こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはトーマス・ヒルシュホルンという人物をご存知ですか?
トーマス・ヒルシュホルン(Thomas Hirschhorn)は、1957年にスイスのベルンで生まれ、1983年からパリを拠点に活動している美術家です。段ボール、ガムテープ、アルミホイル、紙といった、どこにでもある安い素材で巨大なインスタレーションをつくることで知られています。
もうひとつの大きな特徴は、美術館の外に作品をつくることです。団地の広場や駅前に、住民と一緒に図書館やカフェや舞台を建て、数か月のあいだ毎日そこに通い続けます。作品を「見るもの」から「出会う場所」に変えてきた作家だといえます。
本記事ではそんなトーマス・ヒルシュホルンの人生と作品についてご紹介します。ヒルシュホルンは現在も活動中の作家です。作品の画像は、作家の公式サイトに掲載されている記録写真を出典を明記して引用し、図解や表、公式動画とあわせて解説します。
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Toggleトーマス・ヒルシュホルンって?
トーマス・ヒルシュホルンは、スイス出身でフランスのパリに暮らす美術家です。作家の公式サイトの略歴によると、1978年から1983年までチューリッヒの工芸学校(Kunstgewerbeschule Zürich)で学び、1983年にパリへ移りました。作品はヴェネチア・ビエンナーレ(1999年・2015年)、ドクメンタ11(2002年)、カーネギー・インターナショナル(2008年)などの国際展で発表されてきました。2011年には第54回ヴェネチア・ビエンナーレでスイス館の展示を担当しています。
公式サイトでは、公共空間での作品が「これまでに78点を超える」と紹介されています。美術館やギャラリーの中だけでなく、街の中で作品をつくることが、彼の仕事の大きな柱になっています。
基本情報
| 本名 | トーマス・ヒルシュホルン(Thomas Hirschhorn) |
| 生年月日(没年月日) | 1957年(存命。月日は作家の公式資料に記載なし) |
| 国籍・出身 | スイス・ベルン。1983年からパリ在住 |
| 学歴 | チューリッヒ工芸学校(Kunstgewerbeschule Zürich)、1978〜1983年 |
| 分野 | 美術家(インスタレーション、彫刻、コラージュ、公共空間での作品) |
| 傾向 | 段ボールやガムテープなど安価な素材を使った大規模なインスタレーション。哲学者や作家に捧げる「モニュメント」「祭壇」「キオスク」のシリーズ。住民と一緒に場をつくる「Presence and Production(存在と制作)」の作品 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 師事の記録は公式資料に記載なし。作品を捧げた思想家・作家として、スピノザ、ドゥルーズ、バタイユ、グラムシ、ローベルト・ヴァルザーらがいる |
なお、検索では「トーマスヒルシュホルン」「ヒルシュホルン」「thomas hirschhorn」と、中黒の有無や欧文表記を変えて調べられることも多い作家です。いずれも同じ人物を指しています。
主な受賞
作家の公式サイトに掲げられている主な受賞は次のとおりです。2000年のマルセル・デュシャン賞は、フランス現代美術国際振興協会(ADIAF)の受賞者一覧でも確認できます。
| 年 | 賞 |
|---|---|
| 1999年 | スイス若手美術賞(Preis für Junge Schweizer Kunst) |
| 2000年 | マルセル・デュシャン賞(Prix Marcel Duchamp) |
| 2003年 | ローラント賞(公共空間の美術に贈られる賞、Rolandpreis für Kunst im öffentlichen Raum) |
| 2004年 | ヨーゼフ・ボイス賞(Joseph Beuys-Preis) |
| 2011年 | クルト・シュヴィッタース賞(Kurt Schwitters-Preis) |
| 2018年 | メレット・オッペンハイム賞(Prix Meret Oppenheim) |
インスタレーションアートとは?
ヒルシュホルンの作品を理解するには、まず「インスタレーション」という言葉を押さえておくと分かりやすくなります。インスタレーションとは、絵を1枚壁に掛けるのではなく、部屋や空間そのものを作品にする表現のことです。観客は作品の前に立つのではなく、作品の中に入り、歩き回りながら体験します。
ヒルシュホルンの場合、その空間はさらに外へ広がります。団地の広場に建てた図書館や、駅前に組んだ舞台も、彼にとっては作品の一部です。そこで行われる講義や朗読、毎日の新聞づくりまで含めて、ひとつの作品として構想されています。
経歴と作品
グラフィックデザインからの出発とパリ移住(1957〜1980年代)
ヒルシュホルンは1957年にベルンで生まれ、1978年から1983年までチューリッヒの工芸学校で学びました。1983年にパリへ移り、以後現在までパリで暮らしています。
パリでは当初、グラフィックデザインの仕事に関わろうとしていました。2003年に書かれた手紙形式の文章の中で、彼はフランスのグラフィックデザイン集団グラピュス(Grapus)について問われ、「半日働いたところでグラピュスを辞めた」と答えています。グループが上下関係のある組織だと気づき、他人に言われたことをするのを受け入れられなかった、自分のやりたいことをひとりでやると決めた、と続けています。
この短いエピソードは、のちの作品のあり方にもつながっています。ヒルシュホルンは作品をつくるとき、上下関係をできるだけ持ち込まないこと、誰も締め出さないことを繰り返し語っています。
公式サイトの経歴によると、最初の個展は1986年、パリのバー・フロレアル(Bar Floréal)で開かれました。その後、1987年にケルンのカオス・ギャラリー、1991年にベルンのフランチェスカ・ピア画廊と、少しずつ発表の場を広げていきます。
段ボールとガムテープの彫刻(1990年代)
1990年代のヒルシュホルンを特徴づけるのは、素材の選び方です。段ボール、ガムテープ、アルミホイル、紙。どれも安く、どこでも手に入るものばかりです。
彼はこうした素材を「仕方なく使う安いもの」とは考えていません。2008年の文章「政治的に芸術をすることとは何を意味するか」の中で、彼は素材を愛することについて書いています。素材を選ぶという決断は極めて重要であり、いったん選んだ素材を「何か別のもの」「何か新しいもの」に取り替えてほしいという要望には応じない、という趣旨です。
同じ文章で、ヒルシュホルンは自分の指針をいくつも挙げています。その中でも有名なのが「Energy = Yes! Quality = No!(エネルギーにはイエス、クオリティにはノー)」という言葉です。2013年の文章では、これを作家としての指針のひとつだと説明し、「質」という基準は、質がないとみなしたものから距離を取るための贅沢な反射だと述べています。仕上げの美しさで作品を測るのではなく、そこにどれだけのエネルギーがあるかを大切にする、という考え方です。
同じ2013年の文章では、「評価(evaluation)」ではなく「判断(judgement)」という言葉をあえて使うとも書いています。何かを生み出す力を持つなら、その生み出したものについて判断される覚悟を持たなければならない。判断は人に向けるものではなく、つねにその人の仕事に向けるものだ、という考えです。「自分の作品が判断されるならうれしい」とまで書いています。

この時期には、「祭壇(Altar)」と呼ばれるシリーズも始まります。公式サイトには『Mondrian Altar』(1997年)や『Otto Freundlich-Altar』(1998年)が掲載されています。ヒルシュホルンは2003年の声明で、祭壇を「個人的な関与」、のちに述べるモニュメントを「共同体としての関与」と位置づけ、両者を区別しています。
もうひとつのシリーズが「キオスク」です。公式サイトの経歴によると、1999年から2002年にかけて、チューリッヒ大学のイルヒェル校舎で『Robert Walser-Kiosk』『Emmanuel Bove-Kiosk』『Meret Oppenheim-Kiosk』『Liubov Popova-Kiosk』などが発表されました。作家や芸術家の名前を冠した小さな売店のような空間で、祭壇、キオスク、モニュメントと、捧げる相手と規模を変えながら同じ方法を試していったことが分かります。
2000年には、フランスを拠点とする作家に贈られるマルセル・デュシャン賞を受賞しました。2011年には東京の森美術館で開かれた展覧会「フレンチ・ウィンドウ」にも参加しています(作家の公式サイトの経歴による)。
『Cavemanman』(2002年)
2002年の『Cavemanman』は、ニューヨークのバーバラ・グラッドストーン画廊で発表された作品です。現在はロンドンのテートが所蔵しています。
テートの作品ページに記載された素材は、木材、段ボール、ガムテープ、アルミホイル、本、ポスター、写真、紙、マネキン、飲料の缶、ゴミ箱、棚、蛍光灯の器具、そして4台のモニターによる映像です。題名のとおり、洞窟のような空間を段ボールとテープで組み上げた作品で、ヒルシュホルンの素材の使い方がよく分かる一例です。テートの所蔵品のため、展示の有無は時期によって変わります。
哲学者に捧げる4つのモニュメント(1999〜2013年)
ヒルシュホルンの代表作として最もよく挙げられるのが、哲学者に捧げた4つの「モニュメント」です。2003年の声明で、彼はこう書いています。「私は新しい種類のモニュメントをつくろうとしている。不安定なモニュメント。限られた期間のためのモニュメント」。
なぜ哲学者なのか。同じ声明の中で彼は、哲学者は今日においても語るべきことを持っており、考える勇気と、思索する喜びを与えてくれるからだと説明しています。選ばれたのはスピノザ、ドゥルーズ、バタイユ、グラムシの4人でした。
| 年 | 作品 | 場所 |
|---|---|---|
| 1999年 | 『Spinoza Monument』 | アムステルダムの通り(グループ展「Midnight Walkers City Sleepers」) |
| 2000年 | 『Deleuze Monument』 | アヴィニョンの公営住宅(シテ・シャンフルリ) |
| 2002年 | 『Bataille Monument』 | カッセルの住宅地フリードリヒ・ヴェーラー・ジードルング(ドクメンタ11) |
| 2013年 | 『Gramsci Monument』 | ニューヨーク・ブロンクスの公営住宅フォレスト・ハウジズ(ディア美術財団) |

『Spinoza Monument』(1999年)と『Deleuze Monument』(2000年)
最初のモニュメントは、1999年にアムステルダムの通りに建てられた『Spinoza Monument』です。17世紀オランダの哲学者スピノザに捧げたもので、アムステルダムの文化施設W139が企画したグループ展の一部でした。
翌2000年には、フランスのアヴィニョンにある公営住宅シテ・シャンフルリで『Deleuze Monument』がつくられます。20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズに捧げた作品です。2003年の手紙の中で、ヒルシュホルンは「私はスピノザを、そしてドゥルーズを愛している」と書いています。好きな哲学者の本を、美術館ではなく人が暮らす場所に持ち込む。その方法が、ここで形になり始めました。
2021年には、同じアヴィニョンで「21 ans Deleuze Monument(ドゥルーズ・モニュメントから21年)」と題した催しも開かれています。期間限定の作品が、20年以上たっても地域の記憶として振り返られていることが分かります。
『Bataille Monument』(2002年)
3つ目のモニュメントは、2002年の国際展ドクメンタ11で発表された『Bataille Monument』です。フランスの思想家ジョルジュ・バタイユに捧げたもので、会場はカッセル市内の中心部ではなく、郊外の住宅地フリードリヒ・ヴェーラー・ジードルングでした。
ヒルシュホルン自身が書いた記録によると、設営には2か月かかり、20〜30人の若者や住民が建設に加わりました。彼は専門家や美術学生ではなく、住民と一緒に建てることを選びました。働いた人には全員に時給8ユーロを支払っています。彼は同じ文章で「芸術のためのボランティア精神を憎む」と書き、無償の労働に頼らないことをはっきり示しました。
モニュメントの中には「ジョルジュ・バタイユ図書館」がつくられました。ヒルシュホルンの記録によると、この図書館にはあえてバタイユ自身の本もバタイユについての本も置かず、言葉、イメージ、芸術、スポーツなど、バタイユの仕事に通じる5つのテーマの本を並べました。バタイユの思想を、本の外へ広げていくための工夫です。開幕の3日間、ヒルシュホルンは住宅地の軽食スタンドで飲み物と食事を無料でふるまい、住民とドクメンタの来場者が混ざり合う場をつくっています。

図書館のほかにも、『Bataille Monument』はいくつもの要素の組み合わせでできていました。ヒルシュホルンの記録に書かれている要素を整理すると、次のようになります。
| 要素 | ねらい(作家の記録より) |
|---|---|
| シャトル送迎 | 住宅地とドクメンタの他の会場を無料で結ぶ。1台に最大4人で、少人数ずつ来てもらう |
| ジョルジュ・バタイユ図書館 | バタイユの仕事に通じる5つのテーマの本を置き、つながりを広げる |
| バタイユ展示 | バタイユの生涯と仕事を伝える。部屋の中央にはバタイユの仕事の図とカッセルの地形図を重ねた模型 |
| 軽食スタンド | 飲食よりも、話し、過ごす機会をつくる |
| テレビスタジオ | 住民がつくる約10分の番組を、カッセル市の市民チャンネルで放送する |
| ワークショップ | 会期中、バタイユに関わる小さな出来事を生み出す |
| ウェブカメラ | インターネットを通じて、来場しない人ともつながる |
| 彫刻 | 一般に「モニュメント」と呼ばれる外から見える部分を、あえて独立させる |
こうして見ると、彫刻はモニュメントの一部にすぎないことが分かります。ヒルシュホルンは、目に見える彫刻だけを「モニュメント」と呼ぶ考え方に対して、人が集まり、話し、番組をつくり、本を読む時間そのものをモニュメントにしようとしたのです。
記録によると、ドクメンタ11の来場者のうち、この住宅地まで足を運んだのは4〜5%ほどだったと見積もられています。それでも作品は大きな議論を呼びました。会期が終わると、ヒルシュホルンは住民だけに撤去を任せず、自らも立ち会いました。撤去にかかったのは、わずか3日間だったといいます。
この作品について、ヒルシュホルンは「私はアーティストであって、ソーシャルワーカーではない」と書いています。社会的な課題が作品を通して語られること自体は歓迎しつつも、これはあくまで自律した芸術作品なのだと強調しました。住民を「助ける」ためではなく、芸術として誰も締め出さないためにこの場所を選んだ、という立場です。
『Gramsci Monument』(2013年)
シリーズを締めくくったのが、2013年の『Gramsci Monument』です。イタリアの政治思想家アントニオ・グラムシ(1891〜1937年)に捧げられ、ニューヨーク市住宅局が運営するブロンクスの公営住宅フォレスト・ハウジズの敷地に建てられました。会期は2013年7月1日から9月15日まで。企画はディア美術財団です。
ディア美術財団は、この作品がヒルシュホルンの「モニュメントを定義し直し、出会いを引き起こし、出来事をつくり、いまグラムシについて考える」という意志にもとづいていると紹介しています。期間限定であることも、住民が建てることも、すべてこの意志から来ています。
ディア美術財団の解説によると、作品はフォレスト・ハウジズの住民によって建てられ、いくつものパビリオンから成る屋外の構造物になりました。ローマのグラムシ研究所から借りた写真の展示室、イタリア・ギラルツァのグラムシ記念館から借りた本人ゆかりの品、グラムシに関する500冊の本を並べた図書館、舞台、ワークショップの場、インターネットコーナー、ラウンジ、そして「グラムシ・バー」があり、その運営も地域の住民が担いました。

会期中は毎日、哲学者マルクス・シュタインヴェークの講義、子ども向けのワークショップ、ラジオ放送、日刊の新聞づくりが続きました。週ごとにはグラムシ・セミナーや詩の講義、ヒルシュホルン自身による美術のワークショップも開かれています。写真の横断幕に書かれた「破壊は難しい。それは創造と同じくらい難しい」という言葉は、グラムシの『獄中ノート』から取られたものです。
2023年には、同じフォレスト・ハウジズで「10 Years Gramsci Monument」と題した10周年の催しも開かれました(作家の公式サイトの経歴による)。
「アーティストであって、ソーシャルワーカーではない」:『Musée Précaire Albinet』(2004年)
モニュメントと並ぶ代表作が、2004年の『Musée Précaire Albinet(アルビネ仮設美術館)』です。パリ北郊オーベルヴィリエの団地シテ・アルビネに、住民と一緒に仮設の美術館を建て、そこにポンピドゥー・センターの所蔵品を運び込んで展示しました。制作はオーベルヴィリエの文化施設レ・ラボラトワール・ドーベルヴィリエです。
ヒルシュホルンが選んだのは、デュシャン、マレーヴィチ、モンドリアン、ダリ、ボイス、ル・コルビュジエ、ウォーホル、レジェの8人でした。彼は講演の中で、この8人を「作品を通して人生を変えようとし、実際に人生を変えることができた」作家だと説明しています。

展示は1週間ごとに作家を替えて行われ、毎週オープニングが開かれました。美術史家による解説、作家・詩人が招いた女性の書き手による文章ワークショップ、毎週の討論会、住民の家族や友人が用意する共同の食事、作品にゆかりのある場所への小旅行も組まれています。たとえばデュシャンの週にはパリの百貨店BHVを、ル・コルビュジエの週にはナント近郊ルゼの集合住宅を訪ねました。
撤去も作品の一部でした。ヒルシュホルンは講演で、撤去はわずか1週間で終わったが、それは仮設美術館の終わりではなく段階のひとつだった、と振り返っています。すべての段階が同じように大切だった、とも語っています。
この作品についても、ヒルシュホルンは2004年の文章で「私はアーティストであり、ソーシャルワーカーではない」と書いています。アルビネ仮設美術館は社会文化事業ではなく芸術作品であり、芸術は芸術であることによってのみ重要性と政治的な意味を持てる、という主張です。
美術館の中に「公共の場」をつくる(2004〜2014年)
ヒルシュホルンは、街の中だけでなく、美術館やギャラリーの中にも公共の場をつくろうとしてきました。2014年の文章「Presence and Production」では、その例としてパリのパレ・ド・トーキョーでの『24h Foucault』(2004年)、パリのスイス文化センターでの『Swiss-Swiss Democracy』、2014年のパレ・ド・トーキョーでの『Flamme éternelle』を挙げています。
『Swiss-Swiss Democracy』(2004年)
2004年にパリのスイス文化センターで開かれた『Swiss-Swiss Democracy』は、題名のとおり母国スイスの民主主義を主題にした展覧会です。展示の中では演劇も上演されました。
この展覧会は、スイス国内で大きな議論を呼びました。スイスの公共放送が運営するswissinfo.chによると、展示の中に当時の司法大臣を批判する内容が含まれていたことから、連邦議会は展覧会を支援したスイス芸術評議会プロ・ヘルヴェティアの予算から100万スイスフランを削減しました。芸術への公的支援と表現の自由をめぐる議論として、いまも語られる出来事です。
『Too Too-Much Much』(2010年)
2010年、ベルギーのデュルレにあるデュオンド=ダーネンス美術館で発表されたのが『Too Too-Much Much』です。展示室の床一面が、つぶれた飲料の缶で埋め尽くされました。
ヒルシュホルンはこの作品について、「Energy : Yes ! Quality : No !」の指針に従う作品だと書いています。作品には2つのテーマがあり、ひとつは飲料の缶という素材が示す消費と「過剰」、もうひとつは、本質にたどり着くのではなく本質を通り越して、本当にやり過ぎるという作家の務めだと説明しています。

写真を見ると、来場者は缶の上を実際に歩いて進んでいます。暖炉やソファといった家の中の家具が缶に半分埋もれている様子は、私たちの暮らしが消費したものの量に飲み込まれていく光景にも見えます。
『Flamme éternelle』(2014年)
2014年、パリのパレ・ド・トーキョーで発表された『Flamme éternelle(永遠の炎)』は、美術館の中に「話し合いの場」をつくった作品です。テートの紹介によると、ヒルシュホルンは52日間、自らつくった展示空間の中に毎日身を置き、200人のフランスの作家・詩人・哲学者を招いて、観客の前で彼らの仕事を語ってもらいました。
会場には、講演が行われる「アゴラ(広場)」、会期中ずっと燃え続ける本物の炎、バーやラウンジ、700冊の本から始まる図書館がありました。ヒルシュホルンはテートの映像の中で、招かれた人たちが本を持ってくることで図書館がどんどん大きくなっていく、と話しています。
この作品でヒルシュホルンは、映像の中で「この作品は存在と制作にもとづいている。だから私は毎日ここにいて、毎日制作している」と語っています。その「存在と制作」という考え方を、次の節で詳しく見ていきます。
「参加」ではなく「存在と制作」
ヒルシュホルンの作品は、しばしば「参加型アート」や「関係性の美学」と呼ばれます。けれども本人は、その呼び方を使いません。2014年の文章「Presence and Production」で、彼は「参加型アート」「関係性の美学」「コミュニティ・アート」「教育的アート」はどれも自分の言葉ではなく、一度も使ったことがないと書いています。
彼によれば、参加は目的にはなりえず、うまくいったときの幸運な結果にすぎません。まず作家である自分が、自分の存在と制作を差し出す。そうすることで、相手にも時間と制作を差し出してもらう。この順番が大切だというのです。

モニュメントの現場で、ヒルシュホルンは毎日その場にいました。『Bataille Monument』では住宅地の中の部屋に住み込み、『Flamme éternelle』では52日間会場に通い続けています。作品を置いて帰るのではなく、作家が毎日そこにいることそのものが、作品の一部になっているのです。
もうひとつの鍵となる言葉が「非排他的な観客(non-exclusive audience)」です。2008年の文章では「non-exclusive public」と書き、これを「すべての人」や「大衆」ではなく、ときに多く、ときに少ない「他者たち」のことだと説明しています。隣人かもしれないし、自分を怖がらせる見知らぬ人かもしれない。そうした他者を作品から決して締め出さない、というのが彼の考えです。
なお、ヒルシュホルンは「政治的アート」という呼び方にも距離を置いています。2008年の文章では、「政治的アート」「政治的アーティスト」といった分類は、とうに古びた安易で怠惰な分類だと書き、自分が関心を持つのは「政治的に芸術をすること」だと述べています。そしてそれは、まず「形を与えること」を意味すると説明しました。
同じ文章で彼は、自分の作品を「愛」「政治」「哲学」「美学」という4つの領域に置くと決めた、とも書いています。4つはどれも同じように大切で、作品がいつもこの4つすべてに触れていてほしい。政治はその4つのうちのひとつにすぎない、という整理です。「政治的な作家」というレッテルだけでは、ヒルシュホルンの仕事のごく一部しか見えないことが分かります。
ヒルシュホルンには、報道写真を用いたコラージュなど、戦争や暴力の現実そのものを主題にした作品群もあります。本記事では、制作の方法と、場をつくる作品を中心にご紹介しています。
『Robert Walser-Sculpture』と近年の活動(2019年〜)
ヒルシュホルンが長く敬愛してきた作家のひとりが、スイスの作家ローベルト・ヴァルザーです。1999年にチューリッヒ大学イルヒェル校舎で『Robert Walser-Kiosk』を発表するなど、ヴァルザーに捧げた作品を何度もつくってきました。
『Robert Walser-Sculpture』(2019年)
2019年の夏、スイスのビール/ビエンヌの駅前広場に建てられたのが『Robert Walser-Sculpture』です。スイス彫刻展(ESS)の一環として制作されました。

2019年9月8日付で公開された文章で、ヒルシュホルンはこの作品の4つの目的を挙げています。ヴァルザーの記憶を呼び覚まし続けること。ヴァルザーの作品を考え直すこと。出会いを生み、出来事をつくること。そして公共空間における新しい彫刻の形を打ち立てることです。
同じ文章で彼は、この作品にはフィールドワーク、設営、展示、撤去、変容という5つの段階があると述べています。撤去されて物も素材も消えたあとに残る、共に過ごした経験や出会いの記憶こそが「変容」だという考え方です。成功か失敗かを言うには少なくとも10年が必要だ、とも書いています。
この文章でとくに印象に残るのは、作品が何のためにあったのかについての書き方です。ヒルシュホルンは、この作品は平和や正義や民主主義のために働こうとはしなかったし、「可能なこと」や「不可能なこと」を証明しようともしなかった、と書いています。芸術作品としての自律を守ることを、ここでもはっきりと打ち出しているのです。
そのうえで彼は、確かなことはただひとつ、毎日そこにいられたことが幸せだということだ、と続けます。自分の芸術の仕事ができたから、ひとりではなかったから、芸術の形と力と意味が一瞬ごとに試され、問われたから幸せなのだと。毎日その場にいるという「存在と制作」の方法が、作家自身にとってどんな経験だったのかがよく伝わる一節です。
近年の活動(2026年10月時点)
作家の公式サイトによると、ヒルシュホルンはスペインのカセレスにあるエルガ・デ・アルベアール美術館で「My Atlas # Our Atlas #」展を開き(経歴では2025年)、2026年にはスイスのクールにあるビュンドナー美術館で「My Atlas」展、ジュネーヴのパヴィヨン・シクリで『Pavillon Simone Weil』を発表しています。フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユに捧げた新しい「Presence and Production」の作品です。
著作も出版されています。2013年にはマサチューセッツ工科大学出版局(MIT Press)から、文章を集めた『Critical Laboratory: The Writings of Thomas Hirschhorn』が刊行されました。本記事で紹介した言葉の多くも、こうした文章として公式サイトで公開されています。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、スイス出身でパリを拠点に活動する美術家、トーマス・ヒルシュホルンをご紹介しました。
段ボールとガムテープという安い素材を選び続け、「Energy = Yes! Quality = No!」を指針に掲げてきたこと。スピノザ、ドゥルーズ、バタイユ、グラムシに捧げた4つのモニュメントを、美術館ではなく人が暮らす場所に、住民と一緒に建ててきたこと。そして作品を置いて帰るのではなく、毎日その場にいる「存在と制作」によって、出会いの場を生み出してきたことが、彼の仕事の大きな特徴です。
ヒルシュホルンは現在も活動中の作家です。作品の多くは期間限定のため、終わったあとは写真や文章、映像で知ることになります。公式サイトには作品ごとの記録写真と本人の文章が数多く公開されているので、気になった作品からたどってみてください。
Euphoric " " の視点
ヒルシュホルンは、モニュメントの現場に毎日通い、『Bataille Monument』では住宅地の中の部屋に住み込みました。2019年の『Robert Walser-Sculpture』についても、確かなことはただひとつ、毎日そこにいられたことが幸せだということだ、と書いています。
作品が何かの役に立つと約束するより先に、まず作家自身が存在と制作を差し出す。参加は目的ではなく結果だという考え方が、住民とともに建てる作品を成り立たせてきたのだと考えます。
人と何かを一緒につくりたいとき、まず自分が毎日その場にいることから始める姿勢は、多くの仕事に通じる手がかりになるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品の一部は、次の館などで所蔵・公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。期間限定の作品は、作家の公式サイトで記録を見ることができます。






