こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはル・コルビュジェという人物をご存知ですか?
モダニズム建築の巨匠と呼ばれるスイス出身の建築家で、ヴァルター・グロピウス、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の四大巨匠とも呼ばれる有名なデザイナー・建築家です。
本記事ではそんなル・コルビュジェの人生と作品についてご紹介します。
ル・コルビュジェって?
基本情報
本名 | シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(Charles-Édouard Jeanneret,) |
生年月日 | 1887年10月6日-1965年8月27日(77歳没) |
国籍/出身 | スイス及びフランス/スイス ラ・ショー=ド=フォン |
学歴 | ラ・ショー=ド=フォン美術学校 |
分野 | 建築 絵画 |
傾向 | モダニズム建築 |
師事した/影響を受けた人物 | シャルル・レプラトニエ、アメデ・オザンファン等 |
経歴と作品
生まれと環境
コルビュジェは1887年10月6日、フランス国境に程近いスイスのジュラ山脈中の町、ラ・ショー=ド=フォンという町に生まれます。
豊かな自然と厳しい山地に囲まれたラ・ショー=ド=フォンは、時計製造で古くから知られる町で、コルビュジェの父も祖父も時計の文字盤の絵付職人でした。
母のシャルロット・マリー・アメリー・ペレはピアノ教師で、2歳上の兄のアルベールはその影響を受けて作曲家として成功しています。
コルビュジェは建築家としてのペンネームのようなもので、本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレといいます。コルビュジェがこの一風変わったペンネームを名乗り始めたのは1920年の頃で、その由来は母方の祖先にいたベルギー地方の人の名前「ルコルベジエ」が由来と言われています。
父のエドゥアールは登山愛好家で山岳会の支部長も務めていました。その影響でコルビュジェはよく登山に同行し、ラ・ショー=ド=フォンの豊かな自然に触れていました。
父の跡を継ぐことを期待され、13歳で普通教育を終えたコルビュジェは、時計の装飾職人養成コースのあったラ・ショー=ド=フォン美術学校に入学します。
恩師との出会い
『ファレ邸(1907)』
ラ・ショー=ド=フォン美術学校での生活で、コルビュジェはある恩師と出逢います。
それが美術学校の校長であったシャルル・レプラトニエです。
レプラトニエは伝統的で型にはまった芸術様式を嫌い、アール・ヌーヴォーに近い革新的な教育をおこなっていました。
父の意向に従い彫金を学んでいたコルビュジェでしたが、視力の弱かったコルビュジェは時計職人になることを難しいと感じ、徐々にその興味は芸術、とりわけ絵画の方面へ向いて行きます。 しかし、そんなコルビュジェを導いたのがレプラトニエでした。
この時のことをコルビュジェはこのように述懐しています。
「先生のひとりが(それはすばらしい先生だった)、平凡な運命から私をそっと引き離した。その先生は私を建築家にしようとしたのである。
私は建築や建築家が嫌いだったが、(略)16歳だった私は結局、先生の意見を受け入れ、その言葉に従った。こうして私は建築の世界に足を踏み入れることになった。」
在学中の1907年にコルビュジェの才能に気づいたレプラトニエの提案で、ルネ・シャパラという建築家と共に処女作『ファレ邸(1907)』の設計を手がけています。 このことをきっかけにコルビュジェは本格的に建築の道を進むことになります。
現場が教えてくれたもの
コルビュジェは『ファレ邸』の設計の翌年パリへ赴き、オーギュスト・ペレの事務所で働くことになります。 オーギュスト・ペレ(1874-1954) https://www.pinterest.jp/pin/507499451738325888/ オーギュスト・ペレはフランスの建築家で、19世紀フランスで開発された鉄筋コンクリートが建築の自由度を高めることに気づき、建築様式を確立したことで「コンクリートの父」と呼ばれました。彼によって再建されたフランスの中心街ル・アーヴルは世界遺産にも登録されています。 また1910年にはペーター・ベーレンスの事務所で働きました。 ペーター・ベーレンス(1868-1940) https://www.pinterest.jp/pin/281123201714600974/ ペーター・ベーレンスは20世紀を代表するドイツの建築家で、ドイツ工作連盟での活動を通してモダニズム建築に大きな影響を与えました。ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエが彼の事務所で働いた経験があります。 2人の建築家による指導は、コルビュジェの「とある発明」に大きな影響を与えました。
地中海と戦争がもたらした大発明 ドミノ・システム
『シネマ・スカラ(1916)』 1911年、コルビュジェは半年ほどベルリンから地中海を巡る旅行をし、そこでアテネのアクロポリスを訪れます。 古代ギリシアのシンボルとも言える石造建築を見たコルビュジェは、たいへん感銘を受けました。 この時の衝撃がとある発明を生みます。 それがドミノ・システムです。 スイスへ戻ったコルビュジェはラ・ショー=ド=フォン美術学校で教鞭を執ったのち、1914年にドミノ・システムを発表します。 今まで建築は設計に基づいて一から組み立てられるため、石やレンガを積み上げる組積式が主流でした。ドミノ・システムは住宅の要素を「柱」「床」「階段」の3つに大別し、それぞれを規格化した鉄筋コンクリートのパーツとして製造するという画期的なものでした。 このドミノ・システムの開発は16世紀のネーデルランド継承戦争でフランドル地方が受けた被害を知ったコルビュジェが、荒廃した町を見て建築(とりわけ一般住宅)の社会的な役割に関心が向いたことがきっかけの一つだったようで、鉄筋コンクリートの自由度を生かしている点はオーギュスト・ペレの影響も見られます。
ドミノとはラテン語で家を意味する「domus」とフランス語で革新を意味する「innovation」を組み合わせた造語ですが、既成のパーツを組み立てる様式は「ドミノ倒し」も想起させます。
このドミノ・システムがよく表れているコルビュジェの作品には『シネマ・スカラ(1916)』や『サヴォア邸(1928)』などが知られています。
絵画と建築に共通するもの
『暖炉(1918)』 1917年、コルビュジェは30年間住んだスイス ラ・ショー=ド=フォンを離れ、フランスに移り住みます。 鉄筋コンクリート会社に2年ほど勤め、またレンガ工場を設立したりもしましたが失敗に終わっています。このことから1920年ごろまで、コルビュジェは安定した収入を得ることができませんでした。 そんな折、コルビュジェはオーギュスト・ペレの紹介でアメデ・オザンファンと出逢います。
アメデ・オザンファン(1886-1966)はフランスの画家で、のちにコルビュジェと共に提唱することになるピュリスム(純粋主義)の代表的な人物です。
16歳まで絵画に親しんでいたコルビュジェはオザンファンと意気投合し、絵画を通して広い芸術について多くのことを学び、1918年には絵画作品『暖炉(1918)』を発表しています。 幾何学的で厳密な構図を重んじるコルビュジェの絵は、まさにこの後に生まれるピュリスムのきざしを予感させるものでした。
「建築をめざして」
1922年、コルビュジェはペレの下で働いていた従兄弟ピエール・ジャンヌレと共にパリに建築事務所を構えます。 1920年からオザンファン、そしてダダイストの詩人・ポール・デルメと『レスプリ・ヌーヴォー』という雑誌を創刊していたコルビュジェは、1923年、雑誌内で発表していた記事をまとめた著作『建築をめざして(1923)』を出版します。
「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」
書内でコルビュジェが語ったこの言葉は、彼の建築への考えを端的に示すものとして、また20世紀以降の社会にあるべき建築の条件として広く知られることになります。 これらの活動はコルビュジェの建築家としてのスタンスを明確にしたと共に、モダニズム建築への影響も大きく与えるきっかけになりました。 コルビュジェもそのことを受けてより規模が大きく社会的な仕事に目を向けるようになり、『300万人の現代都市(1922)』、『輝く都市(1930)』などパリ市街を超高層ビルに建て替える都市計画を多く発表します。 その多くは残念ながら実現することはありませんでしたが、その後の都市計画への考え方に大きな影響を与えました。
サヴォア邸と近代建築の五原則
『サヴォア邸(1928-1931)』
1928年以降に開催されたCIAM(近代建築国際会議)には、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ジークフリート・ギーディオン、ガブリエル・ゲヴレキアンらと共に参加し、中心メンバーとして活躍しました。 1931年、コルビュジェは、従兄弟のピエール・ジャンヌレと共に『サヴォア邸(1928-1931)』を設計、建設します。 20世紀建築の最高傑作とも言われ、フランスの歴史遺産にも登録されているこのサヴォア邸は、保険会社を経営する富豪サヴォア家のために作られたものです。 この建築で最も有名なのは、コルビュジェが提唱する「近代建築の五原則」を忠実に再現する典型的な作品という点でしょう。 それでは具体的に、サヴォア邸のすごい部分を近代建築の五原則と照らし合わせながら見て行きましょう。
サヴォア邸と近代建築の五原則Ⅱ
近代建築の五原則とは、コルビュジェが提唱する新しい時代の建築に必要な5つの要素のことで、 その内訳は
- ピロティ
- 自由な平面
- 屋上庭園
- 水平連続窓
- 自由なファサード(立面)
の五つです。
まずはじめにピロティとは、地上一階が柱状の構造体で構成され、外部空間となった建築様式のことです。 サヴォア邸は2階部分が持ち上げられ、1階部分の外壁が緑に塗られていることで周囲の森と調和が図られています。従来の組積式建築ではこのような軽やかな印象は与えることができないことから、コルビュジェは新しい建築の提案をすると同時に、古典的な造りの建築との決定的な差別化を強調したかったのだと考えます。
2つ目の自由な平面とは、鉄筋コンクリートの採用により柱と壁の位置関係が自由になったことで間仕切り壁や骨組みとしての柱を配する必要が減り、開放的で流動的な部屋をデザインすることができるようになったことを指します。 構造的な制限から解放されたサヴォア邸は、自由な場所に自由な空間を開けることができたため2階には3階のサンルームに続く開放的なテラスが設けられています。
3つ目の屋上庭園は、従来の角度のある屋根を撤廃して水平なファサードを作り、開放された屋上とすることでもう一つのフロアとして利用することです。 サヴォア邸では3階に彫刻的なサンセットルームが設けられ、白壁と共に近代的な印象を与えることに成功しており、今ではモダニズム建築の必須要素となっています。
4つ目の水平連続窓は、柱と壁を分離することで窓も自在に設けることができるようになったことで、シンプルで同じ形の窓を連続させた建築様式です。 屋上庭園と並びモダニズム建築に欠かせない要素とされる水平連続窓は、全体を矩形で構成することで建物全体の近代的でフラットな印象を作り上げています。
5つ目の自由なファサードとは、これまでの要素を総合した建築様式で、建物の第一印象であるファサードをこれまでより自由にデザインできることを指しています。 この近代建築の五原則は1927年の『クック邸(1927)』にはすでに実践されていましたが、完成度と影響力ともにこのサヴォア邸で完成されたとされています。
人が住むということ
第二次世界大戦の混乱を終えた1947年から、かねてより計画していた集合住宅『マルセイユのユニテ・ダビタシオン(1947-1952)』の建設に取り掛かります。 この計画と前後して、1945年にコルビュジェは新たに『モデュロール(Modulor)』理論を発表します。 モデュロールとは、「基準単位(module)」に、理想の比率である「黄金分割(Section d’or)」を組み合わせた造語で、レオナルド・ダ・ヴィンチの『人体図』や黄金比率、フィボナッチ数列などから導き出した人体に適した建築物の寸法を表したものです。 ちなみに、人種や居住環境に大きく左右されるため1932年のソビエト宮殿のコンペディションを通じてコルビュジェを知った丹下健三が、日本人版のモデュロールを制作しています。 このモデュロール理論を利用した後年の代表作には『ロンシャンの礼拝堂(1955)』、『ラ・トゥーレット修道院(1960)』などが挙げられます。
晩年
1955年、国立西洋美術館の設計のため来日します。実際の建築監督はコルビュジェの弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が担当し、日本唯一のコルビュジェ設計作品が1959年に完成しました。 1965年8月27日、南フランスで海水浴に赴いていたコルビュジェは、心臓発作が原因で77歳で亡くなります。 コルビュジェの作品のいくつかは「ル・コルビュジェの建築作品ー近代建築運動への貢献ー」として2009年に世界遺産に登録されており、その構成作品にはサヴォア邸やロンシャンの礼拝堂と並び先ほど挙げた国立西洋美術館も含まれています。
まとめ
いかがだったでしょうか。 近代建築家の中でも、数々の建築様式を開発したル・コルビュジェは「発明家」という印象が強いです。そしてその全てが現代にまで語り継がれ、モダニズム建築の基準となっているのですから驚きですね。 近年では一般住宅でも「モダンデザイン住宅」が売られているのを見ることもあり、半世紀以上の時を経ても廃れない美の基準を見つけ出したコルビュジェの功績を思いながら、住宅街にそのニュアンスを探してみるのも良いかもしれません。