こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは竹久夢二という人物をご存知ですか?
竹久夢二は日本の明治から昭和時代にかけて活躍した画家です。
彼は詩やグラフィックデザインにも精通した多彩な人物で、幅広い分野で近代美術に影響を与えました。
特に代表的な分野である美人画は「夢二式美人」というスタイルが知られています。
本記事ではそんな竹久夢二の人生と作品についてご紹介します。
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Toggle竹久夢二って?
基本情報
本名 | 竹久夢二(本名 竹久茂二郎) |
生年月日 | |
国籍/出身 | 日本 江戸時代 |
学歴 | – |
分野 | 浮世絵 |
傾向 | 美人画、大首絵、錦絵、肉筆画 |
師事した人 | 鳥山石燕、勝川春章など |
経歴と作品
生まれと環境
1884年(明治十七年)9月16日、岡山県邑久郡(現在の瀬戸内)の本庄村に竹久夢二は生を享けました。
両親は酒造りを営んでおり、姉・松香と妹・栄(兄は夢二が生まれる前年に夭逝)に囲まれながら育ちます。
幼い頃から絵を描くことが好きだったようで、邑久高等小学校の図画教師・服部杢三郎から技術的にも精神的にも指導を受けていました。
著書『草画(大正3年刊)』の巻頭文では「この草画一巻を服部杢三郎氏にをくる」と記し、文末には「服部先生は私の最初の先生で、また最後の先生であった」と書かれています。
十六歳の時に神戸中学校へ入学。実家を手放して福岡県に引越すことになる僅か八ヶ月の間でしたが、港町での学生生活は夢二の異国情緒への憧れを育てる重要な思い出になったと考えられます。
父は福岡県で製鉄所への人員斡旋や風呂屋を営み、18歳になった夢二は東京に上京。早稲田実業学校に通います。生活費を工面するため絵や詩を投書しながら、本科(今でいう四年制学部)を卒業。専門科(今でいう大学院)に進んで間もない頃、『中学世界』夏期増刊「青年傑作集」へ投書したコマ絵「筒井筒」が第一賞に入選しました。
これをチャンスと夢二は入選の翌月に早稲田実業学校を中退。側から見ると無鉄砲な判断にも思えますが、夢二の幼馴染であり詩人として活躍した正富汪洋によると「思い切りよく次に進ことも竹久家の気風」だと言います。
風刺画家として出版業界に飛び込む
画家としてのスタートを切った夢二は、賞金を貰いに行った博文館で編集者の西村渚山に声をかけられ、絵や文書を本欄に掲載する提案を持ちかけられます。
こうして夢二は島村抱月を迎えた月曜文壇の『少年文庫』壱之巻の装丁で始めてのプロの仕事を手がけることになりました。
1906年、夢二は絵はがき屋「つるや」を営む岸たまきと結婚、この頃になると夢二は当時コマ絵の仕事を手がけていた平民新聞に結婚の記事が載るほどの知名度を持っていました。
夢二は新聞の他に、社会主義機関紙『ヘナブリ』や『光』などに反戦や社会風刺の絵を載せていました。そのため風刺画家という肩書で知られていた夢二はしばしば社会主義者と言われることもありますが、彼は政治的立場からこの仕事をしていたと言い切ることはできません。
むしろ夢二の社会的な立場が弱い人々への暖かく力強い眼差しは、幼い頃に経験した実家からの別離や、苦学から生まれたものだと考える方が自然ではないでしょうか。
その眼差しは生涯変わることなく、夢二が画家としてだけでなく商業デザインにも広く受け入れられ、近代グラフィックデザインの草分けとして現在も評価されています。
1907年、読売新聞社に入社した夢二は千葉県沿岸を旅行しながら紀行文『涼しき土地』を連載。
これには名作『宵待草』につながる文章が見られたり、編集日誌には後に夢二の作風を示す言葉として持ちいられる「夢二式」という言葉の初出が見られるなど、今後の画家・作家人生を形作る経験を得ていたようです。
また、家庭を持って本格的な画家になろうと考えた夢二は、東京美術学校教授の岡田三郎助を訪ねて助言を受けることになりました。
ほとんど独学で絵画を学んだ夢二に対して、東京美術学校教授という立場の岡田三郎助は次の言葉をかけたとされます。
美術学校という所は、画のABCを教える所だし、
生徒をみんな一様に育て上げるのだから君には向かない。
向かないばかりでなく、折角君の持つてゐる天分をこはすかもしれない。
…自分の傾向に一番ふさはしいデツサンをしつかりやつて自分で自分を育てて
…正規に学校を出て、世の中へ出ていくのはやさしいが、
君の道は苦しいからその覚悟で
これに対し、夢二はこのように述懐しています。
私の道は苦しかつた。裏道は万人には向かない。
夢二が早稲田実業学校を中退して作家の道に飛び込んだことは、苦労の道でもあったでしょう。しかし岡田の言葉通り、美術学校で画一的な教育を受けていたら同じ道はありえなかったかもしれません。
「夢二式美人」を生み出した美人を見つめるまなざし
1909年、初の著作『夢二画集 春の巻』は博文館で発行された雑誌のコマ絵十七九図をまとめて編集したもので、日記には「千部がたちまち売り切れた」と書かれており、絵を入れ替えながら九刷まで確認されるほどの人気でした。
そして年号が大正となった十一月には「第一回夢二作品展覧会」が京都府立図書館で開かれ、夢二にとって画家として華々しい活躍を歩み始めた年になりました。
『水竹居』(1933年)
着物の女性が振り返った瞬間を捉えた菱川師宣の『見返り美人図』を思わせる構図で描いた作品。
たまきとの交際時期と前後して夢二の作品に現れた、いくつかの特徴を持つ美人画は「夢二式美人」というスタイルとして確立されていきました。
夢二式美人の特徴の一つは「大きな目と手」です。目と手が誇張されて大きく描かれ、そのまなざしや仕草から人物の心象やシチュエーションが伺えるようです。
もう一つは「S字の曲線」です。女性が身体をくねらせたり、着物のすそがたなびく様子、時には木の枝や川、猫に至るまでS字を描く曲線が必ずと言っても良いほどに描かれています。
言葉にすると描かれた女性が弱々しいという印象を与えてしまいそうですが、構図のためかハッキリとした色使いのためかむしろしなやかで柔軟、安心感があるという印象すら受けます。
このようなスタイルは夢二自身の人気もありたちまち市民に広がり、衣装やしぐさをマネする女性が現れるまでに至ります。しかし夢二自身の手を離れた「夢二式美人」像は次第に夢二の心から消えていき、関係女性によって新しいスタイルが生まれていくことになります。
岸たまきとは長男が生まれた翌年の1909年に協議離婚をしますが、同居と別居を繰り返しながら次男を設ける関係が続きます。生活を別としたたまきを慮ってか、日本橋にたまきの名義で「港屋絵草紙店」を開きます。
この店は夢二が好んで企画・デザインした商品を売り、直接客に手渡すことができるブランドショップとしての役割を担っていました。
また、後には夢二と知り合った若い芸術家たち(恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄、久本信男、宮武辰夫など)が作品を発表するギャラリーとしての役割も持つようになります。
下積み期間と言える時期がなく急進的に画家としての仕事を得た竹久夢二ですが、その秘密は出版社やギャラリーショップといった、竹久夢二の名前を売る場に恵まれたという要因も考えられそうです。
「港屋絵草紙店」で売られていた夢二デザインの便箋や封筒、千代紙などはたちまち人気を博し、東京名物のひとつとなったようです。
東京を離れて最後のミューズと出会う
店を開いてしばらく経った頃、笠井彦乃という女学生と知り合い関係を深めます。しかし、大正5年11月に夢二とたまきと共通の知人であった新聞記者・神近市子が男女関係のもつれから刺傷された「日陰茶屋事件」が起こります。
この事件に明日は我が身と怯えたのか京都の友人・堀内清を頼って東京を離れます。
その後に京都の夢二宅に彦乃が訪れ、夢二とたまきの次男・不二彦との三人での生活を送るに至ります。
共同生活のあいだに二度、展覧会を開き画家生活も順調と思えましたが、彦乃が病み日本橋の父親の元に引き戻されます。
京都から東京に戻り、ようやく身辺に落ち着きを取り戻した夢二はお葉という女性と知り合い、彼女をモデルとした美人画に注力します。
彼女と知り合ったことで、中期の竹久夢二を代表する厚みのある美人画が描かれることになります。
名作『黒船屋』から見る竹久夢二の関心
『黒船屋』(1919年)
菊富士ホテルに滞在中に描かれた『黒船屋』は、竹久夢二を代表する美人画の一枚です。黒と黄色のはっきりとした色合い、黒猫、装飾木箱、黒船屋という異国情緒のある屋号といった夢二の特徴が盛り込まれたこの作品は、中期の夢二の集大成と言っても良い名作です。
たびたび夢二は猫を絵の中に描くことがありますが、その中でも黒猫の登場は多く、これは女性の白い肌を際立たせるコントラストの役割を果たしていると考えられています。
女性が腰掛ける木箱には、黒船屋という屋号が書かれています。黒と金で豪華な装飾が施されており、黒船屋という屋号が架空のものである以上、実在するプロダクトを見たまま描いたというわけではなく、いわば夢二がデザインした装飾であると考えられます。
夢二は女性の姿と共に花やパターンが描かれた小物や服飾品を描くことが多く、絵草紙屋を営んでいたこともあり小物をデザインすることに強い関心と技術を備えていたと考えられます。
夢二のデザイン観に影響を与えたものとして、イギリスでウィリアム・モリスが主導するアーツ・アンド・クラフツ運動があります。イギリスから日本に渡ったアーツ・アンド・クラフツ運動の理念は日本の民芸運動にも影響を与え、夢二のグラフィックデザインにもその影響が見られます。
この美術運動の系譜もあり、竹久夢二はグラフィックデザインの草分けとして現在知られているのです。
描かれた女性は時期から考えてお葉がモデルと考えるのが自然ですが、容姿からはお葉本人と言い切ることはできず、黒船屋(港屋から連想した架空の屋号と考えられる)という題名から、夢二が思い描く理想の女性と考えた方が良いとされます。
また、写真技術にも関心を持ち夢二が撮影した写真は現在確認できているだけでも二千枚を超えると言われています。
お葉を中心にポートレートが残されていますが、モデルであったお葉の写真は作品と共通するポーズが仕草をとったものが多く、彼女の魅力を自分の手で写しとるように絵を描いていたことが分かります。
晩年
大正末期から昭和にかけての夢二は手慣れた筆致が目立つようになり、むしろ『婦人グラフ』や『若草』といった雑誌のデザイン仕事に注力していたように見えます。
1930年に「榛名山美術研究所」構想を発表し、宣言文には有島育美、藤島武二、島崎藤村、森口多理らが賛同しました。美術運動の発足という動きには夢二のデザイン観に影響を与えたアーツ・アンド・クラフツ運動が念頭にあった可能性が高く、海外の産業美術を学ぶ目的でアメリカ、チェコ、ヨーロッパ、オーストリア、フランス、スイス、ドイツを渡る豪遊を行います。
旅行前には「告別展」、旅行先で個展を開きますが作品は売れず、気力と体力をすり減らしたまま日本に帰国します。
1934年、病に臥せた夢二は最後の装丁本『祇園囃子』を著し、最後に「ありがとう」と言い残してこの世を去ります。
彼の死後、夢二の生家は現在は「夢二郷土美術分館」として公開されました。
まとめ
いかがだったでしょうか?
美術史において日本美術と西洋美術が交差する明治時代、その二つの魅力をなめらかに繋ぎ合わせた夢二式美人という独自の芸術観を生み出したのが竹久夢二でした。
彼は画業に止まらず、生涯を通して作家であり、詩人であり、デザイナーであり、イラストレーターでもありました。
紹介しきれませんでしたが、商業広告、ポスター、ブックデザイン、児童書の執筆など、この時代では考えられないほど幅広い仕事を行っています。
文化の混淆や専門職化が進んだ近代に生まれた夢二が、独学ゆえにか身の回りにある環境や体験のすべてを取り込もうとしたことが、奥深い作風と幅広い職能の秘密なのかもしれません。
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