こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
みなさんはジョアン・ミロという人物を知っていますか?
ミロはスペイン出身の芸術家で、シュルレアリスムを土台にしつつも、独自の世界観と技法で絵画や彫刻を手がけたことで知られています。その表現方法は「ミロ様式」とも呼ばれ、後の抽象芸術や現代美術に大きな影響を与えました。
本記事ではそんなミロの人生と作品についてご紹介します。
ジョアン・ミロとは?
基本情報
出典:Self-Portrait I,wikiart.https://www.wikiart.org/
本名 | ジョアン・ミロ (Joan Miró i Ferrà) |
生年月日 | 1893年4月20日-1983年12月25日(90歳) |
出身地 | スペイン カタルーニャ地方 バルセロナ |
分野 | 絵画 彫刻 |
傾向・運動 | 細密主義 シュルレアリスム |
ミロは自然豊かな小村で育った経験から、風景を細密に描写する細密主義から作風をスタートさせました。1924年のシュルレアリスム運動をきっかけにシュルレアリスムに傾倒し、その後はコラージュや彫刻など抽象的な芸術を中心に手がけた芸術家です。豊かな色彩と激しくデフォルメされたモチーフを特徴としています。
シュルレアリスムってなに?
シュルレアリスムとは、フランスの作家アンドレ・ブルトンが創始した芸術運動です。ブルトン自身の言葉によると
「口述、記述、その他のあらゆる方法で、思考の実際のプロセスを表現することをめざす、心の純粋なオートマティスム。理性がおよぼすあらゆる制御と、美的・道徳的なすべての固定観念を排した、思考の書き取り。」
と定義される表現方法で、文芸・芸術のあらゆる分野で無意識の探求と表出をすることで社会通念に左右されない人間の全体性の回復を求めた運動です。日本では「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味でよく用いられ、「シュール」という言葉の語源にもなった表現方法です。
経歴と作品
ミロの生まれと環境
ミロを育んだモンロッチの自然
ミロの故郷・スペインのカタルーニャ地方はガウディやダリの出身地としても有名で、幼少期から地中海の豊かな自然に囲まれて育ちました。
裕福な宝石商の家に生まれたミロは、子どもの頃からたくさんの風景をスケッチし画家を目指していました。
1907年にバルセロナのラ・ロンハ美術学校に入学し、ロマン主義の画家ムデスト・ウルジェイの下でデッサンを学んだミロは、順調に画家への道を歩んでいました。
しかし経済的に不安定だった当時のスペインの情勢を鑑み、父によって商業学校に入学させられます。それほど強硬に画家という夢に反対してはいなかったミロの両親でしたが、新しい工業化社会を生き抜くため、いわゆるお堅い仕事に就いてほしいという気持ちが優ったようです。
1911年、商業学校を卒業したミロは、バルセロナの大企業で会計係として働き始めますが、18歳になった時うつ病と腸チフスを患ってしまいます。
ミロは療養のためバルセロナから離れた小村モンロッチの農園で数ヶ月暮らしますが、モンロッチの自然はミロの美的感性を刺激するばかりで、画家になりたいという欲求を高める一方でした。
父は最終的にはミロの熱意を認めるかたちで、翌年の1912年にバルセロナのガリ美術学校に入学することを許します。
画家としてのスタート
19歳のミロは、主宰者・ガリの個性を伸ばすことに重きを置いた教育を一身にうけ「画家として将来有望だ」と言われるほどに成長します。特に飛び抜けた色彩感覚を見せる一方、形状に関する理解はまだまだだったようで
「色のことについてはわかったが、形態を理解することはできなかった。直線と曲線を区別することさえ難しかったのだ。」
とミロ自身は当時を振り返ります。
そのためミロは目を閉じて物体に触れ、記憶を頼りに描く方法を学びクラスメートのデッサンをしたり粘土像を作ったりして立体への理解を深めていきます。この独特な練習方法が、後年の立体作品への関心を育んだのかもしれません。
美術学校時代
『無題 または プラデスの通り(c.1918)』
出典:Untitled,wikiart.https://www.wikiart.org/
ミロはガリ美術学校内の「聖ルカ美術サークル」に所属し、人体モデルの写生に励みます。すでに独自の表現方法をつかんでいたミロには、何時間もモデルを模写するサークル活動は苦痛だったようで、並行して油彩画に取り組みます。
この頃からミロは表現主義やフォービズムにヒントを得た強い色彩、セザンヌやゴッホのような筆触分割など、近代芸術の巨匠から学んだ様々な手法を貪欲に取り入れ独自の表現方法を試しています。
ガリ美術学校を卒業後、友人リカルトとともにバルセロナに借りたアトリエで制作を始めますが、すぐに兵役に召集されます。約10か月の間、ミロは兵役につく傍ら絵の制作をするという生活を送ることになります。
美術学校で築いた人脈の中でも、特にジョセップ・ダルマウとは親交が深くたびたび彼が経営する画廊を訪れていました。
ダルマウはバルセロナではじめてフォービズムやキュビズムなどの前衛的な作品を紹介する展覧会を開く挑戦的な人物で、ミロは自身の作品をダルマウに見せ、展示を勧められていました。
失敗と、細密主義への誘い
『ヤシの木のある家(1918)』
出典:House with Palm Tree,wikiart.https://www.wikiart.org/
モンロッチでの風景画の制作の後、1918年に初めての個展を開きます。しかし64点の作品には全く買い手がつかず、失敗に終わってしまいました。
この頃ミロがベースにしていたフォービズムは情緒性のない粗野な作風と認識されており、この失敗を受けてミロは自身のスタイルを改めることを余儀なくされていました。
ミロはモンロッチに引きこもり、風景の細部を緻密に描き込んだ作品を制作していきます。これは後に「細密主義」と呼ばれる手法で、ミロは1本の草と巨木を描くのに同じ時間をかけたと言われます。同時に、流行や友人から距離を置き、自然の観察に集中したことで「風景を愛し自然と一体化する」ことを目標にして制作に取り組みます。
この流行り廃りに左右されない考えが、細密画というスタイルを生んだようです。
1920年、芸術運動の盛んなパリへ赴いたミロは、同郷の画家ピカソを訪ねます。ピカソの母を知っていたミロはすぐにピカソと友人になり、頻繁に会う間柄になります。
パリ滞在中は制作をしなかったミロですが、その代わりにルーヴル美術館を訪れたり、ダダ思想の集会に参加するなどし、特に前衛芸術への関心を高めました。
パリでの体験を刺激的に思ったミロはそれ以降、夏を自然豊かなモンロッチで過ごし、冬はパリで過ごすことになります。パリから帰ってきたミロを待っていたのは、ダルマウとの商談でした。
ダルマウはミロのすべての絵を買取り、再び個展を開く約束をします。個展を控えたミロはパリでアトリエを借り、制作に取り組みます。
隣に住んでいたアンドレ・マッソンをはじめ画家や作家と共に「ブロメ通りグループ」を結成。後にシュルレアリスム運動を共にする友人を得ます。
小さな成功
『農園(1921-1922)』
出典:The Farm,wikiart.https://www.wikiart.org/
1921年に2度目の個展がパリのラ・リコルヌ画廊で開かれます。しかしこの個展も失敗に終わり、経済的に苦しくなったミロはモンロッチへ帰ることになります。
その後半年もの間ミロは、写実主義時代の大作『農園』の制作に没頭します。自身を育んだ自然への愛が垣間見える作品でありつつ、この作品をもって写実主義のスタイルを改めることを決めていたミロにとって、今までの総括とけじめの意味が込められた作品だったと言えます。
パリで完成させた『農園』を様々な画廊に持ち込みましたが、どこも引き取ってくれず、唯一承諾してくれたカフェで一晩だけ展示されます。この時、パリに住んでいたアメリカ人作家アーネスト・ヘミングウェイの目に留まり、買い取られることになります。
非合理が生む世界
『耕地(1923)』
出典:The Tilled Field,wikiart.https://www.wikiart.org/
1923年、モンロッチで制作した『耕地』『狩人』『牧歌』『家族』の4点に、ミロは全く新しい表現方法を見つけました。
ミロの大きな転機となるこの4点は、今までの写実的な技法と、シュルレアリスムの基盤となる記号的な表現を組み合わせた手法で、制作を共にした「ブロメ通りグループ」を驚かせました。
『農園』と同じく風景と動植物を描いたものでありながら、本来そこにない目や耳も同時に描かれた『耕地』は、現実と虚構が不可思議な規律によって共存している作品です。
「ぼくは危険な道を進んでいて、たびたびパニックに陥ってしまう。まだ誰も足を踏み入れていない道を歩く探検家のような気分だ。」
こう述べたように、前衛芸術に身を置く不安を少なからず感じていたミロですが、この制作を機に非合理的なモチーフを軸に活動をし、のちのシュルレアリスム運動へ繋がるスタイルを確立していきます。
写実との決別 詩と幾何学
『K夫人の肖像(1924)』
出典:Portrait de Mme. K.,wikiart.https://www.wikiart.org/
ミロは非合理的なモチーフの先駆者であるパウル・クレーやジョルジョ・デ・キリコ、機械を題材としたフランシス・ピカビアの作品に学びます。
中でも際立ってミロが作品に反映したのは、円錐や直線などの幾何学模様、具体的なモチーフをシルエットで示す手法です。『K夫人の肖像』はそれらが顕著に表れた作品です。
現実世界から離れ、詩人との交流から得たインスピレーションを詩の世界を表現することを目指したミロは、明確に写実主義のスタイルから決別しました。
シュルレアリスムのカーニヴァル
『アルルカンのカーニヴァル(1924 – 1925)』
出典:Harlequin’s Carnival,wikiart.https://www.wikiart.org/
1925年ごろ、「ブロメ通りグループ」は詩人アンドレ・ブルトンが創始したシュルレアリスム運動に参加します。その中で制作された作品が『アルルカンのカーニヴァル』です。
当時のミロは絵画による収益はほとんどありませんでした。かといって親からの援助を求めることもせず、非常に貧しい暮らしをしていました。そんな生活の中で、空腹による幻覚をシュルレアリスム表現のヒントにし、この作品を仕上げたと言われています。
しかし作品に広がる世界は非常に楽観的で、まるでパーティーの飾り付けをしているような楽しげな雰囲気を持っています。楽器を演奏する道化、初期からモチーフにしていた動物がある中、右側にある球体は地球が征服心を表すミロの欲望の象徴として描かれています。
そして1925年にパリ・ピエール画廊で、3度目になるミロの個展が開かれます。挑発か気まぐれか真夜中に開催されたこの個展は、社会的に注目を集めていたシュルレアリストの話題性も手伝って大勢が訪れます。中には画家でもあったスウェーデンのエウシェン王子をはじめ、多くの美術評論家や著名人がやってきました。
盛況を極めたこの個展をきっかけに、ミロは画商のジャック・ヴィオから契約を受けることになります。
絵画の抹殺
『1750年のミルズ夫人の肖像(1929)』
出典:Portrait of Mrs Mills in 1750 (after Constable),wikiart.https://www.wikiart.org/
1929年にミロは、母の故郷であるマリョルカ島出身の女性ピラール・ジュンコサ・イグレシアスと結婚します。バルセロナでの新婚生活ののち、1930年には一人娘マリア・ドロレスが生まれます。
幸せな家庭を築いた一方で、制作においてはミロはこの頃から「絵画を抹殺したい」と公言。さらなる現実と虚構の統合を表現するためにパレットと絵筆を捨ててしまい、デッサンとコラージュに専念しました。
戦争へのメッセージ
1936年7月13日、王党派の指導者カルボ・ソテロの暗殺をきっかけにスペインが共和国派と民族独立派に分裂。共和国派と、独立派のフランコ将軍率いるフランコ軍との戦いが始まりました。
このような情勢を受けてか、ミロの作品はある意味ミロ本人よりも荒々しく育っていきます。
1937年、スペイン内戦を逃れるために家族を連れてパリへ戻ったミロ。同年に開かれた万国博覧会のスペイン館には、スペイン共和国政府に対する援助という形でさまざまな作品が寄せられました。
ピカソはドイツ軍からの空爆を受けたスペインの町を描いた『ゲルニカ』、アレクサンダー・コールダーはフランコ軍に対する抵抗を表現した『水銀の泉』を制作。
ミロは6点におよぶ巨大な壁画を制作。フランス語で『刈り入れ人』と題されたこの作品は、麦を刈るための鎌をふりかざし慟哭する農家が描かれています。銃や戦火などアイコニックな戦争のモチーフではなく、営みの中にある道具である鎌を持ち反抗を示す農民の姿は非常に生々しいものでした。
第二次世界大戦が近づく1939年、戦場になりかねないパリを離れてミロはフランスに移り住み、故郷バルセロナに帰ったのは1942年のことでした。
戦争によって芸術をはじめとする全ての知的活動が停止していた当時、ピエール・マティスの計らいによって展覧会を開くことになります。このことをきっかけにロンドン、東京、ミュンヘンなど世界中で展覧会が開かれ、ミロの名は世界中に届くことになります。
晩年 ミロが残したかったもの
『女と鳥(1983)』
出典:Woman and Bird,wikiart.https://www.wikiart.org/
晩年は陶芸、彫刻など立体的な作品を中心に手がけ、1955年にはパリに新設されるユネスコ本部の壁画なども制作しました。
1971年、旧友ジョアン・ブラッツから、現代美術を普及するための施設を作らないかと提案を受けます。当時の、芸術作品を金銭的な財産として見る風潮への反発を抱いていたミロは、1975年にジョアン・ミロ財団をオープンします。ミロの作品5000点をおさめるこの施設を世界に遺し、1983年にミロはこの世を去ります。
まとめ
いかがだったでしょうか。
美しい自然の中で育ったミロの原点は写実主義。シュルレアリスム運動を経て現実と虚構を統合することを自身のスタイルとしていきました。
表現したいものをカンヴァスの外に見つけてからは、奇抜で多彩な画材を用いたコラージュや、モチーフを激しくデフォルメした彫刻などを制作。
ひとつの表現方法に満足せず、さまざまな領域に挑戦したミロの作品はジャンルひとつ取っても多彩で、抽象的で難解であるにも関わらず世界中の人を魅了しました。
「絵画を超えた絵画」と評されることも多いミロの作品。その基盤となったシュルレアリスムは、夢の中のような表現と説明されることの多い幻想的なものです。
「私は寝ているあいだに夢を見ることはない。目が覚めているときにだけ夢を見る」
とミロは言います。作品そのものが、ミロの夢なのです。私たちが現実を生きる限り、ミロの描く現実離れした幻想世界に人々は魅了されることでしょう。
出典
ジョアン・プニェット・ミロ&グロリア・ロビリア=ラオラ著 大髙保二郎訳『ミロ-絵画を超えた絵画』創元社、2009年。