こんにちは!ユアムーン株式会社 編集部です!
突然ですが、皆さんはドラ・マールという写真家を知っていますか?
20世紀にシュルレアリスムの写真家として名を馳せた一方で、
かの有名な画家パブロ・ピカソの愛人で、彼の作品である『泣く女』のモデルになったことでもよく知られている人物です。
この記事ではドラ・マールの『人生』と『作品』についてご紹介します!
ドラ・マール(1907年11月22日 – 1997年7月16日)は、フランスの写真家・画家です。
シュルレアリスムの写真家として活動する一方、1930年代にパブロ・ピカソの恋人となり、『ゲルニカ』の制作過程を撮影し、ピカソの『泣く女』(1937年、テート所蔵)のモデルとなった人物としても知られています。
この記事では、写真家としての経歴と、ピカソとの関係の両面からドラ・マールの人生と作品を紹介します。
コンテンツ
Toggleドラ・マールとは?
ドラ・マール基本情報
| 本名 | Henriette Theodora Markovitch(アンリエット・テオドラ・マルコヴィッチ)※「Dora Maar」は写真家としての活動名 |
| 国籍/出身 | フランス パリ |
| 生年月日 | 1907年11月22日 |
| 学歴/出身大学 | ・装飾芸術中央連合 ・アカデミー・ジュリアン ・パリ国立高等美術学校(フランス・パリ) |
経歴と作品
ドラ・マール年表
| 年 | できごと |
| 1907年11月22日 | フランス・パリに生まれる(本名:Henriette Theodora Markovitch) |
| 1910年(3歳) | 父の仕事の都合で一家がアルゼンチン・ブエノスアイレスに移住 |
| 1926年(19歳) | パリに戻り、アカデミー・ジュリアンやパリ市立写真学校で学ぶ |
| 1931年 | 写真家ピエール・ケフェールと共同スタジオ「ケフェール=ドラ・マール」を開設 |
| 1935年〜1936年 | シュルレアリスムの展覧会に参加。この時期にパブロ・ピカソと出会う |
| 1936年 | 代表作『ユビュ王の肖像』『Mannequin-étoile(星のマネキン)』を制作 |
| 1937年 | ピカソが『ゲルニカ』を制作する過程を撮影。同年、ピカソが『泣く女』(現テート所蔵)を制作し、ドラがモデルとなる |
| 1940年代前半 | ピカソとの関係が終わる(終了時期は資料により1943〜1945年頃と幅がある) |
| 1997年7月16日 | パリで死去(89歳) |
写真家ドラ・マールの人生
ドラは1907年11月22日、フランス・パリでクロアチア人建築家の父とフランス人の母との間に生まれました。3歳のときに父の仕事の都合で一家はアルゼンチン・ブエノスアイレスへ移り、1926年に19歳でパリへ戻っています。
家族の影響で幼い頃から芸術に触れていた彼女は、アカデミー・ジュリアンというパリで最も革新的であった私立の美術学校に通い始め、多くの著名な芸術家を輩出した国立美術高等学校を経て装飾芸術中央連合に加入しました。
学校に入学して芸術家としてのキャリアをスタートさせた当時は、初めに絵画を学んだそうです。
その後写真を学び始めると、彼女はすぐに才能を開花させ、彼女は写真家として生きていくことを決めました。
1933年にロンドンへ向かった際、1929年にアメリカ合衆国で起きたウォール街大暴落に影響されて不景気に陥った状況を目の当たりにしました。
ドラは、貧困下のストリートチルドレンを写真に収めています。
人々の悲惨な状況やファシズムに近付いた体制にショックを受け、左翼政治への関与のきっかけとなりました。
左翼組織に加入し、頻繁に他のシュールレアリスムのアーティストと共にデモにも参加するなど、政治的な行動に積極的に取り組んだドラでしたが、当時はまだ25歳だったそうです。
この若さで自分の考えを持ち、行動に移すことができる女性は当時非常に珍しかったのではないでしょうか。
この経験は、彼女がシュルレアリスムのフォトモンタージュを制作し始めるきっかけとなりました。
晩年には写真だけでなく再び絵画作品の制作にも精力的に取り組み、1997年にこの世から去りました。
人生を芸術に捧げた彼女の洗練された、奇想天外とも言われる作品を紹介していきたいと思います。
ドラとシュルレアリスム
ドラは様々な学校で芸術を学んでゆく中で、ジャクリーヌ・ランバ(Jacqueline Lamba)という女性画家や長くアシスタントをしていたマン・レイ(Man Ray)という男性の芸術家と出会い、影響され、共にシュルレアリスムを追求していきました。
そもそもシュルレアリスムとは、
現実主義を表す「realism」に、”超”を意味する接頭語”sur”がついたものです。
つまり日本語にすると「超現実主義」となります。
フロイトの「人間の無意識」を元にした芸術運動で、人の無意識や夢、欲求をテーマにしたものが多く描かれます。
有名な人物としては、サルバトール・ダリがシュルレアリスムのアーティストとしてよく知られています。
※シュルレアリスムについて全てを短く説明することは難しいため、ここでは簡潔に済ませて頂きます。
1936年に制作された作品に『Mannequin-étoile(星のマネキン)』があります。
女性が星の形をした帽子を被っているかのように見えます。
ただの帽子のようではありますが、同時に女性が眠りについて夢を見ている様子が表現されています。
女性も星のオブジェクトもどちらも現実のものであるのに関わらず、全く関係のない物が結びつくことで、まさに超現実な世界観が見て取れます。
彼女の作品では、空想と現実との境界線での絶妙なバランスが特徴的です。
こういったドラのフォトモンタージュ作品は他の作者とは方向性が異なっています。
というのも、他のフォトモンタージュ作品は政治への異議や社会的風刺に利用されることが多かったからです。
不安定な社会情勢を表した作品
『Le Simulateur(シミュレーター)』は1936年に制作された作品で、1930年代の不況による不安定なヨーロッパの社会情勢を表したものです。
背中を大きく反らしたアクロバットな姿勢の男の子の写真が、上下逆転させた不思議な建築物の写真の中に配置されています。
不気味な笑みを浮かべた男の子と暗くて荘厳な雰囲気の建物が組み合わされていて、
見ていると胸がざわつくような感覚がありますが、
同時に当時の人々の不安や第二次世界大戦の前触れを感じられます。
また、ドラのフォトモンタージュが他の作者の作品と異なる点は、新聞や雑誌の記事を用いないということです。
風景や建物の写真と人間や他の生物の写真を組み合わせることで、
うまく現実と空想の均衡を保っていたのだと思われます。
全く関連のない写真を組み合わせて人々に狙った感情をもたらすという彼女の技術を目の当たりにすると、
作品が多くの人々の関心を集めていることに大いに納得がいきます。
ピカソとドラ
やはりドラに関してよく知られているのは絵画の巨匠パブロ・ピカソとの愛人関係ですが、
1936年に出会ってから、実は9年間で破綻しています。
とはいえこの二人が出会ったことが互いの芸術活動に非常に大きな影響を及ぼしたことには間違いありません。
二人によって生み出された名作を紹介していきたいと思います。
キュビズムの代表作『泣く女』
ピカソの代表作のひとつに、かの有名な『泣く女』があります(図版は所蔵先テートの公式サイトで見ることができます)。1937年にピカソによって描かれた作品ですが、こちらのモデルになったのがドラ・マールです。
モデルはドラですが、ピカソが表したかったのは、ゲルニカ爆撃に対する人々の悲しみであったそうです。
ピカソは他にも彼女をモデルにした作品を制作していますが、どの作品においても特徴的なのがこの現実にはあり得ない配置や色使いです。
これは三次元的現実社会の概念を二次元的に翻訳するといった新しい芸術運動を伴ったもので、ピカソとジョルジュ・ブラックによって始められました。
ドラはこのような独創的な構図で描かれた自分を見て、どんな感想を持ったのでしょう。少し気になりますね。
『ゲルニカ』の製作過程
ピカソは祖国のスペインで爆撃されたゲルニカという村の悲劇を知り、非常にショックを受けました。あまりにショックでしばらく作品の制作が不可能になったほどでしたが、
怒りを燃やし、人民の叫びをキャンバスに焼き付けるために『ゲルニカ』を制作しました。
この作品はパリ万国博覧会のスペイン館に出典され、アメリカのMoMAに移されました。
そしてスペインに民主主義がもたらされた後になって1981年にスペインに返還されました。
この作品は暴力に絵で対抗した、まさに民主主義と平和の象徴であると言える大作であるのです。
そんな作品の制作過程を撮影した写真があります。
この写真はドラが撮影したものです。
当時アトリエに足を踏み入れられたのはドラと関係者のみであったため、彼女は独占してカメラでその過程を追うことができたということです。
当時芸術とピカソに日々を捧げていたドラにとって、その一瞬一瞬を見逃すことは出来なかったでしょう。
ドラ・マールの代表作一覧
| 作品名 | 制作年 | 分類・所蔵 |
| Portrait d’Ubu(ユビュ王の肖像) | 1936年 | フォトモンタージュ。パリのシャルル・ラットン画廊でのシュルレアリスム物品展で発表 |
| Le Simulateur(シミュレーター) | 1936年 | フォトモンタージュ。ポンピドゥー・センター、J.ポール・ゲティ美術館などに所蔵 |
| Mannequin-étoile(星のマネキン) | 1936年 | フォトモンタージュ |
| 29, rue d’Astorg | 1936年頃 | フォトモンタージュ |
| 『ゲルニカ』制作過程の記録写真 | 1937年 | ピカソのアトリエで撮影した連続写真 |
なお、ドラ・マールをモデルにしたパブロ・ピカソの『泣く女』(1937年)はテート(ロンドン)が所蔵していますが、この作品はピカソの作品であり、ドラ・マール自身の代表作ではありません。
ドラの晩年
ピカソと別れてからも、ドラは決して制作の手を止めませんでした。
ピカソに後押しされて絵画を再開していたのですが、1940~50年代に風景の抽象画が多く残されています。
1958年には、フランスのプロヴァンス地方の風景を描いています。
実際の風景をそのまま描いたものであるため、シュルレアリスムと大きく異なった作風ではありますが、
繊細なタッチで荘厳な大地の様子がはっきりと見ている側に伝わります。
そして1980年代には再び写真撮影を再開しましたが、そう長くは関心が続かず、
晩年はフォトグラムに取り組みました。
フォトグラムとは、カメラやレンズを使わずに印画紙上に直接物体を置いて光を当て、
その時に出来た影を定着させた画を指します。
長年カメラを使って撮影した結果、原始的な撮影方法に回帰したのかもしれませんね。
そして1997年、89歳で亡くなりました。
彼女は多くの芸術作品を作り続け、彼女の死後、家から金額にして約30億円に値する作品が発見されたそうです。
こうして死ぬまで作品を作り続けたドラ・マールは芸術家の生き様として理想的なものではないでしょうか。
よくある質問
ドラ・マールとピカソはどんな関係でしたか?
1935年末から1936年頃にかけてパブロ・ピカソと出会い、恋人関係になったとされています。関係はおよそ9年続き、1940年代前半に終わりました(終了時期は資料により差があります)。この間、ドラはピカソが『ゲルニカ』を制作する過程を撮影し、ピカソの『泣く女』(1937年)のモデルにもなりました。
『泣く女』のモデルは誰ですか?
パブロ・ピカソが1937年に制作した『泣く女』のモデルは、ドラ・マールです。現在はロンドンのテートが所蔵しています。
ドラ・マールの死因は何ですか?
ドラ・マールは1997年7月16日、89歳でパリで亡くなりました。具体的な死因は、主要な資料では明らかにされていません。
まとめ
ドラ・マールについて記事を書こうと決めたきっかけは、原田マハ著作の『暗幕のゲルニカ』を読んだことです。
ピカソとの関係の中で、彼女の凛とした生き様や女性としての魅力に惹かれました。
しかし今回記事を書くにあたって彼女の人生や作品を深く知り、女性としてだけでなく写真家としての彼女を更に尊敬しました。
この記事を読んだみなさんに、ピカソの愛人としてだけではなく、一人の才能溢れた写真家としてのドラ・マールの魅力を知って頂ければ嬉しいです。






