こんにちは、ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは、フリーダ・カーロ(Frida Kahlo)というアーティストをご存知でしょうか。
カーロは、メキシコ出身の画家で、アイデンティティ、死、身体をテーマに鮮やかな色使いで描いたセルフポートレートが広く知られている20世紀のアーティストです。本人は否定しているものの、シュルレアリストとして認識されています。
この記事では、そんなフリーダ・カーロの『人生』と『作品』を中心にご紹介します。
目次
フリーダ・カーロとは?
フリーダ・カーロ基本情報
本名 | マグダレナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frieda Kahlo y Calderón)、作家正式名は、フリーダ・カーロ・デ・リベラ(Frida Kahlo de Rivera) |
国籍/出身 | メキシコ |
生年月日 | 1907年7月6日-1954年7月13日 |
分野/芸術動向 | シュルレアリスム |
学歴/出身大学など | The Escuela Nacional Preparatoria(国立予科高等学校) |
受賞歴 | メキシコ芸術科学賞 |
公式サイト/関連サイト | https://www.fridakahlo.org/ |
カーロの人生とアート
絵を描きはじめるまで
カーロのアイデンティティ
1907年夏のメキシコシティで、スペインとネイティブアメリカンの血を引くメキシコ人の母と、ハンガリー系ドイツ人の父との間にカーロが生まれます。この自身のバックグラウンドが、のちにカーロの絵画作品を通して長年にわたってカーロのテーマとなったアイデンティティの追求の礎となります。
特に、メキシコを植民地化したヨーロッパ人と、メキシコの先住民の相反する両親間に生まれた自身のアイデンティティは尽きることない探求となりました。幼少期には、ポリオ罹患の影響で、足を少し引きずるようになったが、病気の影響は生涯続きます。父はプロの写真家でカーロとも仲が良く、スタジオでの父の手伝いを通して、カーロは観察眼を養ったといいます。1922年には、医学を志し、メキシコシティの難関国立予科高等学校に入学します。そこで、学校の講堂の壁画を制作していた後のパートナーであるメキシコの画家ディエゴ・リベラと出会います。
バスとの衝突による後遺症
1925年に、カーロはバス事故に巻き込まれ、生涯で30回以上の手術を受けなければならないほどの重傷を負います。この事故による自身の身体の傷は、《The Broken Column》に表現されています。この作品では、ほぼ全裸のカーロの身体の中央は分裂しており、壊れた背骨とそれを支える手術用の装具が描かれています。
事故からの回復は長くかかったものの、その間にカーロは独学で絵を描き、頻繁に本を読み、伝統的な絵画の巨匠たちについて学びました。カーロのリアリズム絵画への関心は、初期の作品《Self-Portrait Wearing a Velvet Dress 》(1926年)に表れています。暗い背景には波がうねり、そこには腰まである堂々としたカーロ自身の姿、そしてその顔の造形は柔らかく描かれています。また、大げさなまでに長い首と指は、マニエリスムの画家アーニョロ・ブロンズィーノへの関心を示しているとされています。怪我からの回復後、カーロはメキシコ共産党に入党し、そこでリベラと再会し、作品を見せたカーロにリベラは絵を描き続けるよう勧めます。
スタイルの確立
新たなスタイル
リベラとの結婚の影響
1929年にリベラと結婚して間もなく、カーロは画風を変えていきます。例えば、メキシコの伝統的なテワナドレスを着た自信を描くようになります。花柄の頭飾り、ゆったりとしたブラウス、金のアクセサリー、フリルのついたロングスカートで構成されたドレスは、彼女のトレードマークとなります。
カーロ自身とリベラを描いた《Frieda and Diego Rivera》(1931年)では、人物は以前の作品よりも平坦で、より抽象的になり、カーロの服装に加え、その他メキシコの民芸品への新しい関心も示されています。左側にそびえ立つリベラは、パレットと筆という作家としての道具を手にしています。その傍らで小柄で控えめに描かれたカーロは、リベラに手を添え、以前の作品よりも黒い肌をし、リベラが望んでいたと思われるメキシコの伝統的な妻という役割を表現している。
《Frieda and Diego Rivera》を描いた頃、壁画制作の依頼を受けていたリベラと一緒に、アメリカを旅行していました。旅の中でカーロは、何度も早産を経験、デトロイトでは流産し、その後母親が亡くなった後にはそれらの苦悩が表れた作品を制作します。《Henry Ford Hostpital (The Flying Bed)》(1932年)では、不毛な風景の中、病院のベッドで出血する自分を描き、《My Birth》(1932年)では、覆面をした女性が出産しているシーンを描いています。
著名人との交流
1933年、カーロとリベラはメキシコに戻り、橋でつながれた別々の個室からなる新築の家に住みました。この家は芸術家や政治活動家が集まる場所となり、ふたりは旧ソ連の政治家レフ・トロツキーや、カーロの作品を支持したシュルレアリストの代表格であるフランス詩人アンドレ・ブルトンなどを招きました。ブルトンは、カーロの最初の個展のパンフレットの序文を書き、カーロを独学のシュルレアリスムだと残します。この展覧会は、1938年にニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで開催され、大成功を収めました。
翌年、カーロはパリに渡り、作品を発表します。そこでカーロは、自身が尊敬していたと伝えられる唯一のシュルレアリスト作家、マルセル・デュシャンらと交流を深めました。ルーヴル美術館はカーロの作品《Self Portrait – The Frame》(1938年頃)を購入し、カーロは20世紀のメキシコ人アーティストとして初めてルーヴル美術館のコレクションに加えられました。
代表作とその他の後期作品
《The Two Fridas》
私生活と作品
1930年代半ばになると、リベラはカーロの妹と、カーロは複数の男女と、それぞれ不倫関係となり、1939年には離婚します。この年、カーロは《The Two Fridas》を含む代表作を描きます。1.74 × 1.73 メートルという異例の大きさのキャンバスには、手を取り合う双子の人物が描かれており、それぞれの人物がカーロの対立する側面を表現しています。左側のヨーロッパ風のウェディングドレスを着た人物はリベラが拒絶したとされる側で、右側のテワナの衣装を着た人物はリベラが最も愛した側だとされています。一つの動脈でふたりのカーロの心臓はつながりが描かれており、内部構造までが明らかにされている。血管の先は切断され、ヨーロッパ風衣装に身を包んだカーロは白いドレスに滴る血流を止めるために手術器具を持っているようにみえます。
晩年、生まれ故郷の家へ
1940年、カーロはリベラと和解し、メキシコのコヨカンにあるカーロの幼少期の家「ラ・カサ・アズール(青い家)」に移り住みます。1943年には、国立美術学校であるラ・エスメラルダの絵画科で教え始めます。しかし、カーロは体調を崩し、アルコールとドラッグに頼るようになります。しかし、そんななかでも制作活動を続けます。髪型、服装、図像を変えて数多くの自画像を描きますなかで、それらの常に無表情で揺るぎない視線のセルフポートレートが有名になっていきます。1940年代後半から50年代前半にかけて、カーロは何度か手術を受け、しばしば長期入院を余儀なくされました。晩年には、歩行に介助が必要になります。《Self-Portrait with the Portrait of Doctor Farill》(1951年)には、車椅子に座った姿で写っています。1953年、メキシコでの初めての個展は、体調不良のためベッドに横たわったまま参加しますが、その1年後、ラ・カサ・アズールで逝去しました。
フリーダ・カーロの死後の評価
フリーダ・カーロ美術館の開館
カーロの死後、リベラは晩年の家ラ・カサ・アズールを彼女の生涯に捧げる美術館として開館することを計画します。そのフリーダ・カーロ美術館は、リベラの死の翌年、1958年に一般公開されます。1995年には、1944年から54年までの『フリーダ・カーロの日記』と『フリーダ・カーロの手紙』が出版されました。カーロは生前も、芸術家として成功を収めましたが、死後の評価は1970年代から着実に高まり、21世紀には「フリーダマニア」と呼ばれるファンが生まれるまでになりました。
まとめ
いかかでしたでしょうか。
カーロは、ヨーロッパとメキシコというふたつの文化の狭間で、自身のアイデンティティを問い、セルフポートレートを精力的に描いた作家です。その肖像画は現在でも広く世界的に知られています。
バス事故による衰弱、波乱に満ちた結婚生活、センセーショナルな恋愛、大酒と薬物使用など、カーロの劇的な人生は、死後数十年間、多くの本や映画にまでインスピレーションを与えてきました。
皆さんも実際にカーロの作品をご覧になってはいかがでしょうか。