも関わらず、その筆致は大きく異なります。こちらではヴェネツィア派を彷彿とさせる屈折した彩色が丁寧に施されています。これほど異なった様式で描くことは大変珍しく、特に自身の画風を確立させ周囲に印象づける必要のあった若年期の画家には見られない傾向でした。

また絵の構図にはヤーコプ・ファン・ローの作品の影響が見られます。

風俗画家への転向

デルフトを長いこと拠点としていたフェルメールですが、この小さな街で物語画家として大成することはとても難しいことでした。

1656年頃、フェルメールは風俗画家への転向を決めました。周囲の風景画の作例から構図や憧憬の描き方を学び取ったフェルメールは、それらの要素を取り入れながら新たな可能性への挑戦を続けていきました。

『窓辺で手紙を読む女』(1658~1659年)ドレスデン絵画館蔵

ひっそりと静謐な空間のなか、手元に視線を落とす女性。手にした手紙には一体どのような内容が記されているのでしょうか。

質感の描写はより繊細に、構成はより合理的に、フェルメールらしい風俗画が確立していったことがわかります。点描による反射光に対する意識も強くなっています。画面右側の緑色のカーテンは教会室内画によく見られるモチーフですが、ここでは画面左側の窓との釣り合いを取り、空間の凝縮性を高める役割を果たしています。

今年東京都美術館や大阪市立美術館など、国内各地で開かれた「ドレスデン国立古典絵画所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」でも注目されていましたが、X線を用いた研究により、この絵の後ろの壁にはもともと大きなキューピッドの絵が描かれていたことがわかっています。近年までこのキューピッドはフェルメール自身の手で消されていたとされてきましたが、実は彼の死後に何者かによって消されたことが判明しました。話題の画中画には愛の神であるキューピッドが嘘や欺瞞のモチーフである仮面を踏みつける様子が描かれており、誠実な愛の勝利を示しているといえます。もしかしたら女性の読む手紙も、愛の勝利、愛の成就について書かれているのかもしれません。

『牛乳を注ぐ女』(1658~1659年)アムステルダム国立美術館蔵

むき出しの土間の台所や、釘を刺した跡の残る壁、割れた窓ガラスの隙間から差し込む日の光。質素な衣服を身にまとい、水仕事で荒れた手で牛乳を注ぐ女性。描かれているのは一見ありふれた日常ですが、引き算の美学により必要最低限のものが置かれた空間で女性が圧倒的な存在感を放っているのには、色彩・形・構図の力が大きく関わっています。

この作品では光によって見た者の視線が消失点のあたりに向かうように処理されています。絵の中のモチーフそれぞれに丁寧反射光が描き込まれていますが、籠とパンに描かれた光の粒は別物です。これらは実際に存在する光ではなく、ここに光を描くことで周りを明るくし、視線を集めたいというフェルメールの思いが現れているのです。

色彩描写もフェルメールの魅力の1つです。たとえば窓に近い壁を暗く、窓から遠い壁を明るくすることで人物がはっきりと際立つように描かれています。三原色とその類似色、そして緑と白に色の数を限定し、補色効果も利用しながらそれぞれの色を印象づけるのは、フェルメールならではの手法ともいえるでしょう。

『デルフト眺望』(1659~1660年)マウリッツハイス美術館蔵

ここに描かれているのはデルフトの玄関口ともいえる南側の港です。朝の風景でしょうか。時計の針が指している時刻は7時10分過ぎ。やや灰色がかった雲の下、港には定期戦に乗るのであろう人々の姿が見られます。対岸に見えるのは、ロッテルダム門(右側)、スヒーダム門(左側)、そしてゴシック建築の新教会と古協会の尖塔(画面奥)です。現在ロッテルダム門とスヒーダム門はなく、このデルフトの光景はもう絵の中でしか見られないものとなっています。

時代の変化による影響

1660年代はフェルメールが自身の画風を確立させ、さらにそのバリエーションに工夫を重ねていった時期です。当時のオランダ画家たちは、経済の動向に左右されやすい美術市場というマーケットに向けて仕事をしていました。こういった場で買い手を見つけるため、フェルメールは他の画家との差異を意識した作品作りを行っていました。柔らかな光に包まれた空間で女性がときに家事をし、ときに音楽を嗜む様子を描いた作品は、一目でフェルメールのものとわかります。しかし彼は空間の切り取り方に工夫を凝らし、味わいや型はそのままに、同じ構図を繰り返さずにバリエーションを変えていきました。

『真珠の耳飾りの少女』(1665~1666年)マウリッツハイス美術館蔵

フェルメールが描いたトローニーは2点伝わっていますが、この『真珠の耳飾りの少女』もその1つです。トローニーとは不特定の人物の胸あたりから上を描いた作品のことです。初めは物語画の部分習作として制作されていましたが、やがて完成作として広まりました。肖像画と異なる点は、画中の人物に強い意思や人間臭さがあまり感じられないところです。

大きな真珠の耳飾りをつけた少女がただこちらを見つめているだけ。しかしぱっちりと見開かれた瞳や半開きの唇からは、まるで少女が本当に目の前に存在し、今しがたこちらを振り向いたかのような臨場感が漂っています。限定された色数、暗く抑えられた背景により際立つよう人物像も場の匿名性を高めています。

暗い背景にぽつんと佇みこちらを見つめる少女は、その場にいるようでどこか空想的な存在であるような、不思議な雰囲気をまとっています。

再び訪れた模索の時代

最晩年、1672年のフランス軍侵攻による仕事のサイクルの変化や家庭内の金銭的問題に追われていたフェルメールの目前には、同じ頃オランダの風俗画全般における顧客たちの好みの変化も立ちはだかっていました。

この大きな時代のうねりに対して、風俗画家たちはどのように対応していくか苦悩と模索の日々を送りました。

『ヴァージナルの前に立つ女』(左:1669~1671年)/『ヴァージナルの前に座る女』(右:1675年)

『ヴァージナルの前に座る女』はその5年ほど前に制作された『ヴァージナルの前に立つ女』の対作品とされています。どちらの作品も場面設定やキャンヴァスの大きさはよく類似しており、対作品としての条件も整っています。しかし注目したいのは2作品の様式が大きく異なっていることです。双方に描かれたちょうちん袖や画中画の金色の額縁を見てみましょう。『ヴァージナルの前に立つ女』は質感を緻密に表現していますが、『ヴァージナルの前に座る女』には平板なルーティンワークが見られます。この平板さこそが、『ヴァージナルの前に座る女』が最晩年作品に位置づけられる由縁です。

遺された人々と作品

『兵士と笑う女』(1658年)

1675年12月15日、フェルメールは妻カタリーナの実家で息を引き取りました。現存作品が32~36点とされていることから、全制作点数は55〜60点ほどだと推測されます。とすると、画家としての活動期間が22年だったため、年間制作数はわずか2~3点と考えられます。

しかし、フェルメールの死から5ヶ月後、カタリーナは自己破産を申請します。この理由には、1672年のフランス侵攻以降、フェルメールはほとんど無収入になってしまったことが挙げられているそうです。結局カタリーナは、10人近い子どもたちを育てあげるためあれこれと苦労の続く日々を送りました。実家の財産を債権者から守り、そのすべてが子どもたちのもとへいくように手を打ったのもこのためでした。

『紳士とワインを飲む女』(1658年)

カタリーナの死後、彼女の実家の財産は無事子どもたちの手に渡りました。カタリーナの実母はかなりの資産を保有していました。事情があってカタリーナのものにはならなかったものの、生前のフェルメールが制作にのんびりと没頭することができたのはこの実母の支えがあったからでしょう。

フェルメールが亡くなってからおよそ20年後の1696年、アムステルダムで21点のフェルメール作品が売りに出されました。このように作品がまとめて所蔵されると画家の名前は浸透しづらく、18世紀初めの美術界でフェルメールはほとんど知られていない状況でした。19世紀に入ると、17世紀絵画を回顧する風潮が高まったためか彼の名前はオランダの画家列伝に記載されるようになります。

しかしオランダどまりだった彼の知名度を引き上げたのが、フランス人批評家のトレ=ビュルガーでした。1866年、彼はフェルメールに関する初の本格的な論文を発表したのです。このことがきっかけで、フェルメールの名前は世界中に広く知られることとなりました。それに比例してフェルメール作品の価値も上昇し、未発見の作品を探そうとする動きが盛んになっていきました。

まとめ

いかがでしたか?

今となっては世界中に名の知れたフェルメールですが、そんな彼がどのように多くの人に知られていったのか、そして多くの人を惹きつける独自の作風を築き上げていったのか、おわかりいただけたでしょうか。

作品数は少ないながらも、一度見たら決して忘れられないフェルメール作品。

まだ作品を見たことがない方も、ぜひその魅力に触れてみていただきたいです!

おすすめの書籍など

『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい フェルメール 生涯と作品 改訂版』

フェルメールの生い立ちに沿って彼の作品を知ることができます。フェルメール入門におすすめの一冊です!

『中野京子と読み解く フェルメールとオランダ黄金時代』

フェルメールはもちろん、17世紀オランダで活躍したその他の画家たちの作品も交えながら、時代やモチーフなどのあらゆる角度から当時の作品を深掘りすることができます。


『フェルメール 作品と画家のとっておき知識』

画中のモチーフや技法などがひとつひとつ丁寧に解説されています。これを読めば美術館の予習はばっちりです!



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