こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはサルバドール・ダリという人物をご存じですか?
ダリは、1924年のフランスで起きた『シュルレアリスム宣言』をきっかけに生まれた芸術運動『シュルレアリスム』を代表するアーティストです。
活動ジャンルは実に多彩で、画家として油画を多く残していますが、他にもアートオブジェやロゴデザイン、果ては映画の制作まで行っています。
本記事ではそんなダリの人生と作品についてご紹介します。
目次
サルバドール・ダリって?
基本情報
本名 | サルバドー・ドメネク・フェリペ・ハシント・ダリ・イ・ドメネク Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech |
生年月日 | 1904年5月11日~1989年1月23日(84歳) |
出身 | スペイン カタルーニャ地方 フィゲーラス |
学歴 | サン・フェルナンド王立美術アカデミー |
分野 | 絵画、写真、彫刻、作家 |
傾向 | キュビズム、ダダイズム、シュルレアリスム |
交流のあった人物 | パブロ・ピカソ、アンドレ・ブルトン |
シュルレアリスムって?
シュルレアリスムとは、1924年にフランスの作家アンドレ・ブルトンが行った『シュルレアリスム宣言』によって生まれた芸術運動です。理性によって感性を支配することなく、無意識的で純粋な表現によって人間の全体性を取り戻すことが目的で、写実性や整合性を無視したシュルレアリスムの作品は、夢の中で見る風景のような不思議な印象を与えます。
経歴と作品
ダリの生まれと環境
ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方にある小都市フィゲーラスに生まれました。父のイクーシは公証人(民間の法整備を行う人)で、町の有力者でした。
母は由緒ある商家の娘で、絵画に興味を示したダリにも寛容に接し、大変甘やかして育てました。
ダリには、生まれる9ヶ月前に、1歳で亡くなった兄がいました。その兄と同じサルバドール・ダリという名前をつけられたことを知った5歳のダリは大変ショックを受け、長いあいだ劣等感に悩まされることになります。
一変する家庭環境
『窓辺の少女(1925)』
出典:Figure at a Window,wikiart,https://www.wikiart.org/
1921年、ダリが17歳の時に最愛の母が癌で亡くなります。当時ダリはサン・フェルナンド王立美術アカデミーに通っていましたが、母を亡くしたショックで反抗的になり、アカデミーを停学、のちに放校処分となります。若い時分で母を失ったダリの荒れた欲求は、4歳年下の妹アナ・マリアへ向けられました。理想の女性として何度もキャンバス上に登場する妹には兄妹以上の感情が注ぎ込まれているのが感じ取れますが、その思いは一方通行だったようです。
『自分自身の純潔に獣姦される若い処女(1954)』
出典:Young Virgin Auto-Sodomized by the Horns of Her Own Chastity,wikiart,https://www.wikiart.org/
妹アナ・マリアがのちに出版した暴露本『妹からみたサルバドール・ダリ』には、性的嗜好を含むダリのプライベートが赤裸々に書かれていました。これを知ったダリは激怒し、相続権を剥奪し葬式の参列すら禁じたほどでした。暴露本の出版から5年後にダリは、かつて妹をモデルに描いた『窓辺の少女』と同じ構図で『自分自身の純潔に獣姦される若い処女(1954)』を描きます。愛を拒んだ妹への復讐なのでしょうが、このように若い頃のダリは今日語られるような奇人変人のイメージとはかけ離れた、鬱屈したコンプレックスや愛情に振り回される人生を送っていました。
自問自答を繰り返した『初期作品』
『父の肖像(1920)』
幼い頃から絵画に興味を持っていたダリは、15歳の時からすでに自画像を描き始めていました。また家族をモデルにした肖像画も多く残っています。厳格で地位と権力を持っていた父を夕焼けの赤と険しい筆致で、病死する数ヶ月前の母を聖母のような優しい眼差しと忍び寄る病魔の影を感じさせる重苦しい雰囲気で描いたダリには、モチーフに自分自身を投影して描く能力をすでに開花させていたように思います。この当時17歳とは思えないほど内省的な制作スタイルは、のちのシュルレアリスムの片鱗すら感じさせるようです。
シュルレアリスムとの出会い
『アンダルシアの犬(1928)』より
出典:Un Chien Andalou (film still),wikiart,https://www.wikiart.org/
1925年、バルセロナのダルマウ画廊にて初個展を行ったダリは、パブロ・ピカソとジョアン・ミロに高く評価されます。特にカタルーニャの同郷人であるミロからは画家になることを強く勧められ、ミロがダリの父を説得するためフィゲーラスにまで訪れています。
1929年、交友のあったスペインの映画監督ルイス・ブニュエルと共に制作した映画『アンダルシアの犬』を公開。映画のストーリー性をあえて破壊し、脈絡のない映像が次々に流れるという実験的ショート・フィルムでしたが、この映画を見たピカソ、ブルトンをはじめとするシュルレアリスト・グループのメンバーから絶賛を受け、ダリは晴れてシュルレアリスト・グループへの参加を認められました。
最愛のひと・ガラとの出会い
シュルレアリスト・グループに迎え入れられたダリは、同じメンバーであるポール・エリュアールの妻であるガラ・エリュアールと惹かれ合い、恋に落ちます。
『記憶の固執(1931)』
出典:The Persistence of Memory,wikiart,https://www.wikiart.org/
ガラというミューズ(ギリシャ神話に登場する、芸術家にインスピレーションを与える女神。転じて芸術家がよくモデルやモチーフとする女性のこと)を得たダリの人生はまさに最高潮でした。1931年には代表作でもある『記憶の固執(1931)』をニューヨークのグループ展に出品します。これをきっかけにヨーロッパから一気にアメリカへ名が響き渡り、シュルレアリストの代名詞かのように注目されるようになりました。
偏執狂的・批判的方法
『メイ・ウェストの顔、シュルレアリティックなアパルトマンとして使える(1934-35)』
出典:Face of Mae West Which May Be Used as a Surrealist Apartment,wikiart,https://www.wikiart.org/
ダリはシュルレアリスムを定義付けるにあたり「偏執狂的・批判的方法」という言葉を用いました。彼自身の言葉では「“精神錯乱的な連想”と“解釈の批判的かつ体系的な客観化”に基づく非合理な認識の自然発生的方法」と説明されます。“精神錯乱的な連想”とは、例えば夢や幻覚の中で脈絡のないイメージや次々と現れることを意味しています。それらのイメージを“解釈の批判的かつ体系的な客観化”、つまり主観を排した合理的な目線で整理し、認識できるようにしたものです。具体的にはダリは「ダブル・イメージ」または「多重イメージ」という表現方法を取りました。騙し絵(トロンプルイユ)で主に用いられていた手法で、ダリはその手法を絵画に持ち込み、「偏執狂的・批判的方法」によって意味を見出すことで、シュルレアリスムを大きく発展させました。シュルレアリスムの生みの親であるアンドレ・ブルトンも、ダリのダブルイメージを賞賛して「シュルレアリスムに第一級の武器を提供してくれた」と強く支持していました。
シュルレアリスト・グループとの訣別
シュルレアリスムに大きく貢献したダリですが、その奇抜で派手な態度からシュルレアリスト・グループからは徐々に避けられていました。そしてアンドレ・ブルトンと政治的意見の食い違いから軋轢が生じ、「グループによる制約は、自由な表現を求める本来のシュルレアリスムではない」と断言し1939年にシュルレアリスト・グループから除名されることになりました。
名前が売れていくにつれて商業的な態度を取るダリに違和感を感じていたブルトンは、Salvador Dali(サルバドール・ダリ)のアナグラムである“Avida Dollars(ドルの亡者)”というあだ名でダリを呼んだといいます。
アメリカでの成功と、多様化する表現
『ダリ・アトミックス(1948)』
ダリは1940年、戦渦を避けてアメリカに渡ります。経済発展を遂げていたアメリカは保守的なヨーロッパに比べて文化が開放的で、自由を求めるダリはすぐさまアメリカに魅せられました。個展を開いたり講演会を行って注目を集めたダリの人気は、『タイム』誌の表紙を飾るようになるほどでした。
ダリをこのような成功に導いたのは、表現の多様化が1つの要因と言ってよいでしょう。ダリはアメリカにおいて、映画・舞台美術・広告・ファッション・宝石などあらゆる分野にチャレンジしていきました。高級な絵画を1枚描き上げるのではなく、再生産が可能な大衆アートにシフトしたダリの感性はのちのポップアートに先んじていたと言えます。
スペインへの帰還と神秘主義宣言
1948年、ダリとガラは第二次世界大戦の終結を迎えてスペインに帰ります。戦中での経験がそうさせたのかダリは今までの無意識の追求よりも、科学と量子力学によるアプローチにシフトして行きました。またダリは帰国後にカトリックに帰依しています。元々敬虔なカトリック教徒であった母親の面影を拭いきれず、また同時に宗教世界への魅力も拒み難いものだったようです。このような心境の変化からダリは『神秘主義宣言』を発表し、量子力学に裏打ちされた「原子絵画」と幾何学的構成に基づく「宗教画」という新しいジャンルを残しています。一方で写真にも興味を示したダリは、視覚効果を狙った「トリック・フォト」や、絵画を立体視する技法「ステレオ・グラム」を独自に研究しました。
愛の終焉と晩年
『ガラリーナ(1944-1945)』
出典:galarina,wikiart,https://www.wikiart.org/
一目惚れにも似た情熱的なガラとの出会いから10年ほど経った1940年代。元々奔放な性格であった(ダリにとってそれも魅力の一部であった)ガラは、若い男と遊ぶことをダリに隠すことさえしなくなりました。ダリはひとり寂しさを埋めるようにアトリエで制作に励むしかありませんでしたが、そうしてダリのもとに入ってきた金もガラが不倫に使い込んでしまう哀しい関係は、1982年にガラの死亡でもって終わりを告げました。
この頃のガラの肖像画を見ると、とても50歳を目前としているようには見えないほど美しく、若々しく描かれています。またモチーフとした写真を見ると真顔であるにも関わらず、絵の中のガラはまるでモナ・リザのような笑みを浮かべているなど、ダリはキャンバスの中の彼女に「若く情熱的だったあの頃」を投影していたに違いありません。
『ツバメの尾(1983)』
出典:The Swallow’s Tail,wikiart,https://www.wikiart.org/
ガラを失ったダリは一気に老け込み、元々患っていたパーキンソン病のために制作が困難だった中『ツバメの尾(1983)』を最後に筆を折り絵画活動をやめました。この『ツバメの尾』にはダリが用いていたサインであるΔ(デルタ)と、SalvadorのS、GalaのGが組み合わされてできた模様が描かれており、自身の死期を悟り筆を折る最期の時まで、ガラを思い続けていたのではないかとされています。
ダリは1984年に自室で起きた火事のために酷い火傷を負い、療養のためフィゲラスに移ります。そしてその5年後、1989年に心不全で死亡。シュルレアリスムを牽引した革命児であり、世間に天才ともてはやされた男の晩年は、あまりにも寂しいものでした。
まとめ
いかがだったでしょうか。
奇抜な見た目と不思議な絵の印象が強いダリですが、複雑な家庭環境から抱えたコンプレックスや、愛情に飢えた結果奔放な妻に振り回された晩年など、なかなか人間味のあるエピソードを持っています。
ダリは
恋はその始まりがいつも美しすぎる。だから結末が決して良くないのも無理はない。
と言い残しているそうです。
ダリは愛が作品に与える影響の大きさがわかる良い例かもしれません。
他の画家も恋愛やパートナーに注目して作品を見てみると新しい発見があるかもしれませんね。