こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはポール・セザンヌという人物を知っていますか?
セザンヌは20世紀のフランスを代表する画家で、その功績と影響は西洋美術史を通しても大きくしばしば「絵画の父」「近代芸術の父」と評されます。
セザンヌは同時期の画家モネやルノワールと共に印象派画家として活動していたポスト印象派として知られますが、グループを離れてからはむしろ絵画の約束事を打ち破るような独自の表現方法を模索していたこともあり作風は一言では表現できない多彩さを持つ奥深い作家としても有名です。
本記事ではそんなセザンヌの生涯と作品についてご紹介します。
ポール・セザンヌとは
基本情報
本名 | Paul Cézanne, |
生年月日 | 1839年1月19日〜1906年10月23日(67歳) |
国籍 | フランス |
セザンヌの生まれと環境
田舎の文学少年
セザンヌは1839年に南フランスの古都、エクス=アン=プロヴァンスで生まれました。ここは首都パリからほど遠く、当時は公的な美術界から隔絶された、いわゆる田舎のような場所だったといえます。セザンヌは20代で初めてパリを訪れますが挫折して故郷に戻ることとなり、その後も生涯を通してパリと南フランスを行き来して暮らします。
フェルト・ハットの自画像(1894)
セザンヌの故郷であるエクス=アン=プロヴァンスは、パリから離れた郊外でありつつも、新しい州政府が設立された時期からは人口が増え、エクス派という独自の流派が生まれるほど賑わいのある土地でもありました。地元の美術館に足しげく通い、ルイ・ファンソン(1570-1617)、ジャン・ダレ(1613-1668)の作風に触れていたセザンヌは、初期の作品には2人の影響が見られる部分もあります。
作品と経歴
画家としての出発と挫折
帽子屋ののちに銀行家として成功した父の家に生まれたセザンヌは、いわゆる地方のブルジョワ家庭の長子として幼い頃から伝統教育を受け、語学や文学を得意とし、とりわけ詩を書くことに精力的に取り組んだとされます。
1854年にセザンヌは、学友であったエミール・ゾラ(1840-1902)の影響でデッサン教室に通うようになり、芸術家としての第一歩を踏み出します。
5ヶ月のパリ
先立ってパリへ引っ越したゾラに背中を押される形で、セザンヌは1861年、22歳の時にパリを訪れます。
当時のパリはナポレオン三世の政策により、近代都市化に向けて大変革の時期を迎えていました。せわしのない都会の喧騒に揉まれながらも、セザンヌはウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)やギュスターヴ・クールベ(1819-1877)に影響を受けて画家としての活動を始めます。
ジョゼフ=フランソワ・ヴィルヴィエイユ(1829-1915)のアトリエで制作をしていたセザンヌは、伝統を重んじる当時のサロンを批判しつつも、なかなか画家として認められない自身に落胆し、ついにゾラの反対を押し切り1861年に故郷であるエクス=アン=プロヴァンスへ帰ってしまいます。わずか5ヶ月のパリ滞在でした。
ミルのある家(1860)
出典:Landscape with Mill,wikiart,https://www.wikiart.org/
挫折からの復帰
セザンヌは故郷で父の銀行を手伝いながら、いくつかの習作を残しています。この頃の作品は「痛々しいほど正確な」デッサンと「大胆な試みが繰り返された」風景画と評され、ひたすら冷静に技術を高めようとする気持ちと、努力が結実しない不安から逃れようと模索する気持ちの葛藤が伺えるようです。ゾラとの文通をつうじて野心を再燃させたセザンヌは1862年に、再びパリへ赴きます。
セザンヌはパリに戻るとただちにカミーユ・ピサロ(1830-1903)に師事しながらアカデミー・シュイスという画塾に加わります。
故郷プロヴァンスでの習作から見られた、強い色彩的対比による表現は後のセザンヌの作品を特徴付ける形態の一つにもなります。一方、画学生の仲間の多くは、他人の評価に傷つきやすいセザンヌを「皮を剥がれた男」と嘲笑することもあったようで、この試みも当時は認められることがなかったようです。
「皮を剥がれた男」からの脱却
1862年にセザンヌは当時のパリ美術家の登竜門とも言える公立美術学校を受験しますが、落第します。翌年の1863年にサロンへ応募しますがこれも落選。しかしセザンヌはひるむようすもなく、1865年から1868年にかけては毎年サロンへ応募を続けては落選を繰り返します。
努力が結実しないながらも野心的な作品をサロンへ訴え続けるその姿にかつて「皮を剥がれた男」と評された様子は、いつの間にかなくなっているのでした。
サロンへの反抗
1860年代末にはセザンヌは、パリの前衛芸術家の間で伝説的な存在になっていました。その理由はサロンへの反抗心だけでなく、身なり口調からも都会に馴染めないさまにも端を発しており、それはまるで自分の存在そのものが当時の若き芸術家の反抗を表しているようでした。
その姿勢は作品にも顕著に出ており、当時の作品の多くは絵具を打ち付け掘削するかのように描かれ、その主題は殺人や死など暗く生々しいものでした。
殺人(1868)
出典:The Murder,wikiart,https://www.wikiart.org/
これらの傾向はサロンに認められる無味乾燥なものを嫌っただけでなく、当時のフランス文学や大衆ジャーナリズムを反映しており、前衛的でありながら一貫した芸術的戦略の上に立ったものだと評価されています。
印象主義への道
印象派との出会い
1870年代、セザンヌにとって大きな変化の時期が訪れます。フランス第三共和政が発足する頃になると、同棲していた女性オルタンス・フィケとの間に子をもうけ、ピサロとイーゼルを並べて制作するようになります。このときセザンヌに影響を与えた「印象派」との出会いは、クロード・モネ(1840-1926)やエドガー・ドガ(1834-1917)らが開いたグループ展への出品がきっかけでした。
モデルヌ・オランピア(1874)
出典:A Modern Olympia,wikiart,https://www.wikiart.org/
後に第一回印象派展とよばれるこのグループ展にセザンヌは『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3点を出品します。大衆からは厳しく酷評された一方、出版社に就職した友人のゾラがセザンヌの作品を無署名記事上でフォローし、『首吊りの家』はアルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられるなどセザンヌにとって、ひとつの努力の結実を見る成果を得たのでした。
首吊りの家(1873)
出典:The Hanged Man’s House in Auvers (The House of the Suicide),wikiart,https://www.wikiart.org/
『収穫』で得たもの
セザンヌの作風が大きな転換点を迎えたことが伺える作品が『収穫』です。今までの、薄暗い欲望が発露した裸婦でも、かたく物質的なコントラストの風景画でもない、人物を伴い、生気に満ちた風景画であるという点で例外的な作品のひとつです。この絵はおそらくはアトリエで描かれた、想像による風景画とされていますがそのモチーフはセザンヌの故郷である南フランス、エクス=アン=プロヴァンスだという特徴が見て取れます。
この絵はファン・ゴッホ(1853-1890)やパブロ・ピカソ(1881-1973)などのビッグネームに絶賛され、「他のすべての絵が色褪せて見えた」と評価されましたが、好敵手に才能を買われていたことへのセザンヌの気持ちは正直なところ複雑なものだったでしょう。
「林檎の画家」
セザンヌはこの頃になると、初期の、暗く衝動的なロマンティシズムを総括するような肖像画や静物画を多く残しています。中でも果物を豊かな色調と洗練された秩序の有る構図で捉えた習作の数々から、セザンヌは後年「林檎の画家」として有名になります。
林檎(1878)
出典:Apples,wikiart,https://www.wikiart.org/
環境の転換期
プロヴァンスへの回帰
1880年代になると、セザンヌは印象派が時代の変化とともにそのスタイルを鈍化させていくことに疑問をいだき、ピサロらとの親交は保ちつつも第四回印象派展以降はグループ展に参加せずにサロンへの応募を優先させていました。変わらずサロンへの応募は、1882年に『L・A氏の肖像』が入選した以外は落選続きでしたが、むしろセザンヌはプロヴァンス風景を主とする風景画に集中し始めました。
プロヴァンスの山々(1890)
出典:Mountains in Provence,wikiart,https://www.wikiart.org/
ゾラとの別れ
1886年に17年の同棲を経てフィケと結婚。同年に父が死去し、40万フランの遺産を継いだことで経済的な不安がなくなった一方で、長くセザンヌを導き支えた友人であるゾラが発表した小説『作品』をきっかけに、セザンヌとゾラの親交は鳴りを潜めることになります。この小説にはセザンヌをモデルにしたであろう主人公が、印象派として活動し、目まぐるしい競争社会と美術界の批評から芸術的失敗を経験するというもので、これを受け取ったセザンヌはゾラにそっけない礼状を送ったのを最後に、今までのような親交に終わりを告げたとされます。
晩年のセザンヌ
セザンヌ夫人
1890年頃からは糖尿病を患い、戸外制作を控え人物画を中心に制作するようになります。そのモデルの多くは妻のフィケ(セザンヌ夫人)で、彼女を家庭の主婦というイメージに閉じ込めることなく、まるで聖職者のように毅然とした表情を豊かな色彩で描いています。
温室のマダムセザンヌ(1892)
出典:Madame Cezanne in the Greenhouse,wikiart,https://www.wikiart.org/
称賛のとき
1895年にはピサロの勧めでセザンヌの初個展が行われました。批評家らの評価は依然芳しいものではありませんでしたが、このとき何人ものコレクターがセザンヌの静物画を買い、その後の近代芸術家の間でセザンヌの静物画が模範例と見なされるようになります。
最晩年のセザンヌ
最晩年とも言える1900年に入るとセザンヌは、母の死をきっかけに家を売り、故郷エクス=アン=プロヴァンスの一画にアトリエを建て、そこから一望できるサント=ヴィクトワール山や、初期の裸婦画を推し進めた水浴画をテーマに制作をしました。
サントヴィクトワール山(1902-1906)
出典:Mont Sainte Victoire,wikiart,https://www.wikiart.org/
入浴者(1906)
出典:Bathers,wikiart,https://www.wikiart.org/
しかし病身でもあったセザンヌは満足な制作をすることが難しくなったようで「70近くにまで年老いて、光をたたえているはずの色彩感覚が、現実から遊離する原因となり、画面を完全に埋めるのを難しくしているのです」と手紙に書き残しています。しかし彼は気持ちを持ち直し「自然というものは、詳しく研究するならば、この目標に到達する手段を私たちに与えてくれるのです。」と付け加えています。
1906年までにセザンヌは、これまでの分を取り返す勢いでたびたび展覧会を開きます。万国博覧会をはじめ、サロンにも定期的に出品し、近代絵画を代表する作家のひとりとしてかなりの称賛を受ける立場になります。
そして1906年10月23日にセザンヌはこの世を去り、その67年の生涯を閉じることとなります。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
フランスの田舎に住む文学少年だったセザンヌが、「近代芸術の父」と称される芸術家になるまでの生涯を代表的な作品とともにご紹介させていただきました。
学友の批評にも心をやんでいた「皮を剥がれた男」だったセザンヌはサロンの定める古典的な美学への反抗を通じて表現力を養い、晩年には近代絵画の模範として崇拝される立場にまでなります。
社会と歴史の生み出す約束事にとらわれない革新的な作風には、セザンヌが幾度批評されても曲げることがなかった芸術家としての矜持と信念が感じられます。
出典
メアリー・トンプキンズ・ルイス著 宮崎克己訳『世界の美術 セザンヌ(岩波書店 2005年)』