【徹底解説】横尾忠則とは?ポスターから絵画へ転じた美術家の人生と作品を解説!

【徹底解説】横尾忠則とは?ポスターから絵画へ転じた美術家の人生と作品を解説!

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは横尾忠則という人物をご存知ですか?

1936年に兵庫県で生まれた美術家です。1960年代にポスターで注目を集め、1972年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で個展が開かれました。1981年にグラフィックデザイナーから画家へ転身してからは、絵画を軸に制作を続けています。2023年には日本芸術院会員に選ばれ、同じ年に文化功労者にもなりました。2026年10月時点でも、神戸の横尾忠則現代美術館で展覧会が開かれています。

本記事ではそんな横尾忠則の人生と作品についてご紹介します。作品は美術館の公式ページの画像を出典つきで引用しながら、図解、表、美術館の公式YouTubeで歩みをたどります。

横尾忠則って?

横尾忠則は、ポスターや装丁などのグラフィックデザインから出発し、のちに絵画へ軸足を移した美術家です。デザインの現場で広く知られた存在になった後、画家として国内外の美術館で展覧会を重ねてきました。この記事では、肩書や活動の現況を「2026年10月時点」の公式情報にもとづいて書いています。

はじめに、この記事で何度も出てくる流れを一枚にまとめておきます。

横尾忠則の歩みを四つの段階で示した図。1936年に生まれ、1960年に日本デザインセンターへ入り、1981年に画家宣言をし、2012年に横尾忠則現代美術館が開館するまでを左から右へ並べている
図:横尾忠則の歩み(4つの節目)

基本情報

本名記録なし(公式プロフィールには横尾忠則とのみ記載)
生年月日(没年月日)1936年生まれ(存命。月日は公式プロフィールに記載なし)
国籍・出身日本/兵庫県多可郡西脇町(現・西脇市)
学歴公式プロフィールに記載なし。1956年に神戸新聞社へ入社
分野美術(絵画)、グラフィックデザイン
傾向1960年代はポスターを中心としたグラフィックデザイン、1981年の「画家宣言」以降は絵画が中心
師事した人物・影響を受けた人物記録なし(公式プロフィールに記載なし)

横尾忠則の展覧会を紹介した、当媒体の過去記事もあわせてどうぞ。

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同じ時代にグラフィックデザインで活躍した人物では、田中一光の記事もご覧いただけます。

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経歴と作品

ここからは時代ごとに、公式の略年譜と美術館の公式発表で確かめられる範囲で、横尾忠則の歩みをたどります。年や賞名は、横尾忠則オフィシャルウェブサイトの略年譜と横尾忠則現代美術館のプロフィールを照らし合わせて確認しました。

西脇に生まれ、新聞社で働く(1936〜1959年)

横尾忠則は1936年、兵庫県多可郡西脇町(現・西脇市)に生まれました。公式の略年譜に記されている若い頃の経歴は、1956年に神戸新聞社へ入社し、1959年まで勤めたことです。新聞社でどのような仕事をしていたかまでは、公式の年譜には書かれていないため、この記事でも触れません。

この時期の話は短くなりますが、生まれ故郷の西脇は、のちの作品に何度も戻ってくる場所です。2000年には故郷の西脇で夜の三叉路を撮影したことが「Y字路」シリーズの出発点になり、2021年の大規模な展覧会の題には「原郷」の語が入りました。2025年の世田谷美術館の展覧会では、故郷の同級生と撮った1970年の記念写真が、新作絵画の出発点になっています。ふるさとは、横尾忠則の制作を長く支える土台のひとつだったと考えます。

この記事の後半で、これらの作品を順に紹介します。まずは、デザインの現場に入った1960年代から見ていきましょう。

日本デザインセンターとポスター(1960年代)

1960年、横尾忠則は日本デザインセンターに入社しました。在籍は1964年までです。略年譜には、1965年に銀座松屋(東京)でグラフィック・デザイン展「ペルソナ」が開かれたことも記されています。

この頃のグラフィック作品で、海外の美術館に収蔵されているものがあります。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の所蔵作品ページでは、1965年のシルクスクリーン作品が、英語の題名「Made in Japan, Tadanori Yokoo, Having Reached a Climax at the Age of 29, I Was Dead」で登録されています。サイズは43×31 1/8インチ(109.2×79.1cm)で、作者からの寄贈、所蔵番号は696.1966とされています。日本語の題は公式資料で確認できなかったため、この記事では英題のまま紹介します。

横尾忠則の略年譜には、1967年の項に「ポスター15点がニューヨーク近代美術館の収蔵となる」と書かれています。同じ年には、1966年の仕事に対して第12回毎日産業デザイン賞を受けました。1960年代の後半に、国内の賞と海外美術館での収蔵が重なったことになります。

この時代の主なできごとを、年ごとに表にまとめます。

年できごと(公式の略年譜より)
1960年日本デザインセンターに入社(〜1964年)
1965年グラフィック・デザイン展「ペルソナ」(銀座松屋、東京)
1967年第12回毎日産業デザイン賞(1966年)を受賞。ポスター15点がニューヨーク近代美術館の収蔵となる
1969年個展(東京画廊)。第6回パリ青年ビエンナーレ版画部門グランプリを受賞

デザイナーとして働いた期間は、公式の年譜では1960年から1964年と記されています。それでも、その後の10年あまりに受けた賞や展覧会の多くはポスターやグラフィックの仕事に結びついています。横尾忠則の名前が海外に広がった背景には、この時期の仕事があったと考えます。

世界の舞台へ(1969〜1970年代)

1969年、第6回パリ青年ビエンナーレの版画部門でグランプリを受賞しました。1970年には日本万国博覧会の「せんい館」のパビリオンをデザインしています。

1972年、横尾忠則はニューヨーク近代美術館で個展を開きました。MoMAの展覧会ページによると、展覧会名は「Graphics by Tadanori Yokoo」、会期は1972年2月25日から6月7日です。同じ年、第4回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレでユネスコ賞、第5回ブルノ国際グラフィック・デザイン・ビエンナーレで特別賞を受けています。

その後も海外での評価が続きます。1973年に東京ADCの最高賞を受賞し、ハンブルク美術工芸博物館で個展を開きました。1974年にはアムステルダム市立美術館で個展を開き、第5回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレで金賞を受賞しています。1976年には第37回ヴェネツィア・ビエンナーレの「5人のグラフィックデザイナー」展に参加し、1979年には第3回ラハティ・ポスター・ビエンナーレで賞を受けました。

この時期の受賞を、種類ごとに並べると次のようになります。

年賞・展覧会(公式の略年譜より)
1969年第6回パリ青年ビエンナーレ 版画部門グランプリ
1972年第4回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ ユネスコ賞/第5回ブルノ国際グラフィック・デザイン・ビエンナーレ 特別賞
1973年東京ADC 最高賞/現代日本版画展(ICA、ロンドン)審査委員会賞
1974年第5回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ 金賞
1979年第3回ラハティ・ポスター・ビエンナーレ 2000Fmk賞

ポスターを国際的な競技の場に出し、国内外で複数の賞を受けた十年でした。ポスターという身近な印刷物が、国際的な展覧会や賞の対象になってきたことが、この表から分かります。

1981年の「画家宣言」

公式の略年譜は、1981年の項に「画家宣言」と書き、「グラフィックデザイナーから画家に転身」と記しています。ここが、横尾忠則の歩みの大きな分かれ目です。

転身の理由や、宣言に至る経緯について、公式の略年譜は書いていません。この記事でも、理由の推測は書かないことにします。確かなのは、1982年にハンブルク美術工芸博物館で、1983年には西宮市大谷記念美術館とパリ広告美術館で個展が開かれたことです。画家としての発表が、宣言の翌年から続いています。

1980年代の横尾忠則は、絵画のほかにも活動の幅を広げました。1984年にはベルギー国立20世紀バレエ団(モーリス・ベジャール主宰)がミラノ・スカラ座で上演する『ディオニソス』の舞台美術を担当し、初演は1985年です。同じ頃、映画『MISHIMA: A Life in Four Chapters』に出演しました(1985年にアメリカで公開)。1987年にはモーツァルトの『魔笛』の中国公演で舞台美術を担当しています。

1985年にはパリ・ビエンナーレとサンパウロ・ビエンナーレに出品しました。1986年には、東京の世田谷区成城にアトリエが完成しています。この年はパリのポンピドゥー・センターで開かれた「前衛芸術の日本1910-1970」にも出品しました。

デザイナーの時期と画家の時期の違いを、記事で確認できた範囲でまとめます。

デザイナーの時期と画家の時期を比べた表。主な仕事、海外での動き、転機の三つの項目を、1960年代から1970年代と1981年以降に分けて左右に並べている
図:デザイナーの時期と画家の時期

この図のとおり、ふたつの時期は「まったく別の人生」ではなく、同じ手を使い続けた連続した時間だと考えます。デザインの時期に身につけた構図の感覚や、印刷物として人に届ける意識が、画家になってからもどこかで生きているのかもしれません。ただし、これは書き手の見方であり、公式資料が述べていることではありません。

日本の美術館での個展と、書き手としての顔(1990年代〜2000年代)

1990年代に入ると、国内外の大きな展覧会への出品が続きます。1993年には第45回ヴェネツィア・ビエンナーレの「トランスアクションズ」展に出品し、1994年には横浜美術館などで開かれた「戦後日本の前衛美術」に参加しました。1995年には第36回毎日芸術賞を受賞しています。

1997年には、兵庫県立近代美術館と神奈川県立近代美術館で個展が開かれ、同じ年に第76回ニューヨークADCで金賞を受けました。2000年にはニューヨークADCの殿堂入りを果たしています。

2001年は節目の年でした。多摩美術大学大学院の教授に就任し(〜2004年)、紫綬褒章を受章しました。富山県立近代美術館と東京の原美術館で個展が開かれたのも、この年です。2002年に東京都現代美術館と広島市現代美術館、2003年に京都国立近代美術館、2005年に熊本市現代美術館と、国内の主要な美術館での個展が続きました。2005年には、第15回ラハティ国際ポスター・ビエンナーレでグランプリも受けています。

2006年にはパリのカルティエ現代美術財団で個展が開かれました。2008年には世田谷美術館と兵庫県立美術館で個展が開かれ、2009年に金沢21世紀美術館、2010年には大阪の国立国際美術館で個展が続きます。2010年には、ウフィツィ美術館(フィレンツェ)に自画像が収蔵されたことも、略年譜に記されています。

横尾忠則は、文章の世界でも評価を受けています。2008年には、小説『ぶるうらんど』で第36回泉鏡花文学賞を受賞しました。2016年には『言葉を離れる』で第32回講談社エッセイ賞を受賞し、2022年には長編小説『原郷の森』(文藝春秋)を刊行しています。絵と文章の両方を手がける人として知られていることは、この略年譜から確認できます。

2010年代の受賞と、広がる展示の場

2010年代は、国内外での顕彰が重なった時期です。2011年に旭日小綬章を受章しています。朝日賞も受けていますが、その年はオフィシャルウェブサイトと美術館の公式プロフィールで記載が分かれるため、ここでは書きません。2013年には神戸新聞平和賞を受け、西脇市の名誉市民(第1号)の称号を贈られています。2014年には全広連日本宣伝賞山名賞、2015年には第27回高松宮殿下記念世界文化賞を受賞しました。

展覧会も各地に広がりました。2013年には岩手県立美術館と福島県立美術館、青森県立美術館などで個展が開かれています。2016年には箱根の彫刻の森美術館とロシア国立東洋美術館(モスクワ)、2017年には町田市立国際版画美術館と十和田市現代美術館、2019年には故郷の西脇市岡之山美術館で個展が開かれました。

グループ展への参加も続きます。2012年のニューヨーク近代美術館「東京1955-1970:新しい前衛」、2015年のテート・モダン(ロンドン)「ワールド・ゴーズ・ポップ」など、日本の戦後美術や、ポップ・カルチャーをめぐる国際的な展覧会にも出品しています。

顕彰の主なものを、表にまとめます。

年顕彰(公式の略年譜より)
1995年第36回毎日芸術賞
2000年ニューヨークADC殿堂入り
2001年紫綬褒章
2008年第36回泉鏡花文学賞(小説『ぶるうらんど』)
2011年旭日小綬章
2013年神戸新聞平和賞/西脇市名誉市民(第1号)
2015年第27回高松宮殿下記念世界文化賞
2020年東京都名誉都民
2023年日本芸術院会員に選出/令和5年度文化功労者
2025年世田谷区名誉区民

東京国立博物館の公式ページも、横尾の栄誉として1995年の毎日芸術賞、2011年の旭日小綬章、2015年の高松宮殿下記念世界文化賞(英語表記はPraemium Imperiale)、2020年の東京都名誉都民、2023年の日本芸術院会員を挙げています。

「Y字路」シリーズ(2000年〜)

横尾忠則現代美術館の公式ページによると、2000年、横尾は故郷の西脇で夜の三叉路をストロボ撮影しました。すると、見慣れたはずの景色が全く異なる風景として立ち現れたといいます。この写真からヒントを得て「Y字路」シリーズに着手し、それはやがて重要なライフワークになっていきました。同館の展覧会ページには、初期作品として《暗夜光路 N市-I》(2000年、横尾忠則現代美術館蔵)や、《宮崎の夜 – 眠れない家》(2004年、東京国立近代美術館蔵)が挙げられています。

赤黒い夜の道に、看板の灯りが並ぶ通りと二階建ての古い家、右にヤシの木が描かれた画面。道路には白い矢印の形が浮かぶ。
横尾忠則『宮崎の夜 – 眠れない家』(2004年)、所蔵:東京国立近代美術館。画像出典:横尾忠則現代美術館 公式サイト(引用)
夜の道路の突き当たりに白い壁の古い木造家屋が建ち、街灯と道路の白線が暗い緑がかった画面の中に浮かび上がる風景画。
横尾忠則『暗夜光路 N市-I』(2000年)、所蔵:横尾忠則現代美術館。画像出典:横尾忠則現代美術館 公式サイト(引用)

同館は2015年に、2006〜2015年の作品による「横尾忠則 続・Y字路」を開いています。2024年の「横尾忠則 ワーイ!★Y字路」は、その補完として、シリーズの原点である2000〜2005年の初期作品と、2016年以降の新近作を紹介する展覧会でした。同館の説明では、本来はシリーズ誕生20周年を記念して2020年度に開く予定でしたが、コロナ禍で延期されていたとのことです。

ひとつの身近な風景が、20年以上にわたって制作の核になっている点は、横尾作品の読みどころだと考えます。写真という身近な道具が、絵画の出発点として使われていることにも注目できます。

二つの美術館(2012年〜)

横尾忠則の名を冠した美術館が、国内に二つあります。

ひとつは、神戸にある横尾忠則現代美術館です。同館の沿革によると、2007年8月に横尾忠則から兵庫県へ作品と資料の寄贈・寄託の申し出があり、改修を経て2012年11月に開館しました。建物は、村野藤吾・兵庫県県土整備部営繕課の設計で1982年に竣工した兵庫県立近代美術館新館(西館)を、2012年に改築したものです。2021年3月には「横尾忠則コレクションギャラリー」が開設されました。

もうひとつは、香川県の豊島にある豊島横尾館です。横尾忠則の略年譜では、2013年に開館したと記されています。建築を手がけたのは永山祐子で、ベネッセアートサイト直島の公式ページによれば、古い民家の佇まいを生かして色ガラスなどを使い改修されました。館の主題は「生と死」と説明されています。永山祐子はこの建築で2014年にJIA新人賞を受けています。

二つの館の特徴を整理すると、次のようになります。

横尾忠則の作品に出会える三つの場を示した図。神戸の横尾忠則現代美術館は2012年開館、香川の豊島横尾館は2013年開館で建築は永山祐子、国内外の公共コレクションにも作品が収蔵されている
図:作品に出会える三つの場

横尾忠則の作品は、国内外の公共コレクションにも収蔵されています。公式の略年譜は、海外ではニューヨーク近代美術館、テート(ロンドン)、大英博物館、ポンピドゥー・センター(パリ)、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)、国内では東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館、世田谷美術館などを挙げています。展覧会に出かけなくても、美術館のコレクション検索で作品に出会える可能性があります。

2020年代の大きな展覧会

2020年代に入ると、規模の大きな展覧会が続きます。流れを先に図で確認してください。

2020年代の主な展覧会を四段階で示した図。2021年のGENKYO展、2022年の寒山拾得への道、2023年の東京国立博物館での寒山百得展、2025年の世田谷美術館での連画の河展を左から右へ並べている
図:2020年代の主な展覧会

2021年には、愛知県美術館、東京都現代美術館、大分県立美術館をめぐる大規模な個展が開かれました。題は「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」です。この展覧会の題には、「原郷」「幻境」「現況」という、読みが同じで意味の違う語が重ねられています。

2022年、横尾忠則現代美術館は開館10周年を記念して「Forward to the Past 横尾忠則 寒山拾得への道」を開きました。同館の説明によると、新型コロナウィルス感染症の流行で外出も人と会うことも難しかった横尾が、アトリエに籠もって制作に打ち込んで生まれた最新作を紹介する展覧会です。作家自身が「朦朧体」と呼ぶ最新の様式を、数十年におよぶ絵画との格闘の末に到達した境地ではないかと考察する、と同館は述べています。

題に入っている「寒山拾得」は、中国・唐の時代の僧とされる二人の人物で、山に住み、詩を詠み、奇行を重ねる姿が、文学や美術に数多く取り上げられてきました。

この主題をさらに展開した展覧会が、2023年9月12日から12月3日まで、東京国立博物館の表慶館で開かれた「横尾忠則 寒山百得」です。東京国立博物館の公式ページによれば、この展覧会のために描かれた100点を超える絵画が初めて公開されました。同館は、この連作を横尾の画業で最大のシリーズと説明しています。主催は東京国立博物館、読売新聞社、文化庁です。同館の展覧会ページは、紹介画像として《12.1.2022》(2022年)を掲載しています。

水色の背景に、黄や桃色、白の多角形や筒を赤い縁取りで積み重ねた、二体の人形のような抽象的な形が並ぶ絵画。
横尾忠則『12.1.2022』(2022年)。画像出典:東京国立博物館「横尾忠則 寒山百得」展 公式ページ(引用)

2023年には、日本芸術院会員に選出され、令和5年度の文化功労者にも選ばれました。2020年には東京都名誉都民、2025年には世田谷区名誉区民の称号を受けています。

美術館の公式YouTubeチャンネルでは、「連画」をテーマにした展覧会の動画が公開されています。次の動画は、「横尾忠則 連画の河」のPR動画です。

横尾忠則 連画の河 PR(横尾忠則現代美術館 公式YouTube。2026年7月3日公開)

「連画」という制作のかたち(2023年〜)

世田谷美術館は2025年4月26日から6月22日まで、「横尾忠則 連画の河」を開きました。同館の公式ページによれば、150号(約182×227cm)を中心とする新作の油彩画約60点に、関連作品やスケッチなどを加えた展覧会で、当時88歳だった横尾の現在を紹介するものでした。主催は世田谷美術館(公益財団法人せたがや文化財団)と読売新聞社です。

この展覧会の中心にあるのが「連画」という制作の方法です。同館の公式ページには、次のように説明されています。2023年春、からだの衰えに淡々と応じつつ、テーマも決めずに大きなキャンバスに向かううち、横尾の「連歌」ならぬ「連画」の制作が始まりました。連歌は、和歌の上の句と下の句を複数人で分担して詠みあう形式です。横尾は、昨日の自作を他人の絵のように眺め、今日の筆が導かれるままに描き、明日の自分という新たな他者に託すのだと、同館は説明しています。

この流れを、図にしました。

連画の制作の流れを示した循環図。中心に連画と書き、昨日の自作を他人の絵のように眺める、今日の筆が導かれるままに描く、明日の自分という新たな他者に託す、の三つの要素が円を囲んでいる
図:「連画」のくりかえし

展覧会の出発点になったのは、1970年に故郷の西脇で、同級生たちと撮った1枚の記念写真です。同館によれば、この写真は篠山紀信が撮影し、のちに写真集『横尾忠則 記憶の遠近術』に収められました。横尾はこの写真に着想を得て、1994年に《記憶の鎮魂歌》(横尾忠則現代美術館蔵)という大作を描いており、この展覧会はその作品から始まりました。続く約60点の新作には、篠山の写真や《記憶の鎮魂歌》のイメージのほか、広告に登場する別のグループ写真、川や水にまつわる物語や絵画の画像など、複数の素材が入れ替わり立ち替わり登場します。

制作の素材について、同館の公式ページは次のように書いています。横尾が制作の際に好んで拾い上げるのは、多くの人がどこかで見かけているイメージで、アトリエには新聞や雑誌の切り抜き、インターネット上の画像のプリントアウトが散乱している、と。

2023年6月の言葉として、同館は次の発言を紹介しています。

「絵は、本当にわかりません。絵のほうが僕をどこかに連れていく。僕は、ただ描かされる。そのうち、こんなん出ましたんやけど、となる」

2026年には、この「連画の河」が神戸の横尾忠則現代美術館でも開かれました(2026年5月23日〜8月30日)。続いて、同館では2026年9月19日から12月27日まで「Curators in Panic 2 〜横尾忠則展 学芸員危機2髪?」が開催中です。この展覧会は、2021年の「Curators in Panic〜横尾忠則展 学芸員危機一髪」の第2弾で、歴代の学芸員5名が、同館の全コレクションから作品を選ぶ企画です(2026年10月時点)。

同じ連画の展覧会について、学芸員によるギャラリートークの動画も公開されています。

横尾忠則 連画の河 ギャラリートーク(横尾忠則現代美術館 公式YouTube。2026年7月3日公開)

横尾忠則の作品を見るときの三つの手がかり

最後に、ここまでの確認事項を手がかりに、書き手の見方を三つ書きます。いずれも公式資料の説明をもとにした意見であり、横尾忠則本人の言葉ではありません。

ひとつめは、「同じことを長く続ける」点です。Y字路は2000年から20年以上、連画は2023年から続いています。世田谷美術館の説明は、横尾の作品を支えているのは「自らの眼と手、つまり肉体をもって描くというシンプルこのうえない行為」で、それを「気が遠くなるほどたくさん反復すること」だとしています。展覧会で一点ずつを見るときも、シリーズ全体の流れの中の一枚として見ると、違いに気づきやすいと考えます。

ふたつめは、「誰もが見たことのあるイメージを拾う」点です。記念写真、川、新聞や雑誌の切り抜き。素材が身近だからこそ、初めて見る絵でも懐かしさを覚える、と世田谷美術館は説明しています。専門の知識がなくても入っていける入口が、作品の中に用意されていると言えるでしょう。

みっつめは、「ふるさとに戻る」点です。西脇の夜の三叉路、西脇での同級生との記念写真、そして「原郷」という言葉。時間が経つほど、制作の根が故郷に伸びていく流れは、略年譜と各館の説明を重ねると見えてきます。

これらの手がかりは、美術に詳しくない方が展覧会に出かけるときにも使えます。作品の前で、これは何を拾って描かれたのか、この絵は前の絵のどこから続いているのか、と問いかけてみてください。

まとめ

いかがだったでしょうか。横尾忠則は、1936年に兵庫県で生まれ、日本デザインセンターを経て、1960年代にポスターで国際的に知られるようになりました。1972年にはニューヨーク近代美術館で個展が開かれ、1981年の「画家宣言」以降は絵画を軸に活動しています。2012年に横尾忠則現代美術館、2013年に豊島横尾館が開館し、2021年のGENKYO展、2023年の寒山百得展、2025年の連画の河と、大規模な展覧会が続いてきました。

2026年10月時点でも、横尾忠則現代美術館で展覧会が開かれています。気になった方は、公式サイトで最新の情報を確かめたうえで、ぜひ実物の絵の前に立ってみてください。

Euphoric " " の視点

横尾忠則の「連画」は、2023年春、テーマも決めずに大きなキャンバスに向かううちに始まった制作です。世田谷美術館は、横尾が昨日の自作を他人の絵のように眺め、今日の筆が導かれるままに描き、明日の自分という新たな他者に託すのだと説明しています。連歌は、和歌の上の句と下の句を複数人で分担して詠みあう形式です。その相手を、昨日と明日の自分が務めているとも読めます。

自分の仕事は、作った本人がいちばんよくわかっている、と考えがちかもしれません。けれども、昨日の自分の仕事を他人のものとして見直すと、自分ひとりの中にも対話の相手が生まれると考えます。

横尾は「絵のほうが僕をどこかに連れていく」とも語っています。計画を先に固めすぎず、前の一枚に応えながら進む姿勢は、描く人に限らず、ものをつくる多くの人にとって手がかりになるのかもしれません。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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