皆さんこんにちは、ユアムーン編集部です!
突然ですが、カミーユ・ピサロという画家を知っていますか?モネやゴーギャンと並び、印象派の画家として知られる人物です。
今回は、ピサロの作品と人生についてご紹介します!
カミーユ・ピサロは、1830年にデンマーク領セント・トーマス島で生まれ、フランスで活動した画家です。
コローの影響を受けて風景画家として出発し、第1回から第8回まで全ての印象派展に出品した唯一の画家として知られています。
晩年は新印象派の点描技法も取り入れつつ、ポントワーズやエラニーの田園風景、パリやルーアンの都市景観を描き続けました。
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Toggleカミーユ・ピサロってどんな人?
基本情報
| 本名 | Jacob Abraham Camille Pissarro |
| 生年月日 | 1830年7月10日 |
| 国籍 | デンマーク |
| 生地 | セント・トーマス島(当時デンマーク領西インド諸島、現在のアメリカ領ヴァージン諸島) |
| 実績/運動 | 絵画/印象派、新印象派 |
ピサロのいた印象派とは
19世紀パリで生まれた印象派は観たものをそのままに、鮮やかな色彩で表すことで知られています。また、当時は絵画は屋内で書くものとされていた為、屋外で実際に風景を見ながら各手法も新しく、当時の芸術家らは受け入れられませんでした。ただ、大衆からの人気が募り、現在に至るまで多くの人々に愛されました。
ピサロが絵を描き始めたころ、参考にしていたコローは風景画をよく描いた人物で、印象派の第一人者とも表される人物です。美術館でもよくコローから印象派というように、一緒に展示される事もありますね。
その、印象派ですが名前はモネの作品「印象 日の出」からとられた名前です。ピサロはそのモネやルノワール、シスレーらと共に印象派を台頭していきました。
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作品と人生
金物屋から画家へ
デンマーク領カリブ海のセントトーマス島の町シャルロット・アマリーで生まれたカミーユ・ピサロ。家族は金物屋を営んでおり、若いころはお店の手伝いをしていたようです。彼の父もピサロに家業を継いでほしいと考えており、貨物員の仕事をさせていました。
1851年、21歳のピサロは移住してきた画家のフリッツ・メルビーと出会います。そして、実家の裕福な生活から離れ、彼とベネズエラに3年間絵画修行に出かけました。そして、カラカスやラ・グアイラで膨大な量のスケッチをして過ごしたそうです。
「何も考えずに全てを捨ててカラカスへ逃れた ブルジョワジーの人生に私をつなぎとめていた綱を断ち切るために」とピサロは語っています。その後ピサロは本格的に画家として生計を立てる事を志します。
初期 パリへ
1855年、ピサロは画家としてパリに移住します。当時26歳に描いたこの作品が最初といわれています。そして1859年、美術学校アカデミー・シュイスで出会ったのがクロード・モネやアルマン・ギヨン、ポール・セザンヌといった画家でした。彼らは写実的なスタイルで製作し、後の印象派と呼ばれる画家たちです。
海のそばで雑談する2人の女 セント・トーマス島
1856年頃の作品。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)所蔵。

29歳のころ、当時フランスで最も権威のある公式美術展覧会、サロン・ド・パリに初入選したのが上のモンモランシーの風景でした。その後はサロンへの入選と落選を繰り返し、生活は苦しかったそうです。
実はピサロ、40歳を過ぎるまで親の仕送り生活をずっと続けていたとか、、、芸術家の道はそれほど難しいようですね。
モンモランシーの風景
1859年頃の作品。オルセー美術館(パリ)所蔵。

コローとの出会い
当時の画壇はアングル率いる新古典主義と、ドラック率いるロマン主義が覇権争いをしていました。その中でピサロが興味を持ったのは、カミーユ・コローらバルビゾン派の画家たちでした。
ピサロはその後コローを訪ね、「コローの弟子」を名乗るようになりました。ただ、同じカミーユではありますが、作品への美的感覚は違いがあったとか。
コローは屋外でスケッチした後にアトリエで自分の先入観を排除し、修正を加えますがピサロの場合は屋外で絵を完成させることを好み、作品をより現実的な風景にするようにしていたようです。そのため、彼の作品にはビール瓶や道端のゴミなども入っていたそうです。
| 新古典主義 | ルネサンス期の古典を再度見直し、原点に振り返る |
| ロマン主義 | 恋愛を美しく描いたり、民族意識の高揚、中世へのあこがれを作品に描く |
| バルビゾン派 | 全体的な質感、色、ゆるやかなブラシトーク、形態の柔軟性が特徴の写実主義 |
シュヌヴィエール マルヌ川のほとり
1864〜65年ごろの作品。スコットランド国立美術館(エディンバラ)所蔵。

1865年、ピサロが35歳ごろの作品です。
ジャレの丘
1867年の作品。メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵。

当時はコローの他にディスターブ・クールの技法やシャルル・ドービー、ジャン・フランソワ・ミレーといったパリの同時代の画家たちからも影響を受けていたと考えられています。
また、エコール・デ・ボザールやアカデミー・シュイスといった授業にも登録し、巨匠たちから直接絵を学んでいたそうです。
印象派画家たちとの制作
1869年、パリ郊外のルーヴシエンヌに移り住み、モネ、シスレー、ルノワールと共に戸外制作をするようになり、明るい色調の買いがを描くようになります。
クリスタル・パレス
1871年の作品。シカゴ美術館所蔵。

普仏戦争がはじまるとロンドンに渡り、画商デュラン=リュエルと知り合います。この画商が彼ら印象派の重要な後援者となり、画商として生活を支え続けました。
ヴォワザン村の入り口
1872年の作品。オルセー美術館(パリ)所蔵。

1871年にルーヴシエンヌに戻りましたが、自宅はプロイセン軍によって荒らされており、自宅に残していた作品も破壊されていました。1872年からはポントワーズに住み、田園風景を中心に絵をかきますが、サロンへの応募はせずに製作を続けました。
ここではピサロの周辺に多くの画家たちが集まり、中でもポール・ゴーギャンやセザンヌとイーゼルを並べて製作するほど才能を認め、影響しあっていたようです。セザンヌは後にピサロについて「私にとって、父のような存在だった。相談相手で、神のような人だった」と述べています。
ポントワーズのオワーズ川のほとり
1872年の作品。個人蔵。

そして、ドガやモネなど15人の画家たちと共に独自のグループ展を企画します。その中でもピサロはグループの設立運営の重要責任者を任されました。
1874年、初めて開催された展示会が後に第1回印象派展と呼ばれるようになります。ピサロはここで果樹園など5点の作品を出品します。しかし、当時主流だったアカデミズム絵画の立場からは受け入れられず、新聞からは酷評を受けました。
果樹園
1872年の作品で、原題は「花咲く果樹園、ルーヴシエンヌ」。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)所蔵。

第2回以降の印象派展
第2回の印象派展も好調とは言えませんでした。
1877年の第3回印象派展のころに初めて「印象派画家たちの展覧会」と名乗ることになります。このころ「印象派」という名称を使うことに反対する画家もいたことで、以降の路線の対立が生まれます。
マチュランの庭、ポントワーズ
1876年の作品。ネルソン・アトキンス美術館(アメリカ)所蔵。
マチュランの庭 ポントワーズは第3回に出品した作品で、医師のジョルジュ・ド・ベリオが購入しました。また、美術雑誌にピサロを高く評価する論評も発表されるようになります。
その後第4回印象派展のころから、グループ内での意見の対立が顕在化するようになります。また、展示会の名称も「独立派展」とされました。彼らの中で年上で気難しそうな画家たちの中でも温情な性格だったピサロは、仲を取り持とうと試みましたが、内部の分裂を防ぐことはできませんでした。
ロシュシュアール大通り
1880年のパステル画。スターリング・アンド・フランシーン・クラーク美術館(アメリカ)所蔵。

これらはピサロが50歳ごろの作品といわれています。
サロンに出品する画家と印象派展に分かれてしまう時代ですが、その中でもピサロは間を取り持つことを試みています。セザンヌやゴーギャンは再びピサロのもとで製作するようになり、特にゴーギャンは彼らから影響を受けました。
人物画を描く
第7回にはモネやルノワールが復帰しますが、出品の作品の多くがデュラン=リュエルの所有でした。
これにはピサロも「デュラン=リュエルの要因による展示会のようだ」と苦言を呈しています。1880年代初頭から、ピサロは従来の風景画家から、人物画家へと移行しており、第7回展には、戸外の人物画を中心とする36点を出品しました。
カフェ・オレを飲む若い農婦
1881年の作品。シカゴ美術館所蔵。

新印象派からの影響
1880年代初頭から、細かいタッチを重ねて描く方法を試みていたピサロは、1885年ジョルジュ・スーラやポール・シニャックといった新印象派に分類される画家と知り合います。
絵画において線ではなく、点の集合や非常に短いタッチで表現する点描法ですが、ピサロは特にスーラの技法に感化され、周囲の不評にも関わらず新印象派主義を追求します。
絵具をパレットの上で混ぜず小さな筆触をキャンバスの上に並べる手法で描く印象派でしたが、色の濁りや不鮮明さがありました。そのため、ピサロは初期の印象派を「ロマン主義的印象主義派」、点描法を使う印象派画家を「科学的印象主義者」と呼びました。
リンゴの収穫
1888年の作品。ダラス美術館(アメリカ)所蔵。

数年後にはあまりに人工的で不自然だということで性に合わず、新印象派からは離れてしまいます。また、1891年にスーラが急死するとピサロは衝撃を受けこう述べました。
「点描主義はもう終わりだ。スーラは明らかに、何物かをもたらした。」
1886年には最後のグループ展となる第8回印象派展を行い、ピサロは唯一の皆勤賞となりました。
部屋の窓からの眺め エラニー
1888年の作品。アシュモレアン美術館(イギリス・オックスフォード)所蔵。

晩年 印象派への回帰と都市シリーズ
その後もデュラン=リュエルの元、出品を行い作品の売れ行きも好調でした。
晩年は目の病気が悪化したこともあり、ホテルの部屋などから年の風景を描く都市シリーズを多く製作しています。また、自然豊かな風景を訪れ、ピサロらしい田園風景や街並みを描きました。
カミーユ・ピサロは1903年、73歳で亡くなりました。生涯に残した油彩画は1,500点前後にのぼるとされています。
オクターブ・ミルボーの庭 テラス レ・ダン
1892年頃の作品。個人蔵。
ル・アーブル広場
1893年の作品。シカゴ美術館所蔵。

ルーアンのボワエルデュー橋、日没、霧
1896年の作品。ルーアン美術館(フランス)所蔵。

テアトル・フランセ広場とオペラ大通り、陽光、冬の朝
1898年の作品。ランス美術館(フランス)所蔵。

カミーユ・ピサロの年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1830年 | デンマーク領セント・トーマス島で誕生 |
| 1855年 | 画家としてパリに移住 |
| 1859年 | サロン・ド・パリに初入選(「モンモランシーの風景」) |
| 1870〜71年 | 普仏戦争のためロンドンへ避難 |
| 1874年 | 第1回印象派展に出品 |
| 1886年 | 第8回(最終回)印象派展に出品 |
| 1903年 | パリで死去(73歳) |
カミーユ・ピサロの代表作
| 作品名 | 制作年 | 所蔵先 |
|---|---|---|
| 海のそばで雑談する2人の女、セント・トーマス島 | 1856年頃 | ナショナル・ギャラリー(ワシントン) |
| ジャレの丘、ポントワーズ | 1867年 | メトロポリタン美術館(ニューヨーク) |
| 花咲く果樹園、ルーヴシエンヌ | 1872年 | ナショナル・ギャラリー(ワシントン) |
| カフェ・オレを飲む若い農婦 | 1881年 | シカゴ美術館 |
| リンゴの収穫(エラニー=シュル=エプト) | 1888年 | ダラス美術館 |
| ル・アーブル広場 | 1893年 | シカゴ美術館 |
| ルーアンのボワエルデュー橋、日没、霧 | 1896年 | ルーアン美術館(フランス) |
カミーユ・ピサロに関するよくある質問
Q. カミーユ・ピサロはどこで生まれましたか?
A. 当時デンマーク領だった西インド諸島のセント・トーマス島、シャルロット・アマリーで生まれました。現在はアメリカ領ヴァージン諸島にあたります。
Q. ピサロはどんな画家として知られていますか?
A. 印象派を代表する画家の一人で、1874年の第1回から1886年の第8回まで、すべての印象派展に出品した唯一の画家として知られています。
Q. カミーユ・ピサロの代表作は?
A. 「花咲く果樹園、ルーヴシエンヌ」や「カフェ・オレを飲む若い農婦」のほか、ポントワーズやエラニーの田園風景、パリ・ルーアンなどの都市景観を描いた連作が知られています。
まとめ
いかがでしたか?
今回は印象派の巨匠、カミーユ・ピサロを紹介しました。
印象派の中でも画家たちから熱い尊敬と信頼を受け、セザンヌやポール・ゴーギャンらが大きな影響を受けたピサロ。多くの画家たちに倣い、年齢を気にせず素直に学ぶ様子は画家としての才能だけでなく、努力や人間性の良さも感じますね。近年は印象派の展示も日本でよく行われているみたいです。
気になった方はぜひ、実物の作品や画集を見てみてくださいね。








