【徹底解説】マックスフィールド・パリッシュとは?イラストの黄金時代に活躍したイラストレーター

こんにちは、ユアムーン編集部です。

皆さんは「マックスフィールド・パリッシュ」という人物をご存知でしょうか?

パリッシュはアメリカの画家、イラストレーターで、幻想的なスタイルでアメリカン・イラストレーションの黄金時代を築いた20世紀を代表するアーティスト・イラストレーターです。

今回はそんなマックスフィールド・パリッシュの人生と作品についてご紹介します!

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マックスフィールド・パリッシュってどんな人?

本名 フレデリック・パリッシュ(Frederick Parrish)
生年月日 1870年7月25日
出身 アメリカ ペンシルベニア州 フィラデルフィア市
学歴 ハヴァフォード大学, ペンシルベニア美術アカデミー, ドレクセル美術大学
分野 絵画, イラストレーション

経歴と作品

生まれと環境

1870年7月25日、アメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアにて、キリスト教プロテスタントの一派であるクエーカー教徒の裕福な家庭にマックスフィールド・パリッシュは誕生します。

画家、製図家として名高かった父親は、5歳の頃から芸術的才能を開花させたパリッシュの能力を認め、早くからその才能を伸ばすための指導を行なっていきました。

また1877年まで文房具店を経営していた父親は、パリッシュに芸術だけでなくビジネスの教育も行い、幼少期から少年期にかけて父親がパリッシュに与えた影響は生涯を通して大きいものであったように思われます。

ヨーロッパの芸術と文化に触れるため、父親と共にヨーロッパを訪れると、パリッシュは巨匠たちの作品や古典建築にインスピレーションを受けます。彼の芸術スタイルであり、多くの作品のテーマとなっているユートピア的な雰囲気はここから影響を受けたとされています。

大学での勉学と結婚

1888年にハヴァフォード大学に入学すると、2年間在学し、その間は建築設計と風刺画に熱中します。ハヴァフォードの自然と触れる授業を通してパリッシュは自然への愛が生まれ、その愛情は風景画を通して表現されることになります。

建築よりも美術を学ぶことを選んだパリッシュはハヴァフォード大学を去った後、父親の勧めもありペンシルベニア美術大学に入学し、厳格なプログラムのもとで美術を学びます。

1895年のペンシルベニア美術大学の展覧会では、「この学校の中で、この国の中で、最も輝かしく素晴らしい装飾画家の1人」と表現されるほど一つ頭の抜けた存在だったようで、「彼の作品はすべて、急速に需要が高まることは間違いないだろう」とまでも言われていたようです。

ペンシルベニア美術大学での課程を終えると、次はドレクセル美術大学に入学しますが、ドレクセル美術大学ではあまりのパリッシュの芸術スキルの高さに、「彼に教えられることはもう何もない」と言われます。

ドレクセル美術大学では、後の妻となる「リディア・オースティン」と出会います。彼女も同じくクエーカー教徒で芸術家という共通点があり、2人は1895年6月1日に結婚します。

知名度が向上し、大衆からの人気が高まる

結婚式を行なった数日後、パリッシュは2ヶ月間1人でヨーロッパの旅に出発し、現地で見た芸術についてリディアに長い手紙を書いたようです。

MOTHER GOOSE IN PROSE
MOTHER GOOSE IN PROSE

旅から戻ると、パリッシュは仕事に没頭しレストランのメニューから広告など、さまざまなイラストの仕事を引き受け、1895年には雑誌「ハーパーズ・バザー(Harper’s Bazaar)」の表紙デザインを手掛け、1897年には童話「散文のマザーグース(MOTHER GOOSE IN PROSE)」で初めての本の挿絵の契約を受け、大衆への認知が高まり、契約や仕事が次々と舞い込むようになります。

これらの仕事の成功を持って、パリッシュのイラストレーター業が軌道に乗ると、パリッシュ夫妻はニューハンプシャー州コーニッシュに邸宅を建て、パリッシュはこの邸宅を「ザ・オークス」と名付けました。

パリッシュブルーの開発

1900年、パリッシュは結核にかかり一時衰弱状態に陥りますが、それでもなお絵を描き続け、やがて美しく鮮やかで透明感のある青色を使用した作品を多く制作するようになります。

このパリッシュが使う青色は、彼の名前にちなんで「パリッシュ・ブルー」と言われるようになり、彼の作品の特徴の一つです。

病気から回復すると、童話などの挿絵以外の大きな仕事も受けるようになります。

Summer (1908)
Summer (1908)

4人の子供がいたパリッシュは1905年に16歳の「スーザン・ルウィン」を子供達の乳母として雇い、彼の作品のモデルになります。やがてパリッシュはスーザンと共にアトリエに移り住み、妻のリディアは子供達と共にザ・オークスに住むという生活形態に変わり、スーザンはパリッシュをサポートする生涯のアシスタントとなりました。

『夜明け(Daybreak)』(1922)

パリッシュの最も有名な作品は1922年に描かれた『夜明け(Daybreak)』です。

この作品は、美しいパリッシュ・ブルーを基調としており2人の女性の姿が描かれています。2本の柱と、2人の女性のポーズ、木々、湖と遠景の山々のバランスが見事に調和しており、とても美しいバランスになっています。

この作品の人気を受け、パリッシュは1925年に作品展を開催し、他の2点の作品とともにそれぞれ、1万ドルで落札され、大きな利益を得ることになります。国立アメリカン・イラストレーション美術館はこの作品を「20世紀で最も成功したアートプリント」と表現しました。

また『夜明け』は2006年に再度落札され、今度は760万ドルで落札されました。

パリッシュは、作品をアートプリントやカレンダーとして販売することを好み、大量に複製された彼の作品は当時のアメリカの全世帯の4分の1がパリッシュの作品を壁に飾っていたと言われています。

パリッシュが特に活躍した1880年代から1920年代にかけては、広告、雑誌の表紙、絵本、カレンダーなどを通じてファインアートが大衆に広く親しまれるようになった時代で、アメリカン・イラストレーションの黄金時代とも呼ばれていました。

世界恐慌が起こった際には、パリッシュの作品はすでに大衆向けの芸術という立場を確立しており、すでに人々の家にあった彼の作品は幻想的で美しく、当時の悲惨な現実から逃れ、癒しを得る手段としても人気を博したようです。

風景画にシフト 〜 晩年

At Close of Day (1941)
At Close of Day (1941), ©︎ Maxfield Parrish, WIKIART, https://www.wikiart.org/

世界大恐慌後、パリッシュは風景画に専念し、これまでの作品ほどではありませんでしたが、生計を立てられるほどの利益を風景画で得ていくことになります。

風景画になっても、彼のパリッシュ・ブルーの美しさや描画の精巧さは健在で、80代後半に関節炎で絵が描けなくなるまで作品を作り続けました。

晩年は車椅子で過ごし、パリッシュは1966年の3月にザ・オークスにて95歳で亡くなります。

まとめ

いかがでしたか?

今回は、イラストの黄金時代を築いたイラストレーター「マックスフィールド・パリッシュ」についてご紹介させていただきました。

彼の作品は色彩、構図、タッチどれをとっても美しく、これらのスキルの基盤はやはり幼少期から少年期にかけての父親の教育が大きな影響を与えているのではないかと感じます。

彼の作品が2006年に760万ドルで落札されたというのは驚きですが、1920年代のアメリカの全世帯の4分の1が彼の作品を家に飾っていたというのも、同じくらい衝撃を受ける事実ですね。

パリッシュについて気になった方は、さらに深掘りしてみてはいかがでしょうか?



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