【徹底解説】岡本太郎の人生と作品に迫る

【徹底解説】岡本太郎の人生と作品に迫る

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは岡本太郎という芸術家をご存知ですか?

岡本太郎は日本を代表する芸術家です。1970年の大阪万博で展示された『太陽の塔』などを代表に数多くのパブリックアートを残し、日本における「美術」と「芸術」を明確にしたと評価されることの多いアーティストです。「芸術は爆発だ!」という言葉で知っている方も多いのではないでしょうか。

本記事では岡本太郎の人生と作品についてご紹介します。

基本情報

Taro Okamoto

出典:Taro Okamoto,wikiart,https://www.wikiart.org/

本名 岡本 太郎
生年月日 1911年2月26日-1996年1月7日(84歳)
国籍 日本 神奈川県
学歴 東京美術学校(現 東京芸術大学)中退
パリ大学哲学科履修
分野 パブリックアート
彫刻
油彩
公式サイト 岡本太郎記念館

川崎市岡本太郎美術館 

岡本太郎の生まれと環境

厳しい幼少期と不安の青年期

岡本太郎は1911年、現在の神奈川県川崎市に漫画家の父と小説家の母のあいだに生まれます。母はいわゆる箱入り娘で、小説家として職を持つ一方、家事や子育てはからきしでした。構ってほしさに仕事の邪魔をした岡本を箪笥に縛り付けたこともあったようです。そんな母を後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と述べていますが、その一方で人としては敬愛し続けていたようです。

家庭環境のためか1917年に入学した東京の青南小学校を一学期で退学。その後、何度か入転校を繰り返し、慶應義塾普通部を卒業。幼い頃から絵が好きだったこともあり東京美術学校に入学しますが、この頃はまだ画家になることに不安と疑問を抱いていました。

フランスの衝撃

父の仕事の都合で1930年から実に10年、岡本はフランスのパリで過ごすことになります。

1932年、岡本はたまたま立ち寄った画廊でパブロ・ピカソ(1881-1973)の『水差しと果物鉢』を見て衝撃を受け、これまでに抱いていた芸術への迷いに一つの区切りがついたようで、このときから「ピカソを超える」ことを目標に芸術へ打ち込むようになります。

1940年、日本に帰国した岡本は作品を何度か展覧会へ出品、受賞し個展を開きます。

1942年から1945年までは兵役召集により中国戦線へ出兵。

帰国後に花田清輝とともに「夜の会」を結成。前衛芸術について話し合うコミュニティを作り、後に秘書として半世紀以上岡本を支えた平野敏子(1926-2005)などと親交を深めます。

1954年、活動拠点を東京の青山に移した岡本は、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」という依頼を受け『今日の芸術 時代を創造するものはなにか』を執筆・出版します。

単なる芸術啓蒙書ではなく、当時の芸術観を鋭く批判した本書はベストセラーになり、岡本太郎の名が社会に認知される大きなきっかけになります。

『太陽の塔』

『太陽の塔(1970)』

Tower of the Sun, 1968 - 1970 - Taro Okamoto

出典:Tower of the Sun,wikiart,https://www.wikiart.org/

1970年に大阪で万国博覧会が開催されることが決定し、岡本にテーマ展示のプロデューサー就任の依頼がやってきます。このことをきっかけに岡本は『太陽の塔』を制作。芸術家・岡本太郎の代表作として知られると同時に、大阪のシンボルとして強く影響を与えることになります。

高さ70mにもなる『太陽の塔』は、頂部に未来を示す「黄金の顔」、中部に現在を示す「太陽の顔」、背部に過去を示す「黒い太陽」をもつ巨大建造物です。

大量生産・大量消費時代の渦中にある人々の生き方を巨大な生命力を感じさせる太陽に例えて説き、当時の通念的な芸術のイメージを作っていたモダニズムや西洋芸術を吹き飛ばすようなダイナミズムに溢れたこの作品は、産業主義の礼賛一色に染まる万博の中心にあって、無邪気な進歩主義を真っ向から否定するものでもありました。

内部は中空になっており、「生命の樹」というオブジェがそびえています。この「生命の樹」には単細胞生物から我々人類にまで連なる生物の33種のモチーフが並び、生命のもつエネルギーをまさに歴史的根源から巡るかたちになっています。

この『太陽の塔』には、岡本のもつ一貫した理念が明確に表現されています。

それは「対極主義」

西洋の近代思想とも、日本の侘び寂びとも異なる、太古からあったような風体をしながら近未来的な、異様な風体をした『太陽の塔』はまさにその象徴といえるでしょう。

岡本は矛盾や対立を調和させ、折衷させるのではなく、引き裂いたまま同在させることを作品で表現しました。両極の緊張がもたらす火花の中にこそ、新しい芸術が生まれると信じていたのです。

地上にそびえる『太陽の塔』は、中空に加えて地下展示を備えています。

テーマ館に「地下:根源の世界」と題し、《いのち》《ひと》《いのり》という3つのテーマで区切られたブースを巡るかたちになっています。

《いのち》ブースには約5億倍に引き伸ばされたDNAの二重らせん構造や、タンパク質、受精卵などがオブジェとして展示され、人のいのちの根源的な誕生を肌で感じることができます。

《ひと》ブースは自然を畏れ、自然を敬いながら生きた狩猟時代のひとびとを剥製や彫刻を通じて体験することができます。

最後の《いのち》ブースには太陽の塔の第四の顔『地底の太陽』を中心に呪術的な雰囲気を醸し出され、世界中の仮面や神像が儀式めいて並び立つ空間になっています。

『明日の神話』

悲劇から生まれる神話

『太陽の塔』と対をなすと称されるこの作品は、縦550cm✕横3000cmにも及ぶ巨大な壁画です。アスベスト製の壁に直接アクリル塗料で、1954年に日本の漁船・第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被爆した事件をモチーフに制作されました。

黒く広がるキノコ雲、燃え盛る骸骨、背景には亡者が並ぶまさに惨劇の様相が、画面いっぱいに描かれています。当時の日本にとって痛々しく、生々しい出来事を真っ向から描いたこの作品ですが、岡本はこの作品を、ただ悲劇的に描いたつもりではないようです。

岡本の本当の狙いは、タイトル『明日の神話』に象徴的に表れています。この作品は事件がもたらした悲劇的な側面だけを描いたものではなく、そこから生まれる命のダイナミズム、そこから立ち上がろうとする誇り高き姿をも描いたものなのです。このコンセプトは岡本自身の死生観が如実に表れたものとも言えそうです。

 

「強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。」

著書『自分の中に毒を持て』より

岡本は死生観についてこう表現しています。

いのちを脅かす惨劇を描くことと、溢れんばかりにエネルギッシュないのちを描くことは岡本の中で矛盾しないのでしょう。死と絶望を撒き散らすような悲劇の中から、黄金に輝く未来を生み出すような明日の神話が始まる、そう岡本は考えたようです。

『太陽の塔』と並んで岡本の代表作として知られる『明日の神話』ですが、これまで岡本が学び得てきたこと、表現方法として確立してきたことの集大成とも言える作品です。例えば上部にたちこめる黒いキノコ雲には、巨大な目玉がついています。1955年作『燃える人』などにも見られ、他にも多く岡本は目玉が描かれた作品を遺しており

「人間でもない。動物でもない。不思議な世界としか言いようのない生き物たち。不思議な“いのち”が、なまなましく、こちらに迫ってくる。これは岡本太郎なのか。それとも彼の見つめている、向こうの世界の象(かたち)なのか。ーでも、生きてる!」

と、半世紀にわたり岡本を支えたパートナー、平野敏子は語ります。

『燃える人(1955)』

Men Aflame, 1955 - Taro Okamoto

出典:Men Aflame,wikiart,https://www.wikiart.org/

また、中央に描かれた燃え上がる骸骨は日本の伝統的な美観に訴えかける造形をしています。これはパリで民俗学を学んだ岡本にとって、縄文時代の土器や、東北・沖縄の民族伝統などに見られる日本の美学は無視されるべきものではないと知っていたためでしょう。

この『明日の神話』は、メキシコオリンピックの開催に向けて、ホテルの壁の一画を飾る目的で制作されました。岡本は当時、大阪万博に向けて『太陽の塔』の制作を並行していたため、日本とメキシコを行き来しながら制作したようです。

『明日の神話』自体は1969年に完成したものの、資金繰りが上手くいかずホテルの建設中止が決定。壁に描かれていた『明日の神話』は取り外され、行方不明になってしまいます。

およそ30年の時を経て2003年、平野敏子によって『明日の神話』が発見されます。大きく損傷していたため日本へ持ち帰り修復するプロジェクトを発足、2006年に修復を完了し、今では京王井の頭線渋谷線に恒久設置されています。

無償無条件の芸術

1996年、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて84歳で死去します。生前、「死は祭りだ」と言って葬式を嫌っていた岡本に配慮して葬儀は行われなかったといいます。

80歳の頃に自身が所蔵していた作品の殆どを川崎市に寄贈。岡本の死後にはアトリエであった住居を「岡本太郎記念館」として開放、京王井の頭線渋谷駅に『明日の神話』、渋谷・青山通りに『こどもの樹』の設置がされるなど、パブリックアーティストとして知られる現在のイメージ通り、たくさんの作品が一般市民の目の触れるところに展示されることになります。

「無償無条件」。

芸術は民衆のためのもの。

高く買ってもらうために作られる“商品”でもなければ、金持ちが貯金代わりに溜め込むような“資産”でもない、生活環境そのものが芸術でなければならないという理念を岡本は貫き通したのです。

まとめ

いかがだったでしょうか。

本記事では岡本太郎の代表作として知られる『太陽の塔』『明日の神話』を中心に、岡本がどのような思想を育み、目まぐるしく変化する社会に対してどのように表現活動を行ってきたのかを人生と作品を通してご紹介させていただきました。

「無償無条件」の芸術を理念としていた岡本は作品を売ることはなく、代わりにパブリックアートを日本各地に作り続けました。

そしてこの理念は『太陽の塔』で表現された、太陽のような、生命力に溢れる芸術というコンセプトに再帰します。

太陽が「あったかかったろう。じゃあ、いくら寄越せ」なんて言わない。

そう考えた岡本の作品は、芸術を知っている人も知らない人も分け隔てなく照らす、まさしく太陽のような存在と言えるでしょう。

 

出典

佐々木秀憲『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』東京美術、2013年。

岡本太郎著『自分の中に毒を持て<新装版>』青春出版社、2017年。

平野暁臣著『入門!岡本太郎』興陽社、2021年。



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