【徹底解説】杉浦非水とは?近代日本で活躍したグラフィックデザイナーの人生と作品を解説!

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは杉浦非水という人物をご存知ですか?

杉浦非水は、明治から昭和にかけての近代日本で活躍したグラフィックデザイナーです。アートとデザインを結びつけ、現代のグラフィックデザインの礎を築いた重要人物です。

本記事ではそんな杉浦非水の人生と作品についてご紹介します。

杉浦非水って?

基本情報

本名杉浦 朝武(すぎうら つとむ)
生年月日1876年5月15日-1965年8月18日(89歳没)
国籍/出身日本 愛媛県松山市
学歴東京美術学校
分野グラフィックデザイン、ポスターデザイン、パッケージデザイン
傾向モダンデザイン
師事した人松浦巖暉、川端玉章、黒田清輝など

経歴と作品

生まれと環境

1876年5月15日、愛媛県松山市に非水は生まれました。白石朝忠とレイの長男で、幼名を一雄と言いました。

1886年、10歳の頃に白石家から離籍し、杉浦裕明の養子となりました。

1891年、15歳の時に愛媛県松山尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)第二学年に入学します。非水は在学中に図画教師や上級生らと絵のグループ「扶桑会」を結成し、絵に取り組みます。

この経験を経て日本画家を目指すことにした非水は、四条派の画家・松浦巖暉に弟子入りしました。

日本画から図案への転向〜フランスの導き〜

1897年に上京した非水は東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画選科に入学。日本画選科第三期円山派の教授である川端玉章に師事しました。

この頃の非水は「三棹」「芳章」の雅号を用いていました。

東京美術学校の在校中に黒田清輝から洋画や欧風図案、フランス語の指導を受けました。

1901年に東京美術学校を卒業。

黒田清輝がフランスから帰国した五月頃、黒田が持ち帰ったフランスの写真や複製品を見るため黒田宅に足繁く通いました。とりわけアール・ヌーヴォーの資料に関心を持ち、黒田から欧風図案の指導を受けていたこともあり図案家への転向を決めます。

1902年、黒田の推薦で大阪三和印刷所の図案部主任へ就職。同時に大阪商船株式会社の意匠図案嘱託を兼任します。黒田の推薦があったとはいえ、現代で考えると新卒の就職先としてはかなり立派に思えます。このことから非水の優秀さが伺えますね。

しかし奇しくも翌年に図案部が解体されたため退社となってしまいます。

1904年に大阪商船株式会社を退職して上京。この場で岩崎翠子という女性と出会い、結婚します。

地元に戻り、島根県立第二中学校の教諭に就職。この頃、子規派の俳句に熱中し非水自身も「翡翠郎」という俳号で俳句を嗜んでいます。

ここで初めて、現在知られるペンネームである杉浦非水に通じる「ヒスイ」が登場しました。

翌年の1905年に島根県立第二中学校を辞め、東京中央新聞社に就職。この頃に雅号として「非水」を持ちいるようになりました。

俳人としても画家としてもヒスイという言葉を用いているのは、なにか思い入れがあるのでしょうか。

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三越の非水か、非水の三越か

『三越PR誌(1912年12月発行第2巻第13号表紙)』

三越PR誌1912年12月発行第2巻第13号表紙

非水が三越ではじめて手がけた仕事は雑誌『みつこしタイムス』の表紙でした。

『みつこしタイムス』は三越が1903年から刊行している営業用PR誌で、創刊時は『時好』というタイトルでした。

呉服店の色が強かったため着物を着た女性を大映しにした表紙が多かったところ、非水は季節の花や鳥、風景や子供などを多く描きました。

三越が呉服店から百貨店へビジネス転換を試みていたこともあり、日本の伝統的なモチーフを取り入れながらも普遍的なイラストが好評を博しました。

1908年に三越呉服店の嘱託デザイナーとなります。

実質的な社長である当時の専務取締役・日比翁助の非水への期待は厚く、役員が海外視察で持ち帰った装飾美術の資料を非水の参考のために厳重に管理し、他人の目に触れないようにするように取り計らってくれたと言われています。

1911年に三越呉服店に新しく図案部が設置され、非水は図案主任に就任されます。東京中央新聞社を退社して三越での仕事に専念するようになった非水は、PR誌の表紙やポスター、イベント用の印刷物まで手広く手がけました。

非水のデザインは、呉服店から百貨店へと経営方針を大きく変えようとしていた三越のブランディングに大きな影響を与え、「三越の非水か、非水の三越か」という高い評価を得るまでになりました。

非水の三越での仕事は、戦前の百貨店のブランディング成功例として知られます。

1914年、初の本格的なポスターデザイン『三越呉服店 春の新柄陳列会』を発表します。

非水は黒田清輝の手ほどきでヨーロッパの美術潮流に関心を持っており、自身の作品にもアール・ヌーヴォーやセセッションといった新しいデザイン様式を果敢に取り入れていることが知られていますが、それらを単なる様式として考えていたわけではありませんでした。

非水は出版社から、本を目立つようなひたすら強い色彩の使用や、人目を惹きやすい女性像を度々求められることを苦々しく語っています。

しかし、非水はアートとビジネスのどちらかに阿るのではなく、関係者の要求を取り入れて折衷するのが良い仕事であると次のような言葉で表現しています。

今少しく出版業者と図案家と密接して、芸術を無視しない範囲に於て、時代を入れ、

出版者の要求を入れ得て努力したならば、今少しく立派なものが出来る

『星製薬(1914)』

星製薬(1914年)

アルフォンス・ミュシャのポスターを想起させる作品。星の寓意像の周りに黄道十二星座のモチーフが並ぶ構図は古典的で、人物の衣装にも陰影が入り写実的。ただし、製薬会社のポスターであることはわかりにくい。

1918年、三越の嘱託契約を辞しました。しかし仕事は継続して行っており、「ひすい」にちなんで日・水曜日の週2出勤にしたといいます。

1919年、日本美術学校の図案科講師に就任。

1921年、飲料メーカー・ラクトー株式会社(現在のカルピス株式会社)の顧問に抜擢されます。

1922年に絵画・図案の研究のためヨーロッパに留学。

フランスに滞在した時には藤田嗣治の助力を得て、カルピスの広告用ポスターの制作や、図案検証募集に尽力しました。

1924年に帰国。教え子である新井泉、久保吉朗、須山浩、小池巌、原万助、岸秀雄、野村昇と共にポスター・創作図案研究団体『七人社』を結成。同年に第1回の展覧会を三越にて開催します。

この頃からヨーロッパの留学経験を活かしてかドイツの近代美術表現を取り込みました。

『トモエ石鹸(1926)』

トモエ石鹸 - 国立工芸館

『星製薬』と見比べてみると、女性を中心にタイポグラフィが並ぶ構図という点では共通しているものの、商品の石けんが足元に描かれ、女性と背景は陰影や柄がなく平面的である。

ヨーロッパ留学から帰国した非水は

ポスターは広告目的の上に立つて、其使命を遂行しなければならない。

そこに、装飾的色彩と、簡潔直截な図様の単化が必要である

と語っており、ヨーロッパの芸術感が三越の嘱託時代から更にグラフィックデザインの思考を洗練させたことがわかります。

時代が前後しますが、非水がヨーロッパに旅立つ前の1920年から1922年の間に代表作とも言える『非水百花譜(1920-1922)』が刊行されました。

三越時代に求められていたシンプルなイラストと鮮烈な色使い、象徴的なモチーフという非水らしさとは打って変わって、精緻な植物のスケッチと水彩の淡い色使いで描かれた植物たちは、上記で語られている出版社への不満を逆説的に体現したものであるといえます。

『非水百花譜』は1集につき5点を載せ、全20集が刊行された冊子です。収録されているのはイラストだけではなく、植物に関する、学名や植物の解剖的な視線などでした。

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タバコから教科書まで〜時代のパッケージ〜

『現代日本文學全集(1926)』

改造社『現代日本文學全集』(1926年)

非水は生涯の長い時間、出版物のデザインを手がけていました。

その中でも独自に人気を得ていた仕事の一つが明治30年代から大正初期にかけて流行した「家庭小説」です。古い習慣に立ち向かう開放的なヒロインを主役にした女性向けの読みもので、非水は女性読者を強く意識し、アール・ヌーヴォーの柔らかい曲線や植物の図案を多用しました。

また、非水の妻・翠子がアララギ派歌人として活躍し、歌誌『短歌至上主義』を主宰した人物ということもあり彼女の作品が収められた小説『愛しき歌人の群(1927)』や歌集『朝の呼吸(1928)』の装丁を担当しました。

1927年、月刊ポスター研究雑誌『アフィッシュ』を創刊。

アフィッシュとはフランス語でポスターを意味する言葉で、七人社がポスター研究のための雑誌として発行したものです。

1929年に多摩帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の図案科長に就任。

同年に大蔵省専売局(現在のJT日本たばこ産業)の嘱託として翌年からタバコのパッケージ図案を任される。

1936年、七人社、構図社、東京広告美術家倶楽部、中央図案家集団などデザインに関わる22団体が集結した全日本商業美術連盟を結成、非水は委員長に就任することになりました。

1934年三越を退社。

晩年

1935年に同盟休校事件によって帝国美術学校を辞任し、多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)の創設に参加。同校の校長・図案科主任を兼任。

1941年に日本図案家協会を設立、会長に就任されます。

創設に関わった多摩美術大学とはその後も深く関わることになり、1947年に多摩造形芸術専門学校理事長、1951年に多摩美術短期大学初代理事長に就任します。

同年8月18日、この世を去ります。

まとめ

いかがだったでしょうか。

カルチャーの主流がアートという作家性を重んじる芸術様式から、商業デザインという消費者が存在する芸術様式に移りゆく近代に活躍した非水。

グラフィックデザインのパイオニアと評される非水ですが、単に日本に欧風の最新の芸術様式を持ち込んだだけではありませんでした。

1916年に発行された『非水の図案』という図案集の巻頭に、次のような言葉が載っています。

「図案は自然の教導から出発して個性の匂いに立脚しなければならぬ」

まさにアートとデザインの折衷といえる思想ではないでしょうか。

自然の教導という普遍性、個性の匂いという作家性を折衷した非水の功績は、現代のグラフィックデザインになくてはならない存在と言えます。


おすすめ書籍

「杉浦非水のデザイン」

本記事で紹介した記事や一部グッズを網羅した本です。三越呉服店に務めはじめた頃からの紹介ですが、どのように仕事に取り組んだのかなどが描かれています。


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