【徹底解説】モーリス・ユトリロとは?波乱万丈な人生と素朴で豊かな作品を解説!

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはモーリス・ユトリロという人物をご存知ですか?

近代フランスで起こった芸術運動エコール・ド・パリを代表する作家です。

複雑な家庭環境に加え、幼い頃は身体が弱く、働き初めてからアルコール依存症に陥ってしまいます。

飲酒治療の一環として始めた絵画が評価され、画家としての活動を始めます。

本記事ではそんなモーリス・ユトリロの人生と作品についてご紹介します。

モーリス・ユトリロって?

『シュザンヌ・ヴァラドンによる肖像画』

基本情報

本名モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)
生年月日1883年12月26日〜1955年11月5日(71歳没)
国籍/出身フランス/パリ モンマルトル
学歴油彩画
分野
傾向エコール・ド・パリ
師事した人物/影響を受けた人物シスレー

エコール・ド・パリって?

ユトリロはエコール・ド・パリというジャンルに含まれます。

エコール・ド・パリとはフランスで「パリ派」という意味です。

20世紀初め展示会や画廊が立ち並ぶ芸術の街だったパリでの活躍を目指して下町のモンマルトルやモンパルナスに住む芸術家が大勢いました。

パリに移り住み始めた芸術家が多い中、ユトリロは珍しいパリで生まれ育った「真のパリ人(パリゴ)」でした。

彼らは特に一つの芸術運動に属せずに独自の表現方法を追求していたため、様々な作風を持つ芸術家を活動場所でまとめて呼んでいるのです。

実際には、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパではダダイズムやシュルレアリスムといった芸術運動が起こっていましたが、特定の芸術運動に属さない人々を特にエコール・ド・パリと言います。

代表画家にアメデオ・モディリアーニマリー・ローランサン藤田嗣治などが挙げられます。

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経歴と作品

生まれと環境

1883年12月26日、ユトリロはパリのモンマルトルにある街で生まれました。母親のシュザンヌ・ヴァラドンは針子として働きながら画家としても活動しており、育ての親は祖母のマドレーヌでした。

実父については、酒飲みのボァッシイという人物や、ヴァラドンがモデルを務めていた画家ルノワールなどが候補に挙げられていますが未だに不明とされています。

ユトリロは生まれつき身体が弱く、2歳のときにてんかんの発作に見舞われてその後も後遺症に悩まされることになります。

学校に進学するも馴染めず、転校を繰り返します。

7歳の時にスペイン人の美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスがモーリスを息子として認知し、モーリス・ユトリロに改姓しました。しかし、ユトリロは生涯この法律上の父に会うことはなかったとされています。

ユトリロは身体が弱いだけでなく、精神的にも薄弱な一面がありました。

8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医の診療を受けます。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなりました。

母ヴァラドンは画家という立場からやや奔放な人間関係を結んでおり、ミゲルを通じて知り合ったエリック・サティや、布地商のポール・ムージスと交友関係を持っています。

ムージスのおかげで幼少期に比べて安定した暮らしを送ることができていました。学校生活でも優秀な成績を収めましたが、最高学年時に問題を多々起こし中学を中退します。

アルコール依存と絵との出会い

1900年2月、ムージスの伝手で臨時お雇いの外交官を勤めますが、四ヶ月で退職してしまいます。

この時すでにアルコール依存症に悩まされていたモーリスは、他の仕事もうまくいかず転居を余儀なくされました。

ユトリロの人生を終始蝕むことになるアルコール依存症ですが、育ての親であるマドレーヌにひとつの原因があったと考えられています。彼女自身も酒を良く飲む人物で、ユトリロの精神が不安定になった時に精神安定剤代わりに飲ませていたと言います。

その結果ユトリロは17から18歳という若さでアルコール依存症に対する治療を始めることになりました。

後年、友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられたそうです。

一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うすることになります。

ムージスはこの頃、モンマニーにある小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てました。

1902年ユトリロはモンマルトルの丘にある町に住み、水彩画を描く練習を始めました。エトランジェ医師はヴァラドンに、彼が興味を持ったことはやりたいようにさせるべきだと助言したとされています。

ユトリロは真剣に画家を目指すような態度ではなかったと言いますが、一家でモンマニーに滞在した時に最初の風景画を制作しました。

しかしアルコール依存症は悪化する一方で、ユトリロは1904年にムージスに連れられてパリのサン=タンヌ精神病院に入院しました。

当時の依存症患者、及び精神病患者への風潮はかなり厳しいもので保護制度も整っていませんでした。

ムージスがユトリロを入院させたのも、厄介払い以外の意味合いはなかったでしょう。ムージスは診断書と2人の証人と共にクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせ、留置所の医務室に拘束されたのちに病院に移送されるというものだったからです。

このムージスの意図を知ってか知らずか、サン=タンヌ精神病院に移送されたユトリロは初めての自殺未遂を冒します。

これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、1909年に破局を迎えてしまいます。

5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったといいます。

絵画の始まり-モンマニー時代-

『モンマニーの風景(1906年頃)』

退院したユトリロはモンマルトルで絵を描き始め、画家になることを決意します。ヴァラドンも画家としてユトリロに助言をすることがあったようですが、基本的に独学を貫き直接的な影響を受けることはなかったと言います。

当時のユトリロは小さなボードの上に厚く絵具を置く点描技法を用いていました。これはピサロシスレーに代表される印象派独特の技法で、デッサンについてはまだ、特別な構図を追求することはありませんでした。

同時期、ユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し友人となります。

幼い頃から病気がちで、学校や職場を転々としていたユトリロにとって、特別な友人だったと言って良いでしょう。

二人はたびたびモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていました。

この頃、ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロを通してユッテルと知り合います。

1907年頃、ユトリロの作品はシスレーの回顧展の影響を受けながらも、奥行きのある独自の構図を追求が行われていました。

当時ユトリロは画家を目指していたといいつつも画商はついておらず、自身もまだ自分の作品を売ろうとはしていませんでした。

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パトロンの功罪-白の時代-

『ドゥイユの教会(1912)』

モンマルトルはレンガや漆喰の階段が多く、ユトリロは幼少期にそのカケラで遊んでいたといいます。そのため「白」はユトリロにとって身近な色であることがうかがえます。

ユトリロは思い入れのあった白をキャンバスに生き映すように、現場の漆喰を絵具に混ぜて使用したこともありました。

1909年の春、ルイ・リボートが最初の買い手として現れました。クロヴィス・サゴの画廊を訪れて、ユトリロの作品に目を留まったといいます。

リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引を仕掛けるほど情熱的にユトリロをサポートしたがり、そのおかげか1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品するに至りました。

これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会で、このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋でした。

同年、ヴァラドンとムージスが破局。モンマニーの館にユッテル、叔母を連れた四人で移住したものの、実質的なパトロンであったムージスを失ったユトリロとヴァラドンは経済問題に直面します。

一時期はユトリロが石膏採掘場に働きに出るものの、公衆の面前で大暴れして警察沙汰となり長続きはしませんでした。

1911年4月12日には「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕、5月10日には泥酔と猥褻の罪で起訴され「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられます。

警察沙汰が続く中、秋にセザール・ゲイという元警官と知り合います。彼は「カス=クルート」という酒場と「ベル・ガブリエル」というカフェを持っており、ユトリロに店の奥で絵を描かせてくれました。

完成した絵をセザールが店に飾ると、それが好評を博してモンマルトル一帯に認知されるようになります。

そんな中、リボートはモンマルトルの作品倉庫にあったユトリロの作品を買って売り捌き、利益を得ていました。

ユトリロの人気を聞きつけたリボートは、専属契約を交わして定期報酬の支払いを約束しました。これが経済的な安定をもたらしますが、これを聞いたユッテルは画家としての成功を諦め、ヴァラドンと一緒にユトリロに養われることを期待します。

結果、ヴァラドンとユッテルの間に対立が生まれてしまいます。

4月、フランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示することになりました。リボートは利益のためにユトリロにどんどん制作を注文しますが、それがヴァラドンとの対立に発展します。

利益に執着する三人に取り囲まれてか、ユトリロの健康状態が再び悪化しはじめます。アドルフ・タバランはリボートに責任を持って芸術家を病院に入れるように促したが、リボードはそれを拒否します。

最終的にリボードはユトリロの入院費用を支払うことで決着。

ユトリロはサノワの病院に受け入れられます。精神障害者を一時的に居住者として扱う病院の「オープン=ドア」システムのおかげで静養でき、入院中に治療の一環としてたくさんの絵を描いたことですぐに体調を回復させました。

7月末、ユトリロは友人ブルターニュへ旅行に行く計画を立てますが、リボードは「1か月に6枚以上描かない」という契約を迫ります。

結果的にユトリロは12枚以下の風景および2点の小さなカルトンしか描かず、10月末に戻ってきました。

パリに帰ってきたユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品しました。

しかし12月に再び健康状態が悪化し、サノワの病院に再入院します。今回は一年近い期間を病院で過ごすことになりますが、ユトリロの作品がサロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品され着実に人気を築きつつありました。

ヴァラドンとユッテルは自身も展覧会に参加しつつも、入院中のユトリロに代わって発表の面倒も見ていたようです。

リボードはウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催し、計31点を展示しました。しかし展示会は失敗に終わり、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送っています。

10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島へ旅行に行き、コルシカ高地のベルゴデールで20点ほどの作品を描き上げました。

コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合います。マルセイユはリボードに比べて好条件な契約を提案し、すぐに契約成立しました。

ユトリロは契約金でモンマルトルの酒場を回った結果、サノワの病院で再び治療を受けることになりました。半年に渡る治療の合間を縫って制作を続けます。

リボードはまたユトリロたちとの関係を取り戻そうとしましたが、ホテル・ドルオでの出品が失敗。出品された10点もの作品を買い戻すこととなったことをきっかけに、この結果と今まで行った過度の干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約が破棄されました。

自身を締め付ける枷のような存在だったとはいえ、リボードという安定した収入源を失ったユトリロはまた酒場に入り浸るようになります。

9月にヴァラドンとユッテルは結婚し、ユッテルが従軍します。生活を鑑みたユトリロは後軍隊に志願しますが、医学的理由で兵役を免除されます。

1914年の末にユトリロは暴行と器物破損のために逮捕され、精神病院に約三週間ほど拘束されます。1915年1月18日に退院し、その後はセザールの店で色彩の調和を探究する制作を続けました。

晩年-色彩の時代-

Les anciens moulins de Montmartre et la ferme Debray(1923年)

Les anciens moulins de Montmartre et la ferme Debray, 1923 - Maurice Utrillo

1915年末に再び酒場で騒ぎを起こし、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に入院。10ヶ月以上の監禁生活を送り、退院したのは11月8日のことでした。

ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶いませんでした。

この時期ユトリロの作品はより評価されるようになり、1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展に数枚出品されました。この時に知り合ったドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えました。

この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行しました。

白の時代の特徴である白基調の画面作りですが、アルコール依存症に特に苦しめられていた時期であり、生まれ故郷のモンマルトルの風景が印象に残っていたためと考えられています。

10年という長い年月をかけて(その間にもユトリロにとっては波乱万丈な出来事ばかりでしたが)ユトリロは故郷の思い出にとらわれることなく色彩へ踏み出すことができた証なのかもしれません。

35歳に診療所を脱走。その途中のモンパルナスで、アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)に出会います。

酒好きだったモディリアーニと意気投合し、以降は二人で絵を描くことも飲み明かすことも多くあったようです。

しかし翌年にモディリアーニが死去。死因は生まれつきの肺結核が悪化したことによる結核性髄膜炎でした。

皮肉なことにモディリアーニの死後、ユトリロの絵がよく売れるようになりました。

後にユトリロは財産家の未亡人であるリュシー・ポーウェル夫人と結婚。しかし彼女が望むままに絵を描くという画家にとっては囚人のような生活を送ることになります。

彼女はもともとユトリロの絵の愛好家、いちファンでした。しかし結婚した後は財産家と過ごした金銭感覚が忘れられないのか、これまでにユトリロが出会ったパトロンと同じように利益に執着するようになりました。

当時のパリではマリー・ローランサンを始め、女流画家が徐々に増えてきたような時代でした。しかし文化的にも技術的にも浸透していないことから高い価値を見出される女流画家は多くありませんでした。

しかしリュシーは人気画家ユトリロの妻という立場を笠に着て、画商にユトリロの絵二枚につき自分の作品一枚を抱き合わせで売り、ユトリロには歩き回って時間を無駄にしないように狭い部屋に閉じ込めて絵を描かせ続けたのです。

そんな結婚生活の最後は休暇で訪れた西海岸のダクスで72年の生涯に幕を閉じました。死因は肺充血とされています。

最後まで画家としては誰かに手綱を握られたような人生でした。

まとめ

いかがだったでしょうか。

まさに波乱万丈というべき人生を送ったユトリロ。生来の病、家族、アルコール、パトロン…数々の要素に振り回されたようなユトリロの画業ですが、その悲喜交々が綿密に込められたような彼の作品はそれに値する人気と価値を評価されています。

それを踏まえた上で、最も価値が高い作品がアルコール依存症のピークにあった「白の時代」に集中しているのは皮肉めいたものを感じます。


おすすめ書籍

モーリス・ユトリロをもっと知りたい方にはこちらの書籍がおすすめです!

ユトリロの生涯

モーリス・ユトリロの人生について書かれた本の数少ない書籍の一つです。文献から分かっている発言や、ユトリロの詠った詩などを織り交ぜて書かれており、ユトリロの波乱万丈な人生をリアルに感じることができます。1979年発行の本なので、情報や書き方が古い部分もあるかもしれませんが、それだけに貴重な資料のひとつです。


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