【徹底解説】ジャン・ルノワールとは?『大いなる幻影』『ゲームの規則』を撮った映画監督の人生と作品を解説!

【徹底解説】ジャン・ルノワールとは?『大いなる幻影』『ゲームの規則』を撮った映画監督の人生と作品を解説!

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはジャン・ルノワールという人物をご存知ですか?

ジャン・ルノワール(Jean Renoir)は、フランスの映画監督です。印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの息子として生まれ、サイレント映画の時代から1960年代まで、40年以上にわたって映画をつくり続けました。ブリタニカ百科事典は、その作品を「写実性と力強い物語で知られる」と紹介し、代表作として『大いなる幻影』(1937年)、『ゲームの規則』(1939年)、『河』(1951年)を挙げています。

なかでも『ゲームの規則』は、英国映画協会(BFI)の雑誌「Sight and Sound」が2022年に発表した批評家投票「史上最高の映画」で13位に入っており、公開から80年以上たった今も映画史の名作として語られています。

本記事ではそんなジャン・ルノワールの人生と作品についてご紹介します。生没年や受賞歴は、百科事典、大学図書館の資料目録、アカデミー賞の公式記録、作品の権利を持つ配給会社の公式ページで確認したものだけを、表と図解にまとめています。

ジャン・ルノワールって?

ジャン・ルノワールは、1894年9月15日にフランス・パリのモンマルトル地区で生まれた映画監督です。父は印象派を代表する画家ピエール=オーギュスト・ルノワール。画家とそのモデルたちに囲まれて育ち、のちに映画監督の道へ進みました。

検索では「ジャンルノワール」「ジャン ルノワール」「ルノワール ジャン」と書かれることもあります。いずれも同じ人物を指しています。本記事では、父は「ピエール=オーギュスト」、息子は「ジャン・ルノワール」または「ルノワール」と書き分けます。

基本情報

本名ジャン・ルノワール(Jean Renoir)
生年月日(没年月日)1894年9月15日〜1979年2月12日
国籍・出身フランス。パリ・モンマルトル地区出身。晩年はアメリカのロサンゼルスに住み、アメリカの市民権を得ながらフランス国籍も保った
学歴エクス=アン=プロヴァンス大学で学位を取得(1913年)
分野映画監督、脚本家。戯曲・小説・回想録も執筆
代表作『大いなる幻影』(1937年)、『ゲームの規則』(1939年)、『河』(1951年)、『黄金の馬車』(1952年)、『フレンチ・カンカン』(1955年)
主な受賞アカデミー賞 名誉賞(1975年)。『南部の人』でアカデミー賞監督賞にノミネート(第18回、1946年)
ハンチング帽をかぶり、ツイードの上着を着たジャン・ルノワールの白黒の肖像写真。少し首をかしげ、まっすぐこちらを見ている。
ジャン・ルノワール(1955年)撮影:Studio Harcourt/パブリックドメイン(著作権者による許諾)/出典:Wikimedia Commons

【徹底解説】ピエール=オーギュスト・ルノワールとは?作品と人生を3分で理解しよう!

経歴と作品

画家の家に生まれて(1894〜1919年)

ブリタニカ百科事典によると、ジャン・ルノワールは芸術が中心にある家庭で、画家やモデルたちに囲まれて幸せな子ども時代を過ごしました。学校での勉強よりも、美しいものをのびのびと味わうことのほうが豊かだった、と同書は書いています。

それでも1913年にはエクス=アン=プロヴァンス大学で学位を取り、在学中には詩も書いていました。その後、騎兵隊に入って軍人の道を歩み始めます。第一次世界大戦中に脚を負傷し、療養のあいだパリの映画館に通いました。ブリタニカ百科事典は、ルノワールがこのとき連続活劇やチャールズ・チャップリンの映画に出会ったと書いています。のちの映画監督の原点のひとつです。

戦後、進む道を決めかねていたルノワールは、一家が暮らしていた南フランスのカーニュ=シュル=メールで、兄とともに陶芸を学びました。のちに映画で南フランスの風景を撮ることになるルノワールにとって、なじみの深い土地です。

陶芸から映画へ(1920年代)

ブリタニカ百科事典によると、父が亡くなって数か月後の1920年の初め、ルノワールは父の絵のモデルを務めていたアンドレ・ウシュランと結婚し、父がかつて絵を描いたパリ近郊の村マルロットに移りました。当初は陶芸の工房を開くつもりで、友人で画家セザンヌの息子のポール・セザンヌも加わっていました。

転機は演劇の人々との出会いでした。義姉で女優のヴェラ・セルジーヌを通じて演劇の世界と接したルノワールは、発展しつつあった映画という表現にひかれ、脚本を書くことを決めます。この脚本は1923年に『カトリーヌ』として映画になり、妻はカトリーヌ・エスランの名で出演しました。

『水の娘』(原題:La Fille de l’eau、1924年)

ルノワールが初めて監督した映画が『水の娘』です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)図書館のジャン・ルノワール資料の目録も、「1924年に最初の映画『水の娘』を監督した」と記しています。主演は再びカトリーヌ・エスランでした。

ブリタニカ百科事典は、この時期の作品について、技術的な不器用さや資金の不足、素人らしさがあったとしながらも、映画作家としての天性の才能がすでに表れていたと評価しています。絵画からの強い影響が見える初期作品は、時がたつにつれて独特の魅力をもつようになった、とも書いています。

1920年代の後半には、エミール・ゾラやハンス・クリスチャン・アンデルセンらの文学を原作に、当時のフランスの前衛映画のスタイルで個人的な作品をつくりました。ただし商業的には成功せず、ルノワールと出資者はほとんど破産しかけたといいます(ブリタニカ百科事典)。

トーキーの時代と1930年代の名作群

映画に音が付くトーキーの時代が来ると、ルノワールは新しい技術にも対応しました。ブリタニカ百科事典によると、『坊やに下剤を』(1931年)でこの試練を乗り越え、続く『牝犬』(1931年)で実力を示しました。作品の配給を手がける米国のヤヌス・フィルムズは、『牝犬』をルノワールの2本目のトーキー作品と紹介し、「洗練された構図とカメラの動き」が物語を運ぶと評しています。

ブリタニカ百科事典は、1930年代のルノワールが最も重要な作品を数多く生み出した一方で、その構成の自由さが当時の批評家を戸惑わせ、興行的にはそこそこの成功にとどまったと書いています。この時期の作品には、ジョルジュ・シムノンの小説を原作にした『十字路の夜』(1932年)、ギュスターヴ・フローベールの小説による『ボヴァリー夫人』(1934年)などがあります。

『素晴らしき放浪者』(原題:Boudu sauvé des eaux、1932年)

ヤヌス・フィルムズの作品紹介によると、名優ミシェル・シモンが、セーヌ川から助け出されたパリの浮浪者ブーデュを演じた作品です。彼を救った裕福な書店主の一家はブーデュを家に迎え入れますが、ブーデュは一家の暮らしを根底から揺さぶっていきます。ルノワールはパリの街なかでの撮影と主演俳優の奔放な魅力を生かし、裕福な市民階級を風刺する喜劇に仕上げました。ブリタニカ百科事典も、この作品を「無政府的で自由奔放な喜劇」と呼んでいます。

『トニ』(原題:Toni、1935年)

ヤヌス・フィルムズによると、ルノワールは1934年に撮影所を離れて南フランスへ向かい、プロヴァンスの田園で、移民たちの共同体を舞台にした人間ドラマを撮りました。職業俳優ではない人々の起用と、現地での撮影を先駆的に取り入れた作品で、のちのイタリアのネオレアリズモとフランスのヌーヴェル・ヴァーグの両方を先取りしたと紹介されています。のちに映画監督となるルキノ・ヴィスコンティが助監督を務めたことも、同じ紹介に書かれています。

『ランジュ氏の犯罪』(原題:Le Crime de M. Lange、1936年)

ブリタニカ百科事典は、この作品が初期のトーキーにありがちだった硬い作り方から抜け出し、即興と編集(モンタージュ)を生かした本来の映画らしい表現を取り戻す前ぶれになった、と評価しています。

『ピクニック』(原題:Partie de campagne、1936年撮影・1946年公開)

ギ・ド・モーパッサンの短編を原作にした作品です。ヤヌス・フィルムズによると、パリの一家が田舎へピクニックに出かけ、母と年頃の娘が土地の男たちに言い寄られる、ほろ苦くも優しい喜劇です。短めの作品として企画され、1936年に撮影がほぼ終わったところで、ルノワールは次の作品『どん底』のために現場を離れました。撮影はそこで打ち切られましたが、残された映像をもとにルノワールのチームが仕上げ、監督がすでにハリウッドに渡ったあとの1946年に、現在の形で公開されました。

ブリタニカ百科事典は、この作品を「印象派の映画の傑作」と呼び、技術以上に、絵画的な感覚の詩情と魅力こそがルノワールの映画の土台だと書いています。上映時間41分の小品ですが、BFIの2022年の投票でも136位(同率)に入っています。

『大いなる幻影』(原題:La Grande Illusion、1937年)

第一次世界大戦中の捕虜となったフランス軍将校たちを描いた作品です。ブリタニカ百科事典は「心を動かす物語」と紹介し、ルノワールの代表作の筆頭に挙げています。主な出演者には、ピエール・フレネー、エリッヒ・フォン・シュトロハイムらがいます。

アカデミー賞の公式記録によると、この作品は1939年の第11回アカデミー賞で、作品賞(当時の名称は Outstanding Production)にノミネートされました。英語の題名は「Grand Illusion」、製作会社は Réalisation d’Art Cinématographique と記録されています。フランス語の作品が、アメリカの映画賞の最高部門の候補に並んだことになります。

『獣人』(原題:La Bête humaine、1938年)

エミール・ゾラの小説を原作にした作品です。ヤヌス・フィルムズは、ルノワールの作品のなかで最も大衆的な成功を収めたもののひとつで、主演のジャン・ギャバンがフランスの人々に長く愛される存在になった作品と紹介しています。ブリタニカ百科事典は「ゾラの見事な自由な解釈」と評しています。

『ゲームの規則』(原題:La Règle du jeu、1939年)

ブリタニカ百科事典が「彼の最高傑作」と呼ぶ作品です。ヤヌス・フィルムズの紹介によると、侯爵の田舎の館で過ごす週末を舞台に、上流の人々の姿をあらわにしていく風俗喜劇で、当時のフランス社会への鋭い批評が込められています。BFIは「上流階級も使用人も、田舎の館での週末に集めた、ルノワールのフランス社会の群像画」と紹介しています。

この作品の歩みは平坦ではありませんでした。ヤヌス・フィルムズによると、1939年の初公開では観客の激しい反発を受けて短く切られ、元のネガフィルムは第二次世界大戦中に失われました。作品が再構成されたのは1959年のことです。ブリタニカ百科事典も、配給会社によって切り刻まれ、長く失敗作と見なされていたこの映画が、1965年に元の形で上映されて、その驚くべき美しさが明らかになったと書いています。

その後の評価は大きく変わりました。BFIの「Sight and Sound」の批評家投票では長く上位10作の常連で、2022年は前回の4位から13位になりましたが、今も上位に名を連ねています。

年『ゲームの規則』に起きたこと出典
1939年初公開。観客の激しい反発を受け、短く切られるヤヌス・フィルムズ
第二次世界大戦中元のネガフィルムが失われるヤヌス・フィルムズ
1959年作品が再構成されるヤヌス・フィルムズ
1965年元の形で上映され、美しさが再発見されるブリタニカ百科事典
2022年BFI「Sight and Sound」批評家投票で13位BFI

ハリウッドでの仕事(1940年代)

1940年、ルノワールはイタリアで映画『トスカ』の準備に入っていました。ロンバルディア州の文化財の写真資料には、ルノワールがこの作品の下見でローマ近郊のティヴォリを訪れた際の写真が残っています。

レストランの食卓につき、横を向いて話すスーツ姿のジャン・ルノワールの白黒写真。手前に水差し、奥に窓と別の男性が写っている。
映画『トスカ』の下見で訪れたティヴォリでのジャン・ルノワール(1940年)撮影:Federico Patellani/パブリックドメイン/出典:Wikimedia Commons

同じ1940年、ルノワールは多くの友人と同じくアメリカのハリウッドへ渡り、そこで映画づくりを続けます(ブリタニカ百科事典)。ブリタニカ百科事典は、アメリカ時代の作品の出来にはばらつきがあり、それまでの作風から離れたものだったとしつつ、次の作品を挙げています。

  • 『スワンプ・ウォーター』(原題:Swamp Water、1941年)
  • 『南部の人』(原題:The Southerner、1945年)
  • 『小間使の日記』(原題:Diary of a Chambermaid、1946年)
  • 『浜辺の女』(原題:The Woman on the Beach、1947年)

『南部の人』(原題:The Southerner、1945年)

アカデミー賞の公式記録によると、『南部の人』で、ルノワールは1946年の第18回アカデミー賞の監督賞にノミネートされました。同じ作品は作曲賞(ヴェルナー・ヤンセン)と録音賞にもノミネートされています。ヴェネチア・ビエンナーレの公式サイトの映画祭の歴史によると、この作品は1946年のヴェネチア国際映画祭で、記者団による最優秀作品に選ばれました。

ブリタニカ百科事典によると、ルノワールはロサンゼルスに住み、アメリカの市民権を得ながらも、フランスの国籍を保ち、パリとのつながりも持ち続けました。

『河』とヨーロッパへの帰還(1950年代)

『河』(原題:The River、1951年)

ルノワールが初めてカラーで撮った長編が『河』です。ブリタニカ百科事典によると、インドで撮影されました。ヤヌス・フィルムズの紹介では、作家ルーマー・ゴッデンの小説を原作に、3人の若い女性の成長の痛みと、彼女たちの日々を取り巻くベンガルの川の変わらなさとを対比して描いた作品で、全編がインドでのロケーション撮影です。

ブリタニカ百科事典は、この作品の時期のルノワールを「成熟した作風を完全に手にしていた」と評し、その作風には繊細さ、熱意、人間らしさという、ルノワール本人の人柄が映っていたと書いています。BFIの2022年の投票でも185位(同率)に入っています。

『黄金の馬車』(原題:Le Carrosse d’or、1952年)

インドからヨーロッパへ戻る途中、ルノワールはイタリアで『黄金の馬車』を撮りました(ブリタニカ百科事典)。ヤヌス・フィルムズの紹介によると、18世紀を舞台に、見事な黄金の馬車を受け取った総督が、それを旅回りのコメディア・デラルテ(イタリアの即興喜劇)の一座の看板女優に贈ってしまう喜劇的な幻想劇です。音楽にはアントニオ・ヴィヴァルディの曲が使われ、主演はアンナ・マニャーニが務めました。

ブリタニカ百科事典は、画家と劇作家の両方の才能を合わせた豪華な作品であり、俳優とその仕事へのルノワールの愛情がよく表れていると評しています。ルノワールはときに自分や他の監督の作品に役者として出演し、俳優たちには大きな裁量を与えていた、とも書いています。公開年は資料によって1952年(ブリタニカ百科事典)と1953年(ヤヌス・フィルムズ)に分かれています。

『フレンチ・カンカン』(原題:French Cancan、1955年)

ヤヌス・フィルムズによると、19世紀のパリを舞台に、世界的に知られるキャバレー「ムーラン・ルージュ」の開業を描いた作品です。ジャン・ギャバンが興行師ダングラールを演じ、カンカンを一大流行にしていきます。テクニカラーで撮影され、歌手エディット・ピアフも短い出演をしています。

ブリタニカ百科事典は、この作品を「19世紀のモンマルトルの見事な再現」と呼んでいます。モンマルトルは、ルノワール自身が生まれ育った地区でもあります。

『恋多き女』(原題:Elena et les hommes、1956年)

ヤヌス・フィルムズによると、19世紀から20世紀への変わり目のフランスを舞台にしたロマンティック・コメディです。イングリッド・バーグマンが、美しいけれど貧しいポーランドの王女エレナを演じ、さまざまな身分の男たちが彼女に心を奪われていきます。

ブリタニカ百科事典によると、1960年代以降の最後の作品群やテレビの仕事は、それ以前の作品ほどの美しさには届かなかったとされています。

映画以外の仕事と晩年

ブリタニカ百科事典によると、ルノワールは映画のほかにも、戯曲『オルヴェ』(1955年初演、パリ)、小説『ジョルジュ大尉の手帳』(1966年)、父についての回想録『Renoir, My Father』(1962年)、自伝『My Life and My Films』(1974年)を書きました。ブリタニカ百科事典は、父の回想録を「かけがえのない」本と評しています。

UCLA図書館の資料目録によると、ルノワールは1960年にカリフォルニア大学バークレー校で演劇を教え、1963年にはカリフォルニア大学バークレー校から、1971年にはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートから名誉博士号を受けました。

1975年には、アカデミー賞の名誉賞を受けました(UCLA図書館の資料目録は「Oscar for Career Accomplishment, 1975」と記しています)。ルノワールは1979年2月12日、アメリカ・カリフォルニア州で亡くなりました。84歳でした。

ハリウッドの歩道に埋め込まれたピンク色の星形のプレート。JEAN RENOIRの文字と、映画を表す撮影機の紋章が金色で入っている。
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるジャン・ルノワールの星(ロサンゼルス、2025年撮影)撮影:Alexis Doine/CC0/出典:Wikimedia Commons

ジャン・ルノワールの代表作と受賞歴

本記事で紹介した主な監督作を表にまとめます。年は公開年で、ブリタニカ百科事典とヤヌス・フィルムズの記載によります。邦題は日本で一般に使われている題名です。

年作品主な出演・原作主な評価・記録
1924年水の娘(La Fille de l’eau)カトリーヌ・エスラン初監督作
1931年牝犬(La Chienne)ミシェル・シモン2本目のトーキー作品
1932年素晴らしき放浪者(Boudu sauvé des eaux)ミシェル・シモンパリの街なかで撮影した風刺喜劇
1935年トニ(Toni)シャルル・ブラヴェット職業俳優ではない人々の起用と現地撮影
1936年撮影・1946年公開ピクニック(Partie de campagne)原作:モーパッサンBFI 2022年投票 136位(同率)
1937年大いなる幻影(La Grande Illusion)ピエール・フレネー、エリッヒ・フォン・シュトロハイム第11回アカデミー賞 作品賞ノミネート
1938年獣人(La Bête humaine)ジャン・ギャバン、原作:ゾラ大衆的な成功作のひとつ
1939年ゲームの規則(La Règle du jeu)ノラ・グレゴール、ポーレット・デュボストBFI 2022年投票 13位
1945年南部の人(The Southerner)音楽:ヴェルナー・ヤンセン第18回アカデミー賞 監督賞ノミネート
1951年河(The River)原作:ルーマー・ゴッデン初のカラー長編。BFI 2022年投票 185位(同率)
1952年黄金の馬車(Le Carrosse d’or)アンナ・マニャーニ音楽にヴィヴァルディ
1955年フレンチ・カンカン(French Cancan)ジャン・ギャバンムーラン・ルージュの開業を描く
1956年恋多き女(Elena et les hommes)イングリッド・バーグマンロマンティック・コメディ
ジャン・ルノワールの歩みを示す流れ図。1894年にパリで画家ルノワールの息子として生まれ、1924年に水の娘で初監督、1930年代に大いなる幻影やゲームの規則などの名作、1940年にハリウッドへ、1951年に初のカラー長編の河、1975年にアカデミー賞名誉賞の順に並ぶ。
図:ジャン・ルノワールの歩み

ルノワール作品を楽しむ手がかり

代表作を見比べると、ルノワールの作品にはいくつかの共通点が見えてきます。ひとつ目は絵画的な感覚です。ブリタニカ百科事典は、初期作品に強い絵画の影響があると書き、『ピクニック』を「印象派の映画の傑作」と呼びました。画家の家で育った経験は、映像の詩情として作品に表れています。

ふたつ目は、俳優への愛情です。ブリタニカ百科事典は、ルノワールが俳優たちに大きな裁量を与え、『黄金の馬車』には俳優とその仕事への愛情が表れていると書いています。ミシェル・シモンやジャン・ギャバンといった俳優の魅力が、作品の中心にあります。

ルノワール作品を楽しむ3つの手がかりを示した図。印象派の映画と呼ばれた絵画的な感覚、俳優に大きな裁量を与えた俳優への愛情、職業俳優でない人々の起用や現地撮影などの撮影所の外での撮影の3点。
図:ルノワール作品を楽しむ3つの手がかり

みっつ目は、撮影所の外へ出ていく姿勢です。『素晴らしき放浪者』ではパリの街なか、『トニ』では南フランスの田園、『河』ではインドで撮影しました。ヤヌス・フィルムズは、『トニ』の職業俳優ではない人々の起用と現地撮影が、のちのネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグを先取りしたと紹介しています。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、フランスの映画監督ジャン・ルノワールをご紹介しました。

画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの息子としてパリのモンマルトルに生まれたジャンは、陶芸を経て映画の道に進み、1924年の『水の娘』で監督デビューしました。1930年代には『大いなる幻影』『ゲームの規則』などの名作を生み、1940年にハリウッドへ渡ってからは『南部の人』でアカデミー賞監督賞の候補となり、インドで撮った初のカラー長編『河』、イタリアでの『黄金の馬車』、モンマルトルを描いた『フレンチ・カンカン』と作品を重ねました。1975年にはアカデミー賞の名誉賞を受けています。

父の絵と息子の映画を見比べると、同じモンマルトルや南フランスの光が、絵筆とカメラでどう描かれたのかが見えてきます。気になった一本から、ぜひ触れてみてください。

Euphoric " " の視点

ジャン・ルノワールは、画家の家に育った感覚を、絵筆ではなくカメラで表現しました。ブリタニカ百科事典が『ピクニック』を「印象派の映画の傑作」と呼ぶように、その土台には、技術以上に絵画的な詩情があります。

俳優たちに大きな裁量を与え、撮影所を出てパリの街なかや南フランスの田園、インドで撮った姿勢は、人と場所の持つ力を信じる作り方でした。初公開で短く切られた『ゲームの規則』が、再構成を経て今も名作に数えられていることは、誠実につくられた作品が時間をかけて理解されていくことを教えてくれます。

作品に触れるには

ルノワールの作品は、権利を持つ配給会社の公式サイトで紹介されています。上映やソフトの発売、配信の状況は時期によって変わるため、最新の情報は各公式サイトをご確認ください。

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