【徹底解説】カンディンスキーってどんな人?作品と人生を理解しよう!

【徹底解説】カンディンスキーってどんな人?作品と人生を理解しよう!

こんにちは!ユアムーン株式会社 編集部です!
突然ですが、皆さんはカンディンスキーという画家を知っていますか?
カンディンスキーは、20世紀前半に「抽象画」を生み出した画家のひとりです。
西洋美術史に存在しなかった「抽象」という表現を生み出したカンディンスキー。それは、革命とも言うべき衝撃的な発見でした。その「革命」のバックグラウンドのひとつが、音楽なのです。

この記事ではカンディンスキーの『人生』と『作品』についてご紹介します!

カンディンスキーとは?

基本情報

本名 ワシリー・カンディンスキー(Васи́лий Васи́льевич Канди́нский、Wassily Kandinsky)
国籍/出身 ロシア モスクワ(のちにドイツとフランスの国籍を取得)
生年月日 1866年12月16日
分野/芸術動向 抽象絵画
学歴/出身大学など モスクワ大学、ミュンヘン美術アカデミー
公式サイト/関連サイト なし

経歴と作品

教授職から一転、30歳で絵画の道へ

ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)は1866年、モスクワに生まれました。家庭は裕福で、両親ともに楽器を演奏する文化的な一家でした。カンディンスキーも子どもの頃から音楽に親しんで育ちます。オデッサで幼少期を過ごしたのち、カンディンスキーはグレコフ・オデッサ美術大学に入学します。卒業後、カンディンスキーは一旦美術から離れ、モスクワ大学で法学と経済学を学びました。優秀な成績でモスクワ大学を卒業したカンディンスキーは、タルトゥ大学でローマ法学の教授職に就きます。

ところが、カンディンスキーは30歳で学者としてのキャリアを捨て、芸術の道を選んだのです。

まずは、画家・カンディンスキーの作風の変遷をご紹介しましょう。

オデッサ港

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カンディンスキーが絵画を学び始めたのは1986年です。
ごく初期は、風景画を中心に制作していたようです。

青い山

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絵画に取り組み始めた当初、カンディンスキーは象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックに師事していました。象徴主義とは、観念(=心の中のイメージ)を表現することを重視する芸術運動です。

作風が変化したのは、1906年から1907年にかけてのパリ旅行がきっかけだと言われています。

パリでフォービズムを知ったカンディンスキーは、その影響を感じさせる、原色を多用した激しいタッチの作品を描くようになりました。

1911年、カンディンスキーはフランツ・マルクらと「青騎士」という芸術グループを結成します。

このグループはのびのびとした芸術家たちの集まりだったようですが、第一次世界大戦の影響で活動が停止してしまいました。

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抽象主義の旗手となる

カンディンスキーは、モンドリアンと並んで抽象画のパイオニアと言われています。1937年のインタビューによれば、カンディンスキーによる最初の抽象画は1911年に描かれました。

円のある絵

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最初の抽象画のひとつとされるのが、1911年に描かれたこちらの作品です。
もやもやと混ざり合う色彩からは、具体的なモチーフを読み取れません。

最初期のカンディンスキーは「オデッサ港」「青い山」のように題材をタイトルにしていました。

しかし、この作品ではタイトルも「円のある絵」(Bild mit Kreis(ドイツ語)、Picture with a circle(英語))

具体物の名称は登場せず、抽象的な題名となっています。
その後も、カンディンスキーは抽象表現を突き詰めていきました。

故郷ロシアでの挫折、そしてバウハウスへ

ロシア革命の翌年、1918年にカンディンスキーは生まれ故郷モスクワに戻りました。
当時のソ連では、レーニンによって前衛芸術が保護されており、カンディンスキーは政府の要職に就いて芸術教育を推進しました。

しかし、スターリンが台頭するにつれて前衛芸術は軽視されるようになり、カンディンスキーは1921年、ドイツへと拠点を移すことになります。

エクステンデッド

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1922年から、カンディンスキーはドイツの美術・建築学校のバウハウスで教官として美術学生を指導しました。

バウハウス時代にカンディンスキーは2冊目の理論書『点と線から面へ』を出版しました。

この著書は「序論」から始まり「点」「線」「地‐平面」の3章から成るものです。この構成からも、カンディンスキーが幾何学的図形を重視していたことがわかります。

こちらの「エクステンデッド」でも、カンディンスキー独自の図形理論が表現されています。

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不遇のパリ時代と、かつての恋人による復権

1933年、バウハウスはナチス・ドイツに閉鎖されてしまいます。
カンディンスキーはフランスに移住し、1939年にはフランス国籍を取得しました。

多彩色のアンサンブル

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この作品はフランス時代に描かれたものです。
晩年のカンディンスキーの作品には、有機的なモチーフが現れるようになりました。
幾何学的な表現は影を潜め、微生物を思わせる曲線的なフォルムが画面全体に表現されています。加えて、原色を中心とした配色も変化を見せました。

フランス時代の作品は、より穏やかな色彩で表現され、その構成はしなやかで神秘性すら感じさせます。「アンサンブル」というタイトルには、華やかな合奏という音楽的イメージも重ねられているのでしょう。

フランスに移ってから、カンディンスキーの作品はのびのびとした生命力を獲得したように感じる方も多いのではないでしょうか。
しかし、フランスは1940年にナチス・ドイツに占領されます。ナチス占領下のフランスで、カンディンスキーは作品の発表を禁止され、不遇のまま1944年、77歳でその生涯を閉じました。

カンディンスキーの作品の一部は、かつての恋人ガブリエレ・ミュンターが所有していました。
ミュンターは、カンディンスキーに裏切られた立場でした。
1900年代初め頃、カンディンスキーとミュンターは恋人同士であり、婚約もしていました。しかしそのとき、カンディンスキーには法的な婚姻関係にある妻がいたのです。カンディンスキーがロシアに戻り、ミュンターは再会を待ち望んで暮らしていましたが、のちにカンディンスキーが別の女性と再婚したことを知らされます。ミュンターにとって、カンディンスキーは人生に暗い影を落とした人物だったことでしょう。それでもミュンターは、カンディンスキーの作品をナチスから隠し続けました。

1958年、ミュンターはカンディンスキーの作品80点以上をミュンヘン市に寄贈します。今でも私たちが多くのカンディンスキー作品を見られるのは、ミュンターの偉大な功績のおかげなのです。

他の作品

モネ「積み藁」との邂逅

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これはカンディンスキーの作品ではなく、印象派を代表する画家、クロード・モネの「積み藁」です。モスクワでこの絵画を見たカンディンスキーは、衝撃を受けました。そのときカンディンスキーは、絵画は具体的なモチーフ抜きに、色や質感、構成だけで成立すると確信したのです。

この気付きが、後年の抽象表現の発明に影響を及ぼしていることは間違いありません。

音楽が生み出した「抽象」

カンディンスキーは、幼少期から音楽教育を受けて育ち、ピアノとチェロを習っていました。幼少期から育まれた音楽的な感性は、作品に大きな影響を及ぼしています。

音楽と絵画の繋がりは、作品のタイトルからも窺うことができます。

Improvisation 6 (African) – 即興6
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Improvisation 21a – 即興21a
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カンディンスキーは抽象画を発表する以前の1909年頃から”Improvisation”というタイトルのシリーズを制作し始めます。このタイトルは「即興」という意味も持ちますが、「即興曲」「即興演奏」を指す音楽用語でもあり、音楽への関心を示唆しています。

1909年制作の”Improvisation 6 (African)”では人物が描かれ、”(African)”と題材も示されています。それに対して1911年の”Improvisation 21a”は、一見して画題が見て取れる表現ではなくなっています。

抽象感覚が磨かれる過程には、音楽への意識があったのかもしれません。

コンポジション VIII
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カンディンスキーの代表的なシリーズである「コンポジション」(Composition)も、音楽的な視点を含んでいます。”Composition”は、「構成」という意味のほかに、「作曲すること」「曲」という意味も持つのです。

画家・カンディンスキーの、音楽への強い意識。それを裏付ける著書もあります。

1910年に出版された初めての理論書『芸術における精神的なもの』の中でカンディンスキーは「色はキーボードで、目はハンマー、精神は多くの弦からなるピアノだ」と語っています。

色彩と音楽は、カンディンスキーにとって非常に近い存在だったのです。

また、2冊目の理論書『点と線から面へ』には楽譜が登場します。

音符を提示し、それを点に置き換えるという形で「点」という形態の分析を進めているのです。第2の理論書からも、カンディンスキーが絵画表現においても音楽を重視していたことが読み取れます。

印象Ⅲ(コンサート)
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カンディンスキーは、共感覚を持っていたと言われています。
共感覚とは、ある感覚的な刺激(例えば聴覚)が別の種類の感覚(例えば視覚)を呼び起こすという知覚の性質のことです。

カンディンスキーは、音楽を聞いたときに色彩が浮かぶという感覚を持っていました。

「印象Ⅲ(コンサート)」は、1911年、アルノルト・シェーンベルクのコンサートに感銘を受けて描かれたものです。カンディンスキーにとっての音楽と絵画の繋がりが、鮮やかに表現されています。

カンディンスキーの目には、音楽のある世界がこのように見えていたのかもしれませんね。

まとめ

抽象画のパイオニアとして、美術史に大きな功績を残したカンディンスキー。
その着想を印象派・モネの作品から得ていたというのは、少し意外に思えるかもしれません。カンディンスキーは、音楽をひとつの着想源にした複数の理論書を残しました。幼少期から音楽に親しんだ経験が、カンディンスキーの鋭敏な色彩感覚や、大胆でありながら緻密な画面構成を育んだのです。

カンディンスキーの作品は、東京国立近代美術館をはじめとする日本各地の美術館に収蔵されています。カンディンスキーが感じる世界がどのようなものだったのか想像しながら、作品を鑑賞してみてはいかがでしょうか。

参考文献

ヴァシリー・カンディンスキー[著]宮島久雄[訳](2020)『点と線から面へ』東京、中央公論美術出版



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